退屈な日々

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いつも通り、時短勤務の葉月が三時半に帰り、 新婚の百合奈が五時半丁度に帰って行った。 今日も来客や電話に追われて事務作業があまり進んでいない。残業で少しでも仕事を片付けていくつもりだったが、社長息子の気まぐれな一声で六時から床のクリーニングが入ることになった。 久しぶりに、夕日が沈みきる前に仕事から解放された。しかし、突然のアフターファイブを手放しには喜べない。今日残した仕事は明日、明後日にのしかかってくる。少なくとも九時には帰るようにしているのだが、明日はそうも言っていられなさそうだ。 「だめだ。折角の休みだもん。今日はとにかく思いっきり休もう」 独り言を言い、いきつけのストレス解消場所へ向かう。 週半ばだからか、駅前のカラオケ店は運よく部屋が開いていた。 二時間ワンドリンクを注文し、言われた部屋に入る。大画面では流行りのアーティストが、何かのインタビューに答えていた。 自分だけの独特の世界観や歌への情熱を、きらきらした瞳で語る若いアーティストはすごく楽しそうで、羨ましくなる。 何を歌うか考えている時間も惜しくて、 とりあえずそのアーティストの歌を入れて熱唱した。何曲か歌って、キミコイの主題歌を入れた。練習しておけば、職場の飲み会や忘年会の二次会で困らないだろう。そんなことを思いつつ、アフターまで仕事の事を考えている自分にうんざりする。 澄んだメロディが流れてきた。 毎週、見ているから歌詞やリズムはしっかり覚えている。 気が付けばあなたのことばかり考えちゃう これって恋なの 笑う横顔が眩しすぎて 直視できない あなたから見た私はどんな子なの  可愛いって思ってくれてたらちょっと嬉しい 直視できない横顔ってなんだろう。 可愛いと思われていたら嬉しいとか、全く共感できない。などと余計なことを考えつつ、甘くて可愛いと評判の歌を口ずさむ。 二十五歳にもなって人には言えないが、 私はまだ一度も異性を好きになった事がない。 それを悲しいだとか、可哀相だとかは思ったことがない。ただ時々、自分は人間的に欠落しているのかもしれないと思う。 奥野もそうなのだろうか。 三十四歳にして独身で、浮いた話一つない彼女の、気真面目で硬苦しい横顔が浮かんでくる。 ベージュ味の強い口紅以外は、ファンデーションすらしていない奥野。影で寂しい人間と言われ、多分、友人もいない。 ただ黙々と与えられた仕事をこなし、 家と会社を往復するだけの日々を過ごしている。自分もいつかはあんなふうになるのだろうか。 急に興が覚めた。 サビに差しかかる前に歌をとめる。 暫く色々なことを悶々と考えて、これじゃあ休息にならないと、別の歌を入れた。 哀調の漂うメロディが流れ出す。 小学校からの友人、宮野茉理が好きだったアニメのキャラクターソングだ。 絶望的な状況の中で戦いながらも、明日を切り開いて行く少年少女をテーマにしたアニメだった。この歌はサブヒロインが、死んでしまった恋人に向けて歌うレクイエム。 これくらい極端な状況なら、自分も誰かを愛おしんで歌う気持ちを理解する事が出来る気がする。しっとりと、しかし情熱的に声を旋律にのせていく。 今、茉莉は何をしているのだろう。 県外に就職してしまった彼女とは、忙しさにかまけてずっと会っていない。 ラインでのやり取りを交わすばかりで、それも最近途切れがちだ。 歌いながら中学の時に、二人でよくカラオケに行っていたのを思い出す。あの頃は本当に楽しかった。自分の未来にも、なにかキラキラした物が待ち受けているような気がしていたし、ただ好きな歌を歌って、好きな本を読んですごしていればそれでよかった。 歌いながら、歌の背景の世界観に共鳴して切ない気持ちになってきた。 お洒落や恋に興味を持ち始めた女の子達は、 小学校の時から変わらずにアニメや漫画を愛し続けた茉理のことを馬鹿にしていたけど、アニメの歌だからダサくて、流行のアーティスト の歌だからイケているというのは変だと思う。 どんな歌でも、人の心を震わせる何かを持っていて、フィーリングさえ合えば童謡だって心に響く。 私はとにかく歌うことが好きだ。歌っていると、普段は無感動な心も音に合わせて動き出す。 それに、なにか幸福な光景が浮かんでくる。 高校で習ったイデアの世界のような光景だ。 白く眩しい日差しのなか、翡翠色の木々や鮮やかの色の花に囲まれて人々が歌っている。文明が進んで貨幣経済が発達する前は、そんな風に、誰もが歌って幸福に過ごしていた時代があったのだろうか。 できることなら、自分もその風景の一部になりたいと思う。歌って、遠くへ意識を運び、響く音に身を任せる。世界に溶けていくような感触が解く心地良い。 二番を歌い終えた時、乾いた音が聞こえた。 拍手だ。 恍惚としていた意識が一気に醒める。 慌てて口を閉じ、音のした方を振り返った。 いつからいたのだろう。 色白の女の子が、部屋の入口に凭れるようにして佇んでいた。長い髪は淡い金色で、まるで天使みたいに可愛い子だ。一瞬、本当に女神か何かに見えた。 「あっ、あなたこの前の」 廃ビルの屋上にいた子だ。 「やっと見つけた」 青みがかった大きな目を細めて笑う。 「めっちゃ、探したんだけど」 人形のように繊細な見た目に反して、蓮っ葉な口調だった。彼女を天使だと思った自分が馬鹿馬鹿しくなった。長い髪はよく見れば、明らかに人工的に染めた色をしている。 「えっ、何?」 意味が分からず目を瞬く私にお構いなく、 女の子はズカズカと近付いてくる。 「私、ルナって言うの。お姉さんは?」 「相田、広子」 「なんだ、名前も地味じゃん」 失礼な。抗議をこめてジロリと見てやったが、 彼女は少しも悪びれない。 高校生くらいだろうか。緩いパーマのロングヘア、短めの前髪から覗く大きな猫目の瞳は、 黒々とした長いまつげとアイライナーで覆われている。かなりの美人だが、ちょっとケバい。キャバ嬢みたいだ。 へそが出そうなキャミソールに、膝上三十センチ以上のミニスカートという格好も水商売を連想させる。などと、人の事を言えないくらい失礼なことを考えていると、いきなり手首を掴まれた。 「なっ、なんなの」
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