オーディション

2/9
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ
家に帰ると最初に広子を出迎えるのは、リビングから 漏れてくるテレビの音、そして母の背中。 だが今日は、戸を開けるなり母が不機嫌な顔をしていた。 「あんた最近、仕事さぼってるんだって。百合奈ちゃんが言ってたわよ」 「なによ、百合奈と会ったの?」 それにしてもサボっているとは人聞きが悪い。 少なくとも毎日二時間以上は残業している。 「スーパーで、夕食の買い物をしてたの。立派な奥さんになって、  仕事も続けて、偉いわよねぇ百合奈ちゃん。  それに引き替えアンタときたら、いつまでたっても実家暮らしで、  文句ばっかり。おまけに仕事もちゃんとしてないなんて」 失望も露わに溜息をつく。 その口元は少しだけ笑っていた。 重たく肉のついた目蓋に覆われた目は意地悪く輝いている。 まるで獲物を見つけたハイエナだ。 「何言われたか知らないけど、与えられた業務はこなしてるわよ」 「そうやって偉そうな事ばっかり言う。  他の子たちみたいにもっとちゃんと働きなさい」 学生時代は勉強、勉強、勉強。 社会辞任になったら仕事、仕事、仕事。 いつもそればかりだ。 母は一体、誰と比べて自分を追いたてるのだろう。 「ねぇ、それよりも聞いて」 言い返してやりたい気持ちをぐっと堪えて、広子はテレビを消した。 「なんなのよ。テレビ見てたんだけど」 母があからさまに迷惑そうな顔をする。 「実はね、日曜日、埼玉県で歌のオーディションがあるんだ。  その練習で忙しくて残業は控えてたの」 「えっ、オーディション?あんたが」 「まぁね。よかったら見に来ない?舞台で歌うんだ。  たぶん、けっこう大きな舞台」 誘うかどうか今日の今日まで迷っていたが、 口に出すと胸のつかえがとれた。 人生に何度あるかどうかの晴れ舞台だ。 いい年した大人が親に自分の頑張っている姿を見て貰おうなんて 恥ずかしいが、やっぱり、見せなければ勿体ないと思う。 よく考えれば、晴れ姿を見せるなんて小学校のピアノ発表会以来だ。 しかし、母はみるみる不機嫌になった。 「何言ってるの、あんた。わざわざ、埼玉県にまで行くわけないでしょ」 「来ないの?」 広子は呆けたように呟いた。 「当たり前でしょ。なんでアンタの歌ってる姿なんか見る為に、  出かけなきゃいけないのよ」 「あぁ、そう。来ないんだ」 高揚が一気に醒めていく。 「いい年してみっともない。二十五歳よ。皆は結婚して  ちゃんとしてるっていのに、いつまでも夢みたいな事言って。  おまけにオーディションで歌うくらいで、もう歌手になった  みたいにステージに来ないかだなんて、  外でそんな事言ってないでしょうね?恥ずかしい」 母は嫌悪感も露わに言い放った。 広子は自分の能天気さに奥歯を噛みしめた。 一体何を期待していたのだろう。 本気で取り組んでいるのが伝われば母の気持ちを動かせるだなんて、 大間抜けもいい所だ。 「大体、あんたが人前で歌なんて歌えるの?」 「歌えるけど」 「根暗で友達もいないのにね。あんまり下手な歌を調子に乗って  歌うと、後で恥かくわよ」 歪んだ笑みを浮かべる母を呆然と見つめる。 時々、母は自分を愛していないどころか、 憎んでいるような気すらしてくる。 これ以上、話す事はなかった。 無言で水筒に温かいお茶を入れ、席を立つ。 「広子、待ちなさい」 階段に足をかけたところで、母に呼び止められた。 「日曜日で最後だからね。それが終わったら、ちゃんと  百合奈ちゃんや会社の皆さんに迷惑かけないよう働くのよ」 迷惑をかけているのは寧ろ百合奈や葉月の方だ。 自分は文句も言わずに、彼女たちの分も一生懸命仕事をしている。 叫びたくなった。 喉への負担は厳禁だとぐっと堪え、広子は二階の自室に飛び込んだ。 ドアに背を預けて床に座り込む。 ひんやりとした木の温度に体が冷えていく。 反対に目頭は熱い。 滑り出しそうになる嗚咽を、歯を食いしばってひたすら飲み込んだ。 しゃくるような呼吸が少し落ち着くのを見計らって、歌を口ずさむ。 自分だけの為に、悲しくて甘い旋律をひっそりと紡いでいく。 まるで子守歌だ。 広子は小さく笑った。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!