half an apple

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帰宅して簡単に夕食を済ませると、部屋で通勤用の鞄を開ける。手帳やファイルに挟まれるようにして、チラシが覗いていた。 「やっぱり夢じゃなかったんだ」 初対面の美少女にいきなりデュエットを組もうと脅される。そんな非常識な出来事、現実なわけがないと思ったが、ラインにもしっかりルナの名前が登録されていた。 ルナ、月の女神と同じ名前。 金髪にはっきりした顔立ちの、まさに女神にふさわしい容姿をしていた。本当に月の化身なのではないかというような気がしてくる。 なんてね。 夢見がちな自分を小さく笑う。彼女に関して分かるのは、高校生だろうという事だけで、あとは素性も何もわからない。そんな子とデュエットを組むなんて……。 裏面の細々とした要項を隅から隅まで確認する。オーディションは優勝即デビューというものではなかった。応募資格は十三歳から二十五歳までのアマチュアデュエットで、女性に限る。各地のオーディションで優勝者を一組ずつ決定し、七月二十日から九月までのスクールに入学させるらしい。(丁度、夏休み期間だ) 選ばれた七組の優勝者たちは、そこで歌やダンスのレッスンを受け、夏の終わりに最終オーディションに出場する。そこでグランプリを取ったデュエットがアイドルデビューする。 そういった趣旨ものだった。 つまり、一次のオーディションで優勝さえしなければ、一日だけあの奇妙な女子高生に付き合って終わりというわけだ。大勢の前で女子高生と並んで一時の恥をかくか、すげなく断って一人の若者の命を背負っていくか(本当に飛び降りるとは思えないが)。 考えるまでもなく前者の方がリスクは少ない。 「それにしても年齢制限、ぎりぎりじゃない」 チラシをもう一度確認して思わず呟く。 二十五歳。クリスマスケーキになぞらえ、 世間では過ぎれば後は売れ残ると言われる。 そんな微妙な年齢をつきつけられたようで、一瞬眩暈がした。 この前まで呑気な大学生だったのに。 これからどんな風に生きていくのか。そこには漠然とした不安と、何も変わらず年ばかり取っていくのだろうという諦念しかない。 でも、もしルナの誘いを受けたら。 もしかしたら、代わり映えのしない日常から逃げ出せるかもしれない。昨日までより少しだけ、人生に鮮やかな色彩が足されたような気がした。 オーディションでは課題曲四曲の内から好きな曲を一つ選んで歌うらしい。 別に乗り気なのではなく、ただの好奇心だ。 誰にともなく言い訳して、ノートパソコンを立ち上げた。チラシ同様、ポップなオーディションのサイトを開き、課題曲のデモを聞いてみる。 バラード調の歌、初々しい恋心を歌ったポップな歌など、まったく曲調の異なる四曲の歌はどれも音域が広く、メロディも複雑で難しい。 どれか一曲覚えればいいとはいえ、練習にはある程度の時間を割く必要がありそうだ。 それに、オーディションに出るとしたら、 それなりの服だって必要だ。 私はクローゼットを覗き込んだ。白黒ベージュと仕事用の地味な色合いの服か、ジーパンにTシャツが並んでいる。安物の山を引っ掻き回すようにして、まだお洒落だといえる水色のワンピースを引っ張り出した。 「まぁ、これなら大丈夫かな」 初任給で少し背伸びをして買ったものだ。 他所行きなので殆ど袖を通しておらず新品同然だ。 美容院にも久しく行っていないのを思い出す。 職場ではひっつめなので気にもならなかったが、伸ばしっぱなしの髪は、毛先にばらつきが出ている。いっそ髪型も変えてしまおうか。 そこまで考えてふと我に返った。 おかしな事になったと言いつつも浮かれているじゃないか。 「断れそうならやっぱり断らないと。いい年して恥ずかしいし」 呟いて、早々にベッドに入る。 明日はいつもより一時間早く出勤して、溜まった仕事を片付けなければ。 それにしても意外だ。 あんなに大人びて見える子が、大真面目に歌手を目指しているなんて。 夢を見られるのは若者の特権だろうか。 自分なんて、将来困らないようにとにかく勉強ばかりしていたのに、 今時の子は自由なものだ。 感心すると同時に、急に虚しくなった。 勉強していい大学に入らないと、将来困る。 母にそう言われ続けて大真面目にがり勉してきた。放課後の寄り道や部活、専門学校への入学など、勉強以外の一切は切り捨て、ひたすら英単語や歴史を暗記し、それなりに名の知れた大学に合格した。 そうして待っていたのは、職場と家を往復するだけの窒息しそうな毎日だ。どうしてもっと、ルナのように無邪気に好きに生きようとしなかったのか。 眠れなくなりそうだったので、考えるのを辞めて目を閉じる。先程聞いた旋律が、耳の奥に遠く響いていた。
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