half an apple

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half an apple

連れてこられたのは、廃ビルだった。 やっぱりカツアゲだ。 足が震えだしたが、子供相手に情けないと、 毅然とした態度を装って後に続く。 ピアスだらけのヤンキーやスキンヘッドの大男が出てくるような 気配は今のところない。 その事に少しだけ安心しつつ、前を行く華奢な背中を睨む。 「さてと、私のリンゴちゃん」 「はぁ?」 芝居がかった仕草で、腰ほどしかない屋上の柵に凭れたルナに ひやひやしつつ、意味不明な言動に眉を顰める。 「あんた、死にたいって顔してる」 「なんなの一体。普通に失礼だし、意味が分からない」 突然女子高生に連行されて、死にたい顔などと言われる覚えはない。 大体「リンゴちゃん」ってなんなんだ。 流石にカチンときて強い口調になる。 しかし、ルナは見惚れてしまうほど綺麗な笑みを浮かべるばかりだった。 何と言うか、世慣れしている。 真面目だけが取り柄で人生経験の少ない自分より、 よほど大人びているかもしれない。 「意味ならあるわ。あんたを探してたの」 「ごめんなさい、人違いです。スマホ、返してくれる?」 おかしな人間には関わりたくない。 早口に言うと、手を突き出してスマホを奪おうとした。 「だーめ。兎に角、話くらいききなって」 「悪いけど忙しいの」 「余裕無いわね。お姉さん」 くすくすと笑いながら、ルナが空に向かって体を反らす。 一瞬落っこちるのではないかとひやりとした。 ビルは六階建てで、落ちたらひとたまりもない。 風に弄ばれた金色の髪が、残照に輝いている。 愛らしく整った風貌と相俟って、まるで一枚の絵画みたいだ。 あんな色に染めて親に怒られないのだろうか。 余計な心配をしつつ綺麗だなと思う。自由だとも。 それに引き替え自分はどうだろう。 井戸から出てきそうな重たいストレートの黒髪に、 青白くて地味な顔立ち。 服は毎日、無難なパンツスーツ。 良い大人だというのに、高校生の時とさほど変わらない。 「お姉さん、生きてて楽しいの?」 「はっ?」 だからといって、初対面の子供に人生を否定される覚えはない。 広子は思わず眉を顰めた。ついでに軽く睨みつけてやったが、 ルナは気にした様子もなく笑っている。 「こっち来なよ。良い眺めだから。言うこと聞いたら、  スマホも返してあげる」 罠のにおいがした。 しかし、獲物を捕らえたように光る猫目の大きな瞳に捕えられ、 ふらふらと足が動きだす。 「下、覗いてみて」 広子は言われるままに柵の向こうを覗きこんだ。 隙間なく詰め込まれた武骨な建物の群れと、 その間をアリの巣のように巡る道路が見える。 空は広くて美しいのに、街はごちゃごちゃと込みあっていて、 どこまでも醜い。そんな中で、心をすり減らし同じ場所を往復し 続ける自分が、ふいに虚しく思えた。 「ここから飛び降りたくなったんじゃない?死にたいって顔してる」 蕩けるような甘い声で囁かれると、そうかもしれない気がしてきた。 ふらりと身体を乗り出して、体重を前にかける。 ここから飛べば、退屈な日常から逃げ出せる。 それはひどく魅力的な誘いだった。 突然、夏の水気を孕んだ、強い風が吹いた。 はっと我に返って柵から離れる。 「ちょっと、変なこと言わないで」 もしかして新手の宗教だろうか。それとも人を誑かす悪魔か。 目の前のギャルギャルしい格好からは想像もつかないが、 派手なメイクに隠された美貌と、大きくて真っ直ぐな瞳からは、 神秘的な何かを感じないでもなかった。 「ねぇ、どうせそれくらいならさ、一緒に歌わない」 「歌?」 突拍子もない話に、頭はすっかり混乱している。 「そう、歌。わたし相棒を探してたんだ」 急に怖いくらいの真顔で広子を見つめる。 広子は問うような視線を投げかけた。 「これ見て」 ミニスカートのポケットから、ルナが 小さく折り畳んだ紙を取り出して広げる。 「チラシ?」 めんどくさいことになったと思いつつ、紙を手に取って広げる。 そこには「目指せデュエットデビュー!オーディション開催」 と、ポップな文字が躍っていた。 場所は埼玉県で開催日は一か月後だ。 「どうして私がこんなもの。冗談よね?」 「やだ、お姉さん天然?こんな所まで、冗談言うためだけに  連れてくるわけないじゃん」 ルナがクスクスと無邪気に笑う。 天然はどっちだ。広子は呆れた顔をした。 初対面の人間といきなりデュエットを組んでデビューを目指す。 学生ならいざ知らず、勤め人がそんなことできるわけがない。 「あなた、歌手になりたいの?」 「そうだよ。なんか文句ある」 きっとした返事が返ってくる。 思春期特有かもしれないが、コロコロとよく感情の変わる子だ。 「文句は無いけど、私を誘う理由が分からない。  高校のお友達と出場したらどう?」 「いや、ララは声汚ないし、音痴だし」 「そう、なんだ」 ララがどんな子かは知らないが、あんまりな言い様だ。 鈴を転がすような声で笑うルナが、悪魔に見えてきた。 「それに引き換え、お姉さん、いい声してるもん。  それに、歌上手いじゃん。私ね、カラオケ店でここ一週間、  相棒探しをしてたの。あそこ、ドアも壁も薄いから、ある程度の  音量だすと廊下に歌声が丸聞えでしょ。  で、お姉さんはお眼鏡にかなったってわけ」 「そんなこと言われたの、初めてだけど」 思いがけず褒められて少しだけ嬉しくなった自分を瞬時に恥じる。 子供におだてられてどうするのだ。 「それに、よく見るとけっこう可愛い顔してるし。若く見えるし。  コンタクトにしたらそこそこイケるんじゃないの」 「それもどうかと思う」 「えらく悲観的ね。もう少し自分に甘くてもいいんじゃない?  結局、自分を甘やかしてくれるのなんて自分くらいなんだし。  まぁとにかく、よろしく」 「よろしくじゃないわよ。二十五歳にもなって、  アイドルなんて有り得ないでしょ」 「大丈夫、二十五には見えないわよ。化粧っ気もないし、  高校生って自称しても疑われないって」 子供っぽいと言われているのだろう。 確かに今でもときどき子供に間違われるし、 スーパーで酒を買う時には必ず年齢確認を求められる。 正直、素直に喜べない。 「とにかく、やってみなきゃ分からないでしょ。  なんだったら、二十歳ってことにしとけば」 「それ、詐欺になるから。とにかく、駄目なことは駄目」 社会にまだ何の責任も負っていないだけあって、高校生は呑気なものだ。 広子が社会に向けて嘘をつけば、下手をすると法的責任を問われる。 そうすれば仕事を失って生活していけない。 とにかく冗談じゃない。 「駄目じゃないわよ。断るなら私、今から飛び降りるから」 「ちょっと待って、そんな一方的な」 空に向かって更に身体を逸らしたルナの腕を慌てて掴む。 本当に飛び降りかねない様子だった。演技なら大したものだ。 「はい、じゃあ決まり。明日の夕方六時半に此処で会おうね。  スマホに私のライン登録しておいたから」 いつの間にそんな事まで。油断も隙もない子だ。 「たまには冒険してみるのも悪くないと思うよ。  案外隠れた才能が開けて、新しい世界に行けるかもしれないでしょ」 新しい世界――その言葉に広子は一瞬だけぐらついた。 もしもオーディションに受かったら、 この退屈で息苦しいばかりの日常も少しは変わるだろうか。 思わずルナの瞳を覗き込む。 大きな瞳は澄んだ輝きに満ちていた。 「それに一目見て、アンタがハーフアンアップルだって思えたんだ」  吸い込まれたように目を離せないでいる広子に、ルナはそう続けた。 「よくもまぁ、そんな言葉知っていたわね」 リンゴちゃんとはそういうことか。 ハーフアンアップル、運命の片割れ。 聞いているこっちが恥ずかしくなりそうだが、 美しい顔立ちで堂々と告げられると、不思議としっくりきた。 こうして向き合っていると、ルナには不思議な魅力がある。 その若さと美しさにあやかれば、自分も何か変われるのではないか。 そんな予感が心を浮きたたせた。 「でも、ハーフアンアップルって、男と女の話じゃなかった?」 年下の女の子に神々しさすら感じている自分が恥ずかしくなって、 思わず突っ込む。途端に、ルナはうんざりとした顔をした。 「細かいなぁ、お姉さん。まぁいいじゃん。   とにかく、アンタだった思ったのよ」 広子にチラシを押し付けつつ細く整えた眉をしかめたルナは、 もうスレた感じのするただのギャルにしか見えなかった。 先程までの神秘的な雰囲気は幻だったのだろうか。 広子は混乱したまま、さっさっと踵を返した華奢な後ろ姿を見送った。 「あっ、それと」  ぴたりと立ち止まり振り返る。 「もし明日来なかったら、本当に飛び降りるから。私」 ご機嫌な足音が遠ざかっていく。 小学生じみた、しかし強烈な脅し文句に呆れて物も言えなかった。 彼女に付き合ったら、振り回されてしんどい思いをしそうだ。 どうしたものか。 相談するように空を見上げる。 呑み込まれそうな深い青に、近づいてくる夏の気配を感じた。
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