退屈な日々

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まだ人の少ないフロアは、しんと冷えている。 業務は八時半からなので、電気は点けず自席でパソコンを立ち上げる。 営業あてに届いた注文のメールをチェックしてプリントアウトし、それぞれの担当者の机に裏返して置いておく。 それから、溜まっていた伝票の処理をした。 請求書や領収書の締め切りが近いので、今日中に片付けなければ。請求書をチェックし、電卓を叩いては支払い依頼書を作っているうちに、他の職員たちが出勤してくる。いつの間にか始業五分前だった。 「朝から大変だね、広子」 「おはよう、明坂さん」 同期で小、中と同じ学校の明坂百合奈を旧姓の鈴木と呼びそうになって慌てて言い直す。四月に結婚したばかりなので、まだ新しい苗字で呼ぶのに慣れない。 「残業代出ないんだから、もっとギリギリに来たらいいのに」 「そうなんだけどね」 時間をかけてセットしたのだろう緩く巻いた髪と念いりな化粧に、思わず苦笑いが浮かぶ。 百合奈が新婚だからと毎朝ぎりぎりに出勤し、定時と同時に帰ってしまうために滞った仕事が、全て自分にかかってくる。だからこっちは、頭がクリアな朝のうちに少しでも仕事を進めておこうと必死なのに。 「ホント、広子は昔から真面目だね。私なら絶対ムリ。家庭の方が大事だもん」 「別に、そんなに真面目ってわけでもないけど」 当の百合奈はこちらの負担を増やしている自覚がないらしく、やや呆れた笑みを浮かべている。誰のせいだと怒鳴りつけてやりたくなるが、独身女の僻みとしかとられないだろうので、ぐっと我慢して仕事に集中する。 「ところで見て、素敵でしょう?」 「あっ、ほんと。どこのネイルサロン?」 心底どうでもいいと思いつつ、広子は儀礼的に尋ねた。 「実は自分でやったの。最近キット買って。夏向きでいいでしょう」 パソコンに電源を入れる素振りもなく、百合奈が両手を広げてみせる。 「へぇ、すごいね。綺麗にできてる」 青のグラデーションに銀色の貝殻や白いパールをあしらった爪を、熱心に眺めるフリをして、心にもない賛辞を言う。 「でしょう。付け爪だから、家事の時に外せて楽チンなの」 「すごいねー」 じゃあ仕事の時も外せばいいのに。 請求書の山を引っ張り出して机に乗せる。しかし、百合奈はお喋りをやめない。そのうち営業部の主任、吉川葉月がやってきた。 「あら、ユリちゃん素敵じゃない。やっぱり家庭に入ってもお洒落はしないとね」 葉月は黒いドレスシャツに、大胆にスリットの入った白いタイトスカートを見事に着こなし、遅刻の後ろめたさなど少しも感じさせない颯爽とした仕草で、百合奈の前の席に着いた。 「そうなんですよー。流石、葉月さん分かってるぅ」 「母親がみすぼらしい格好をしてたら、子どもとダンナが、かわいそうだもの。季節に合わせて、身だしなみに気を使うのは大事だわ」 今年三十七歳になる彼女は、幼稚園の年長の息子と小学校二年生の娘がいる二児の母だ。それでも、広子よりはよほど身ぎれいにして、お洒落に気を使っている。 そのお洒落をやめたら始業までに来れるのではないかと思わないでもないが、悪者になりたくないので口にはしない。 「そうそう。オフィスだって華やかになりますよね。夏は涼しげに青とか、春は可愛らしくピンクとか、日本人らしく四季をあわせるのに拘ってるんですよ、私」  盛り上がり始めた二人にこれ幸いと、広子は仕事に戻った。昼までに済ませたい発注や契約書の作成など、仕事は山ほどある。 「ネイルって季節感が出しやすくていいわよね。私は子供が小さくて時間もないからマニキュアだけで我慢してるけど、そのうち、キット買っちゃおうかしら」 「買っちゃいましょうよ。職場にネイル仲間少なくって淋しいんです」 呑気な会話に苛立ちつつ、鬼の速さでキーを打つ。ひたすら請求書の金額や振込先を入力し、支払い依頼書を作る。少しでも間違えれば会計課から差し戻され、支払が遅れかねない。 せめて、作った書類と請求書の付き合わせチェックだけでも百合奈に振りたいが、新婚で浮かれている彼女にミスをスルーされて痛い目を見て以来、時間をあけて自分でセルフチェックするようにしている。 こうやって仕事が増えていくのだ。 自覚はしていても、人任せにする煩わしさから、つい自分でやってしまう。 そうしている内に、電話が鳴り始めた。おしゃべりしている二人は電話に出る素振りをみせない。もう一人の事務員、奥野芳江は三十四歳で年上なので、流石に任せてはおけない。 仕方なく手をとめて、受話器を取った。 「はい、扇田商事、相田が承ります」 「あっ、お宅、色々な商品を扱ってるんでしょ。チラシ、見たわよ」 中年かもう少し歳のいった女の声だった。勤め人とは思えない喋り方なので、一般家庭からの注文だろう。 「はい、個人のお客様ですね。ご希望の商品は何でしょうか」 「あれよ、塩分の濃度を計る機械。あるでしょう?うちのおばあちゃんが腎臓病でね、探してるのよ。漬物とか、焼き魚とか、年寄りは塩辛い物が好きでしょう」 「予算や希望のメーカーはございますか。あと、念のために塩分濃度計の用途を説明させて頂いてもよろしいでしょうか」 「メーカーなんて知るわけないでしょ。用途って、塩分を計る物が欲しいっていってるでしょ。分かり切った説明なんていらないわよ。 あんた馬鹿なの」 「申し訳ございません。ですが、塩分濃度計で計れるのは、味噌汁やラーメンのスープなどの液体のみですので」 「あ~はいはい、分かった、分かった。セールスは結構」 重要な説明だが、ガサツな口調で遮られた。 「おかずの塩分は測れません。お客様のニーズにはあっていないかと」 面倒な客を引いてしまった。内心、舌打ちをしたいのを堪えて広子は続けた。 この手のタイプは、商品に少しでも気に入らない所があれば、クレームをつけて返品しようとする。一般客の返品は認められないため、トラブルになるのが目に見えた。 「お食事の塩分濃度を気にされているようでしたら、汁物にしか使えないので、お客様のご希望に沿うのは難しいかと思います」 「なによ、売らない気。私はお客様なのよ。  売り上げに貢献してあげようってのにごちゃごちゃと五月蠅いわね。さっさと商品の値段、教えなさいよ」 「承知しました。お調べ致しますので、一旦保留にします」 広子は受話器を置くと、フロアを見渡した。 営業は部課長含め、すでに出てしまっている。係長の姿もないので、取りあえず主任の葉月に指示を仰ぐ。 「いいんじゃないの。買いたいって言ってるんでしょ。注文してあげなさいよ」  葉月は相談しがいのない軽い口調で、即答した。 「いいんですか?何と言うか、ちょっとクレームになりそうな感じの方で」 「だからって、お客さんを選ぶのは失礼でしょ」 「まぁ、そうなんですけど」 企業や学校、役所が相手なら、広子もこれほど渋らない。今の客のような一般人相手だと、利益は殆ど出ないのに、手間とトラブルの可能性というリスクばかりが大きいのだ。 これもそれも、社長息子が企画広報部長に就任したせいだ。 尊大で呑気そうな、最年少部長の顔を思いだし眩暈がする。彼は四月に就任するなり、 「これからは企業や公共団体が財布の紐を締める時代だ。一般家庭も相手にしていかないと生き残れない」 などとし言い出し、少なくない予算を割いてあちこちにチラシを撒いた。 反響はそれなりにあり、デパートやスーパーマーケットでは対応できないような細かい(というより面倒な。もっと言うなら我儘な)要望を持った客から、頻繁に電話がかかってくるようになった。おかげで事務員は今まで以上に電話応対に追われている。 それで売り上げが伸びるならまだいい。 その大半が、今の客のように言いたい事ばかり一方的に告げて、世の中に出回っていないような商品を求めてくるような客ばかりだ。 売り上げが伸びるはずもなく、対処する事務員の苦労ばかりが嵩んでいる。 「相田さん、返品ができない事だけはしっかり伝えてください」  キーボードを休みなく叩いていた奥野が、口を挟んだ。 「分かりました。では注文を受けますので」  宣言して広子は再び受話器を取った。 「お待たせいたしました」 「いつまで待たせるのよ、トロいわね。アンタ新人でしょう」 「申し訳ございません。商品ですが価格帯は二千円ほどの物から三万円ほどのものまで、幅広くございます。いずれも固形物の測定はできませんが、いかがなさいますか」 「一番安いのでいいわよ。でも有名なメーカーにして頂戴」 「承知しました。ではT社製の三千三百円の商品を発注いたします」 「いいわよ、それで!」  苛立った口ぶりに、益々トラブルの予感がしたが、葉月の指示通り続ける。 「返品はできませんのでご注意下さい。商品が届き次第、連絡致しますのでお手数ですが取りに来て下さい。代金は当日現金払いとなります。税込三千三百円のT社製塩分濃度計を一点でお間違いはございませんね」 「しつこいわね。何度も確認しないでよ。  いちいち鬱陶しい。じゃあ、なるべく早く届けてちょうだいね」 「かしこまりました。最後にお客様のお名前と連絡先を教えて頂けますか」 「はいはい。松谷千恵子よ。電話番号は分るでしょう」 「承知しました。では商品が届いたら連絡いたしますので」 言い終らないうちに電話は切れていた。 商品を受け取りに来た時のトラブルが目に浮かぶようで、今から気が重い。こんなことなら葉月に相談せず、断ってしまえばよかった。 受話器を置いた瞬間どっと疲れがでた。 ガミガミと怒鳴りつける声がまだ耳の奥に残っている。こちらを対等な人間ではなく、奴隷か何かと勘違いしているような喋り方だった。 たちまち嫌な気分になったが、いつまでも引きずっていては仕事が進まない。さっさとT社に発注の電話をかけて、無理にでも気分を切り替える。 社会に出て働くのは大変だろうとは思っていたが、毎日、他人の横柄な態度や山のような事務処理に神経をすり減らすことになるなんて、学生の時は夢にも思わなかった。こんな風に嫌な思いを我慢しても、一人暮らしもできない程度の給料しか貰えないのだから、やっていられない。 「相田さん、どんなお客様でも大切にしないと。営業さんたちのチャンスにつながるかもしれないでしょう?」 「はい」 追い打ちをかけるような奥野の言葉に、増々テンションが下がる。残業代も出ないのに黙々と、遅くまで残って頼まれてもいない 営業のフォローまでする奥野。彼女みたいにはなれそうもない。 窓の向こうの青い空には、白い月は朝と変わらず、幻のように浮かんでいた。無限の広がりの中にたった一つかもしれない奇跡の星で、命をを与えられた事自体がとてつもなくラッキーなのだ。そう強く意識する事で、落ち込みそうになる気持ちを何とか浄化して、パソコンとのにらめっこを再開した。
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