退屈な日々

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退屈な日々

黄身と白身がマーブルになった目玉焼きに、広子はため息をついた。朝から出鼻をくじかれた気分だ。 専業主婦のくせにと思いそうになったのを慌てて打ち消して、ご飯と掻き込む。 化粧にかける時間は長くて十分、髪をひっつめ髪、シュシュをつけて終わりのお手軽スタイル。 これでも入社一年目は頑張っていた。今では、外見に気を遣う暇があるなら、一分でも長く眠りたいと思う。 リビングに戻ると、丁度、朝の星占いが流れていた。 内容なんかどうせ適当に決まっていると思いつつも、つい自分の星座を確認してしまう。 「十位は双子座。油断すると失敗しそう。気を引き締めてトラブルを防ごう。ラッキーパーソンは髪の長い子」 パッとしない。通勤バッグに弁当や水筒を詰めながら、ため息を零す。 「朝から溜息なんてついて、鬱陶しいわね。こっちまで疲れるわ。あーもう」 忙しなく台所と応接間を往復していた母が、刺々しい声をあげる。 それは疲れるだろう。 弁当箱と箸箱を運んでコンロの火を消しすためだけに、キッチンとリビングを三往復もした母に心の中で突っ込む。職場でこんな要領の悪い事をしていたら仕事なんて一生終わらない。 「ちょっとぉ、お父さん、今日はお弁当いらないって書いてあるじゃない」 母が突然、カレンダーを睨んで金切り声をあげる。 「昨日までそんなこと書いてなかったのに。 昨日の夜書いたんだわ。なんで先に言わないのよ。もう作ったのに。あー疲れた。朝からほんとに疲れた」 「うるさいなぁ」 気の毒だとは思いつつ、どこが疲れているのだと聞きたくなるハイテンションな愚痴に、つい反応してしまう。 「うるさいじゃないでしょう。あんたもお父さんも本当に勝手なんだから。私がどれだけ大変な思いしてるか、分かってるの!」 案の定、更にヒステリックな声が返ってきて顔を顰める。これ以上は何も言うまいと、口を噤んだが時すでに遅し。母はマシンガンのように喋り始めた。 「主婦ってね、年中休みがないのよ。ご飯作って、掃除して、皿洗って。あぁ、もうこんな時間。ぼけっとしてないで、早く仕事に行きなさい。遅れるわよ。まったく、社会人は楽で良いわね。朝ご飯作ってもらって、ゆっくり出勤なんてほんといい身分!」 ヒステリックな声に追い出されるようにして、広子は家を出た。七時を少し過ぎていたので、早足で駅に向かう。 まだ週半ばというのに、道に寝転がってしまいたいくらい体が重い。職場と家を往復するだけで、職場に着けば後はほとんど席を立つこともなく、ひたすらパソコンとの睨めっこ。そんな生活を続けているせいか、年々体力は衰える一方だ。 空は嫌になるほど晴れているのに、町は不思議と灰色に淀んでいる。そこに人生の二文字が浮かんで見えた。 年を追うごとに毎日に退屈していく。小学校くらいまでは、もっといつもドキドキしていた。 まだ知らない何かが自分を待っている。そう無邪気に信じる事ができたからだ。 今は違う。日々はただの繰り返しでしかない。 決まった電車に揺られ、毎日同じ場所で働いて。どこを切り取っても代わり映えのしない一週間を、一か月を、一年を消化してやがて年を取って死ぬ。時々そんな当たり前の人生が堪らなくなる。 人生は平坦で退屈で、その割には苦しい事や嫌な事が多い。どうして皆、こんな事に耐えられるのだろう。 朝日に炙られる車両ではほとんど固定のメンバーが、疲れた顔でスマートフォンを見つめているか眠っている。会話が途切れれば世界が終るとばかりに喋り続ける女子高生ですら、どこか倦んだ表情だ。誰かが一抜けたら、皆きっとこの茶番から喜んで降りるに違いない。 でも、誰も最初の一人になろうとはしない。 なんてつまらないだろう。 人生なんて実のところ何の意味も無いのかもしれない。 そんなことをぼんやり考えながら、 機械のアナウンスと共に、いつもの駅で電車から吐き出される。 ありきたりな中にも小さな喜びを見つけて日々をこなしていく。それが人生であり、幸せなのだ。 そう割り切っているつもりでも、時々たまらなくなる。 今日はどうやら駄目な日らしい。 足がどんどんと重くなり、何度も立ち止まりそうになった。 オフィス街に向かう人の群れから離れて、脇道に入る。 古びたアパートの周りをぐるりと回るこの道は、遠回りになるが静かだ。 生活用水の流れる小さな川に沿って、ひしめくように並ぶ昔からの住宅の後ろ姿を見ながら、柔らかい舗装路を歩く。 鮮やかな色の蔦に覆われた建物の壁面から、 賑やかな雀の鳴き声が聞こえてくる。立ち止まると、泡の浮いたどぶ川で、セキレイが二匹水浴びをしていた。黒く光る瓦の上では烏がカンカンと音を立てて跳ね、一本道の向こうでは太った三毛猫が伸びをしている。 動物は良い。見ているだけで和む。 思わず頬を緩めつつ、時計を気にして歩き出す。時間に追われる生活など、やめてしまいたいといつも思う。 大通りへ出ると、扇田商事は、もうすぐそこだ。とたんに疲れと憂鬱が押し寄せ、訳もなく 泣きたい気持ちが込み上げてくる。 そんな時は月を探す。何処までも青い空に浮かぶ、白い昼間の月を。 それは私にとって小さな希望だった。荒れた地表を無様にさらす白くぼやけた月を見ていると、灰色のコンクリートに囲まれた窮屈な日本なんかじゃない、神秘的な宇宙に浮かぶ一つの青い惑星の中に自分たちは生きているのだと、 そんな風に思えて、救われた気持ちになる。 リセットは成功したらしい。少しだけ胸が軽くなった。今日も何とか無事に職場へ行けそうだ。 時々、そんなにしんどいのなら、仮病でもいいから一日くらい仕事を休めばいいのかもしれないと思う。でも、一度でもサボれば二度と仕事に行けない気がして怖い。  普通に働くだけでこんなに難儀するのは、私くらいだろうか。こんなことで、この先の人生をこなしていけるか不安で仕方がない。
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