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『はい、森井商事でございます』
営業用の柔らかい女性の声。
「お忙しいところ恐れ入ります。あの、広瀬と申しますが――」
涼子は努めて冷静な声を作る。
『涼子? 久しぶりじゃない、どうしたの』
「理香?」
『そうよ。あ、番号間違えたの? 経理課よ、これ。二課に回そうか?』
「ううん、いい。彼、来てるの?」
『ダンナ? 来てるわよ。いつもどおり』
「そう、――ならいいの」
『――なんかあったの?』
理香が、心配そうに声を潜めて言った。彼女は涼子とは同期で仲がよく、涼子が結婚して会社を辞めてからも、たまに連絡を取り合っている。
「ううん。朝少し出るのが遅れたから、ちゃんと間に合ったかどうか心配だっただけ」
涼子は用意していた言い訳をする。
『ほんとに?』
「うん。あ、隆尚さんには言わないでね。それくらいのことで電話するなって叱られちゃうから。みんなにも」
『わかった。――けどなにかあったら言ってね。相談に乗るから』
「大丈夫よ、ほんと、何もないの。――ありがとね。それじゃあ、ごめんね仕事中に」
受話器を置いて、涼子はぽつりと呟いた。
「ちゃんと行ったんだ、会社」
電話の前に座り込んだまま、動けない。昨夜から、ずっとこの体勢のまま。玄関の鍵も開けたままだった。何度かけても電話に出ない。ラインも見ていない。
涼子は、どこかで事故にでも遭っているのだろうかと心配していた。――つもりだった。無事に会社に出社していると聞いて安心していいはずなのに、と思う。けれど、どうしようもないこの失望感。
やっぱり、彼は浮気をしているのだ――。
涼子はやっと、無意識に打ち消しながらも、自分がずっとそれを疑っていたことを自覚する。
たとえば、ほんの些細なことの積み重ね。帰りが遅くなった。詮索を嫌うようになった。会話が減った。そして、――今思えば不自然だった、あのゴルフ旅行。そう、あの頃からじゃなかっただろうか、なにか様子が違ってきたのは――。
涼子は、どんどん深く思いの底に沈んでいく。
具体的にどこがどうというのではなく――、言葉にするとしたら、遠くなった、と言えばいいのだろうか。広瀬の気持ちがどこにあるのか、掴めない。夫婦とはいえ、別々の人間なのだから、心まで読めないのは当たり前だ。
それでも、お互いに理解しあい、わかり合っているような気がしていた。今までは。
だけど――。
事故でもなく、病気でもなく、何の連絡もなく一晩中帰ってこなかった。浮気を疑わずに何を疑えというのだろう。
涼子は思わず両手で顔を覆い、詰まる息を吐き出す。
(まだ、――わからない。そうよ、ばかね、きっと私の思い過ごしよ。彼に聞けばわかることだわ。きっと何か事情があったのよ。そうよ、ちゃんと聞かなくちゃ。ちゃんと、話さなくちゃ――)
涼子は、自分の妄想を振り払うように、勢いよく立ち上がった。
マンションの部屋のドアの前で、広瀬は二度目の溜め息をついた。
結局なんの連絡も入れず、外泊。ラインも電話も、無視した。とりあえず、陽深の家から直接会社へは出たが。
涼子に、いったいなんと言えばいいのか――。
そればかり考えて、今日は一日中仕事にならなかった。それでも広瀬は、この期に及んでもまだ、マシな言い訳が思いつかない。かといって、いつまでもこんなところで立ち尽くしているわけにもいかず、――広瀬はドアのノブを回した。
ドアを開けると、
「お帰りなさい」
駆け寄ってきた涼子が、いかにもほっとした顔で立っている。
「――ただいま」
ばつが悪そうな様子の広瀬を迎え入れて、エプロン姿の涼子はキッチンへ向かった。
「心配したのよ。どうしたの?いったい」
涼子は広瀬の方を見ずに、問い詰める口調にならないよう気をつけながら言った。
「ああ、すまなかった。その、昨日帰りに部下から相談を持ちかけられて飲みにいったんだが、――家庭内の深刻な話だったんで、途中で電話をするのもなんだか、気が引けて…。悪かった、黙って家を空けたりして」
「そう…」
広瀬の苦しい言い訳に、涼子は背を向けたまま答える。
「朝まで、――飲んでたのね」
「ああ」
「――なんだ、朝会社からでも連絡くれればよかったのに。事故にでもあったんじゃないかって心配しちゃった」
涼子は振り向くと、笑顔を作って言った。
「そうだな、ごめん心配かけて」
広瀬は、涼子から目を逸らしたまま、言った。
涼子は台所に向き直ると、包丁に手を伸ばす。まな板の上には、刻みかけのキャベツ。
「ご飯、すぐ出来るから」
「優里は?」
部屋を見回して、広瀬が言った。
「三階の山中さんのところ。可奈ちゃんと遊ばせて貰ってるわ」
「こんな時間までか?」
広瀬が時計を見ながら言った。もう七時を過ぎている。
「そうね、――忘れてたわ。あなた迎えに行ってきて」
キャベツを刻みながら、言う。振り返りもせずに、一定のリズムで切り刻み続ける。
広瀬は黙って立ち上がると、優里を迎えに出て行った。
もう陽の傾き始めた午後、陽深は久しぶりに河畔に下りていた。
ここしばらく外へ出るのは食事と銭湯に行くときだけで、絵も描かずにただ電話を見つめ、広瀬の訪れを待っている。そんな自分が嫌で、行くあてもないのに無理に部屋を出た。
あの朝、目を覚ますともう広瀬はいなかった。一人残されたがらんどうの部屋。広い窓から差し込む白々とした朝の日差し。引き止める勇気もないくせに、広瀬の優しさに甘えてしまう自分を、浅ましいと思った。
川べりに座りこみ、冷たい水の流れに視線を落として、思う。
これではまるで、――母と同じだ。
顔以外、どこも似たところなどないと思っていた、誰よりも遠いところにいたはずの母と。
陽深は立てた膝に顔を埋め、自らに言い聞かせるように呟いた。
――なにも、欲しいものなんてない。人の幸せを壊してまで手に入れたいものなんて、僕にはない。
「川合さん?」
不意にかけられた声に、びくりと顔を上げる。
「奥さん…」
少し離れたところに、涼子が立っていた。一人で。
「大丈夫ですか? そんな薄着じゃ風邪引きますよ」
そう云って近づいてくる涼子の方も、薄いセーター一枚にショールを羽織っただけの寒そうな姿だった。
「お久しぶりですね。最近来ていなかったでしょう? あの場所に」
「…ええ」
「あの日以来、全然お見かけしなかったし、あのとき優里が無理言って送ってもらったりしたから…」
「いえ、別にそれは、――もうあそこの絵は描きあがったので、家で仕上げをしてたんです」
陽深は立ち上がると、慌てて言い訳をした。本当は絵なんて途中で投げ出したままだった。
「そうだったの。よかった」
そう云って微笑んだ涼子の表情はどこか沈みがちで、顔色も悪く、なんだか様子が変だった。そのまま、立ち去る様子もなく、黙って立っている。
「今日は、優里ちゃんは?」
「お昼寝してるわ」
「一人で、ですか?」
「ええ、よく眠っていたから」
そうは言っても、まだニ、三歳の子供を置いて出てきたのだだろうかと訝しく思う。
「小さい子供って、こっちが元気がときは可愛いけど、――なんか、煩わしいわ」
「広瀬さん?」
思いがけない涼子の言葉。気分の悪そうな様子に陽深が近寄りかけたとき、涼子の体がぐらりと傾いた。
「大丈夫ですか!」
支える陽深の腕に捕まって力なく頷く。
「ごめんなさい、貧血かしら。――このごろ、よく眠れなくて…」
上着も着ずに、足元はサンダル履き。ここは陽深のアパートのすぐ前で、広瀬のマンションからはかなり離れている。少なくとも、こんな格好でちょっと出るような距離ではない。
「すぐ家に帰って休んだ方が、――送ります。大通りに出て、タクシーを」
いくら避けていたとはいえ、こんな状況では放っておけなかった。
「…大丈夫です。歩いて帰れますから」
涼子はおぼつかない足取りのまま、河畔の遊歩道を一人で歩き出した。陽深は仕方なく、涼子を追って歩きだす。
「川合さんって、独身でしたよね」
先に立って歩いていた涼子が、ポツリと言った。
「ええ――」
「じゃあ、わからないかしら」
「え?」
「浮気する夫の心理」
陽深は思わず立ち止まっていた。
彼女は、なにもかも知っている?――まさか。
「川合さん?」
急に立ち止まった陽深に、涼子が訝しげに振り返る。陽深は慌てて歩きだした。このまま、逃げ出すわけにもいかない。
「すみません」
「誰でも、一度はあることなのかしら」
黙ったままの陽深に、涼子は勝手に続ける。
「ばかよね、私。あの人に限って、なんて勝手に思い込んでた」
「その…、誤解じゃないんですか? ご主人が、――そう言ったんですか」
「まさか。――でも、わかるのよそういうのって。間違いない」
「でも…」
「わかるのよ! だって――」
彼女は両手で顔を覆うと、涙に震える声で続けた。
「ずっと好きだったの。兄の親友だったあの人が、初めて家に遊びに来たときからずっと」
陽深は、ただ黙って立ち尽くしていた。
「そのときから、彼の奥さんになるんだって勝手に決めてたの。だから、結婚できてほんとに幸せだった。いい奥さんになろうって、一生懸命努力してたわ。でも――ほんとはずっと怖かった。先に好きになった方が、より愛している者の方が不安なのよ。――ただの浮気なら、戻ってきてくれるなら、見てみない振りも出来るけど」
「もし本当にそうだったとしても、――きっと戻ってきてくれますよ」
ふいに胸をせり上がってくる痛みに、喉が詰まる。なぜ、ここで自分はこんなことをしゃべっているのだろう――。陽深は思考の麻痺した頭で、漠然と思った。
「いっときの感情より、大切なのは家族でしょう?」
「でも、恋愛感情は理屈じゃないわ。遊びで浮気なんてできる人じゃない。優しい人だから――」
「優しい人だから、あなたや優里ちゃんを捨てるはずがない――」
最初からわかっていたはずのことなのに、口にすればそれは、目を背けようのない現実として、突きつけられる。
「川合さん…」
涼子は顔を上げて、縋るように陽深を見つめる。
「ほんとに、――そうかしら?」
「ええ」
条件反射のように張り付いた、陽深の微笑み。
「――やだ、ごめんなさいね。私、どうかしてるわ、いきなりこんな話をして…。でも、ずっと誰にも言えなくて、一人で考えてるとどんどん落ち込んじゃって」
涼子はそう言って肩を竦めると、ぎごちなく笑う。
「男の人にこんな話しても迷惑なだけなのはわかってるんだけど、なんか川合さんなら聞いてくれそうな気になって…。ごめんなさい」
「いいえ――、それより、早く戻らないと」
もう日も暮れてきた。冷え込みの厳しい川沿いのこの道では、いっそう風が冷たい。陽深は涼子を促して歩き出した。
マンションの前まで来て、すぐに引き返そうとする陽深を、涼子が無理に引き止める。陽深は仕方なく部屋の前まで来たが、少しでも早くここを離れたかった。
「優里も喜ぶし、少しだけでも上がっていって下さいな」
「でも、もう夕食の支度もあるでしょうし、ご主人も――」
「大丈夫よ。主人は遅いの、最近はいつも」
思い出したように、涼子の表情が曇る。玄関先からの声に気付いて、優里が泣きながら飛び出して来た。
「ママ!」
「ごめんね、優里。――はいはい、一人で寂しかったのね」
縋りついてくる優里を抱き上げてあやす。その間に立ち去ろうとした陽深を見つけ、優里が泣き止んだ。
「絵描きさんだ!」
手を伸ばしてくる優里に、仕方なく頭を撫でてやる。
「こんにちは、優里ちゃん。いい子にしてた?」
「うん!」
涙の残る顔で、もうにこにこと笑っている。
「おもちゃ出しっぱなしにしてない? 優里。お客さまだから、お片づけしてね」
「はぁい」
涼子の言葉に、優里は嬉しそうに中へ駆けていく。これでは、帰るに帰れなくなってしまう。
「でも、ほんとにもう、――今日は、本当に用があって」
「急ぐんですか?」
「ええ」
「そう…、残念だけど、仕方ないですね――」
ようやく陽深がほっとしたそのとき、廊下の突き当たりのエレベータが、ちょうど五階で止まった。エレベータの方に目を遣った陽深は、降りてきた人影に立ちすくむ。
「広瀬さん…」
思わず呟いていた。
「陽深――」
降りてきたのは、広瀬だった。
陽深の姿を認め、驚いて立ち尽くす広瀬の様子に、涼子は不思議そうに言った。
「知り合い、なの?」
「あ、いや」
広瀬は、うろたえて言いよどむ。
「すみません。じゃあ、僕はこれで」
我にかえった陽深は、慌ててその場を離れようとする。すぐ横をすり抜けようとした陽深の肩を、広瀬は思わず掴んでいた。
「あ、待って川合さん」
「どうして君がここに」
重なる二人の声を、食い込むような広瀬の手を振り切って、陽深が駆け出す。
「陽深!」
その背を追う広瀬。
「隆尚さん――!」
残された涼子は、何がなんだかわからないまま、ただ呆然と二人を見送っていた。
「陽深!」
エレベータの横の非常階段へ逃れた陽深だが、階段の途中で広瀬の腕に捕まる。広瀬は掴んだ陽深の肩を、踊り場の壁に押し付けて言った。
「いったい、どういうつもりだ! なんでうちに」
荒い息と、反響のせいで、思ったより激しい言い方に聞こえる。滅多に人が通らないとはいえ、マンションの中だ。広瀬は声を落とそうと努力した。
「広瀬さん、痛い」
コンクリートの壁に押し付けられて、背中が軋む。陽深は、なぜ広瀬が怒っているのかわからなかった。
「どうして、うちに来た? 涼子に何を言うつもりだったんだ」
無理に抑えた、低い声音。ようやく陽深にも、意味がわかった。
「なにを、――僕がなにを言うっていうんです?」
陽深はまっすぐに広瀬を見据えて云った。
「それは――」
広瀬は口ごもり、掴んでいた手が緩んだ。
「あなたのご主人は、僕と浮気していますとでも? 別れてくれとでも?」
「――すまない、そうじゃない。――悪かった」
広瀬は手を離すと、幾分落ち着いた声で云って、深呼吸のように深い溜め息をついた。
陽深は冷たい壁に凭れたまま、そんな広瀬を見つめる。
疲れた顔。優しくて、誠実で、身勝手な男。どんなに想っても、もうどうしようもない――。
「もう、――終わりにしましょう」
どうしても言えなかった一言が、自然に口をついた。
「陽深?」
何を言っているのかわからないと言いたげに、広瀬が陽深を見る。
「すぐにでも、この街を出ます。二度と、あなたたちの前には――」
「どうして!」
陽深の言葉を遮るように、広瀬が声をあげる。
「今なら、間に合います。なにもなかったことに出来る。このまま、――奥さんのところに戻ってください。なにもないと、愛しているのは君だけだと…。それで、元通りです。あなたは、――もとの生活に戻れる」
言葉を無くした広瀬の腕から、陽深がすっと身を引いた。
「陽深…、だめだ、そんなつもりじゃない、なかったことになんて――」
戸惑いがちに伸びてくる手を、陽深はどこか現実感に欠けた意識でぼんやりと見つめていた。
その腕も、肩も、瞳も、匂いも、体温も、永遠に自分のものにはならない。自分のもとにあるのは幻でしかないのだと、もうとっくにわかっていたのに――。
「さよなら」
陽深は、はっきりと告げた。
宙でとまる、広瀬の腕。脇をすり抜けて、陽深は階段を駆け下りる。
陽深は、母親のようにはなりたくなかった。幻に取り憑かれ、淋しさに連れていかれた、――あの母のようには。
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