オーディション

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オーディション

連日の早帰りがたたっているのか、 職場では何となく同僚たちとギクシャクしていた。 だがそれもあと数日の辛抱だ。 オーディションは明後日に迫っていた。 広子は夕食のリゾットをのそのそと口に運びながら、 職場で孤立した原因――ステージで呑気に歌っているルナを眺めた。 舞台に立つ彼女には人を惹きつけるオーラがある。 自分はその光に誘われて身を焼かれる蛾のようだと思った。 あの日、自分から毎晩すると言った練習を突然ばっくたにも係わらず、 ルナはその理由を教えてくれなかった。 思えば、彼女のことで知っているのはここでバイトしている事と、 公立高校に通っている事くらいで、後は何も知らない。 それなのに、広子は彼女に強く惹かれていた。 美しくミステリアスな歌姫。 そんな子の隣で歌うのだ。 想像しただけで興奮とプレッシャーに押し潰されそうだった。 リゾットは一向に減らず、すっかり冷めてしまっている。 「食事中にすんません。いよいよ明後日だね」 声をかけてきたのは、いつも地下の受付にいるパンク頭のお兄さんだった。 一瞬、何を言われているのか分からずに戸惑う。 レコーディングルームに忘れものでもしただろうか。 それとも歌声が五月蠅かったのだろうか。 広子は軽くパニックになった頭で、 わざわざ彼が一階に上がってきた理由を考えた。 「歌、いつも聞いてた。日に日に上達してると思う。  あんた、いい声してるよ」 クレームを言われるのではないかと体を強張らせていると、 お兄さんは無表情に言った。あまりにも無愛想な顔だったので、 広子は褒められている事に気付かなかった。 「そんなにじっと見られても」 瞬きを繰り返し見詰めると、 お兄さんは少しだけ困ったような顔をした。 「あっ、ごめんなさい。いつもお部屋をお借りしてご迷惑かけてます。  すみません」 何か言わなければと、慌てて早口に謝る。 「いや、別に俺の部屋じゃないし。  とにかくさ、オーディション明日だろ。がんばんなよ」 「ありがとうございます!」 いつも広子になどまるで無関心なお兄さんからの思いがけぬ声援に、 つい大きな声が出てしまった。 店内の客の何人かが、驚いたようにこちらを振り返る。 「はは、声大きすぎ。でもそのイキじゃん。  人に自分の音楽を聴いてもらえるってすげぇ嬉しいだろ。  楽しんできなよ。音楽仲間として応援してるよ」 赤くなって小さくなる広子に、お兄さんは初めて笑った。 不器用な、でも温かい笑顔だった。 音楽仲間。 口の中でその言葉を転がしてみる。 悪くない響きだ。 なんだか、力をわけてもらったような気になった。 九時過ぎにバイトをあがったルナと肩を並べて帰る。 お兄さんの話をすると、ルナはびっくりしたような顔で 「ヨコイダも良い所あるじゃん」と言った。 「アイツって人に興味がないってか、無関心でしょ。  そんな奴が『頑張れ』とか、ご利益ありそうだね。  私も帰る前に拝んどきゃよかった。地蔵みたいな顔してるし」 「ちょっと、失礼でしょ」 お地蔵さまのように細いヨコイダの目つきを思い出して、 広子は苦笑した。確かにご利益がありそうだ。 「まぁ、レアな応援貰ったんだし、明後日は頑張んないとね」 「ええ」 答える声が意図せず暗くなる。 明後日で広子の非日常は終わかもしれない。 その事に、この頃寂しさを覚えている。 「ところで聞いてもいい?」 「なに?」 ルナが小さく首を傾げる。 「この前、なんで急に練習休みにしたの」 我ながらいつまでも小さいことをと思うが、 どうしても気になっていた。 「あぁ、あれね」 少し迷う素振りをしてから、ルナは恥ずかしそうに話し出した。 「実は私、トレーニング代わりに学校からシークレットベースまで  走ってるの。定期がないから電車代かかるしさ」 「うそ、意外」 熱血な運動部員みたいだ。 珍しく照れているルナの顔をまじまじ覗き込む。 「腹筋と肺活量は鍛えないとね。歌手は体力仕事、体が資本だからさ。  でも遠回りして慣れない道走ったら、転んで足を捻挫しちゃって」 「えっ、大丈夫なの?」 「うん。あの時は凄く腫れて歩くのも辛かったけど、  冷やして湿布貼ったらなんとかね。でもそんなミスしたのが  恥ずかしくてさ。プロだったありえないでしょ。  だから、理由は言わずに休ませて貰ったわけ」 翌日は普通にしていたので全く分からなかった。 まだ痛かっただろうに凄い根性だ。 ルナはやっぱり本気で歌手になるつもりなのだ。 そして、その為に毎日地道な努力をしている。 くよくよと後ろばかり見ている自分とは大違いだ。 「私、小学校の文集で将来の夢に公務員って書いたんだよね」 広子は唐突に呟いた。 「はっ、なにそれ。めっちゃ真面目じゃん。つまんないなぁ」 「そう、つまんないの」 確か五年生の時の文集にのせる作文だった。 他の子たちがパティシエや美容師、タレントなどの華やかな 職業をあげて夢いっぱいの作文を書くなか、 広子だけは無難でつまらない事ばかり書き連ねていた。 多分、そんなお堅い職業を書いた子は他にいなかったと思う。 何が楽しくて生きているの。 屋上でルナに言われた通りだ。 道を踏み外さないように消極的に、無難に生きて 楽しい事なんてある筈がない。 このところ、そんな生き方を変えてみたいと思っている。 最初は二週間だけだと思っていた。 でも、もしオーディションに合格したら、 そうしたらもう少し夢を見ていられる。 オーディションは、いつのまにか広子にとって希望となっていた。 ここで優勝すれば、何かが変わる気がする。 これが人生の転換の最後のチャンスなのだ。 だとしたら、何が何でもこのチャンスを掴んでみせる。 その為に必死で練習してきたし、職場でとぎくしゃくもした。 でも、後悔はなかった。 漸く、自分の人生に何かを見つけられた。 そんな気がしていた。 「ねぇ、ルナ、なんで私だったの?」 「なにが?」 「パートナー。私以外にも歌が上手い人なんていくらでもいるでしょ」 前を見ていたルナがゆっくりと広子の方を向く。 その顔には何を今更と書いてあった。 「私と同じ匂いがしたからかな」 少し考えてからルナはぼんやりした声で呟いた。 「匂い?」 広子は目を丸くした。 まるで動物みたいな事を言う。 ふざけているのかとも思ったが、ルナの目は真剣だった。 「そう。この人の歌には何かあるって思わせる、そんな匂い。  それに、何となく私に似ている気がしたから」 よく分からないが、褒められているという事だけは分かった。 広子は小さく頷いてみせた。 「明後日のオーディション、絶対に優勝してみせようね」 「今日は、ぽんぽん話題が飛ぶなぁ」 満更悪くなさそうにルナが眉をあげる。 「それでこそ私のリンゴちゃん」 雲が風で流れて、白々とした月明かりが、にっと笑うルナを照らした。 やっぱり月の女神だ。 彼女にはいつでもスポットライトが当たっている。 見上げると、微笑むルナの白い歯そっくりの三日月が浮かんでいた。 広子は静かに、夏の訪れを告げる水っぽい夜気を吸いこんだ。
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