変わり始めた日々

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ゆっくりとお茶を飲んで、 広子はバイトをあがったルナと並んで帰った。 「ありがとうルナ。すごく楽しかった」 「でしょ」 ルナが歯を見せて子供のように笑う。 月光に白々と浮かぶ横顔が神々しく見えて、広子は思わず目を細めた。 「一度ステージに立つ快感を味わってしまえば、  もう逃げられないわよ、ヒロ」 「なにそれ。逃がさないために歌わせたわけ?」 「どうかな」 「もうっ」 悪戯な顔をするルナの肩を軽く叩く。 華奢な感触に心臓が弾んだ。 「きれいな、月」 ルナがうっとりと呟く。 陽はすっかり落ちて、濃紺の空に煌々とした月が浮かんでいる。 喧噪に溢れる裏通りでも、月灯りは優しく美しい。 「私は、昼間の月も好きだな」 「昼間の月?」 「うん。青い空に浮かぶ白い月」 星の表面を晒した武骨な姿だが、どこか心を惹かれる。 ルナのように闇に眩しく輝く夜の月じゃなくていい。 せめて昼間の月になりたいと広子は思った。 その為に努力あるのみだ。 今夜から本格的にボイストレーニングに励もうと密かに決意する。 「昼間にも月って出てるんだ。今度探してみよ」 「うん。ねぇ、ルナはずっとあそこで歌ってるの?」 「そうだよ」 「本当に好きね。歌うの」 「うん。歌は私にとって全てだから」 「全て、か」 そんな風に言い切れるから、 ルナの歌にはあんなにも力があるのだろうか。 今からでも歌に全てをかけたら、 自分もあんなふうに人の心を動かせる歌が歌えるのだろうか。 「ところで、さっき私のこと『ルナ』って」 「あっ、ごめん。馴れ馴れしいよね、呼び捨てなんて」 やけにルナを近く感じて思わず名前を呼んでいた。 だが、それは広子の勝手な思い込みにすぎない。 「謝んないでよ。むしろルナさんとか呼ばれるの、  なんかよそよそしいと思ってたんだ」 「そっか、ごめん」 「ヒロはほんと、謝ってばっかだね」 小さく笑うルナの声を電車の音がかき消した。 何だか駅まであっという間だった。 「それより、明日、一緒に出掛けない?」 「出掛けるって、どこへ」 「買い物。服買いに行こう」 「服?もしかしてオーディションの衣装?」 やはりお揃いのステージ衣装を着るのだろうか。 恥ずかしいような、それはそれでアイドルみたいで ちょっとテンションが上がるような。 色々と妄想して一人で盛り上がる広子に、 ルナが「違うよ」と苦笑した。 「衣装っていうか、ヒロの私服って地味でダサそうだから、  オーディション用に私が可愛い服を見繕ってあげようと思ってさ。  てゆーかヒロと私がお揃い着てたらきついでしょ、年齢差的にさ」 「悪かったわね」 余計なお世話だ。 顔が引きつりそうになるのをなんとか堪えた。 悪気はないかもしれないが、なんで若い子はこうも失礼なのだろう。 「どうせヒマでしょ。いいよね」 「じゃあ、お願いしようかな」 休日出勤で溜まった仕事を片付けようと思っていが、 服のせいでオーディションに落ちたと言われるのも嫌なので了承する。 「じゃあまた明日、九時半に新松田駅で集合ね」 失礼な事を言っているとは夢にも思っていないルナは、 無邪気な顔で笑って、広子とは反対方面の電車にさっさと乗り込んだ。 席に座ってイヤホンを耳に入れるなり、もうこちらを見ようともしない ルナに、やっぱり彼女は遠い存在だという気がした。
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