トロイメライ

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 「なにしてるんだ?」  「掃除です」  その夜遅く広瀬が戻ると、陽深はごしごしと台所の流し台を擦っていた。  「こんなに夜遅くしなくても、昼間やればいいのに」  「ええ、でも――暇だったし、きれいにしていきたかったから」  陽深は水を流しながらそう言うと、広瀬の隣に腰を下ろす。  「お風呂に行くでしょう?」  「え?」  「銭湯。早く行かないとしまっちゃいますよ。そこに、着替え置いてますから」  部屋の隅に新しい下着と、Yシャツが置いてあった。靴下も。そういえば今朝は、前日のままの格好で会社に行った。  「よく気がつくね」  感心したようにいう広瀬に、陽深は当たり前のことのように、そうですかと小首をかしげた。  陽深はずっと一人暮らしだったせいか、そういうことにはとてもよく気が回る。人見知りで、世間に疎いところのある陽深の意外としっかりした一面に、広瀬は妙に感心していた。けれど、だからこそ彼は自分で自分のことはなんでも出来るのだとも言える。誰に頼らなくても一人で生活していくことが出来るように。  反対に、優秀なビジネスマンで一人前の社会人であるはずの広瀬の方は、洗濯さえ満足に出来ない。生活に必要な細々としたことはすべてやってくれる人が、常にそばにいたから。  「銭湯なんて、何年ぶりかなぁ。昔、家風呂の改装のとき行ったことがあるくらいだな」  広瀬は感慨深げに呟いた。  「そうか――。今はほとんどの家にお風呂ってあるんですよね」  陽深は陽深で、感心したようにそう言うと、ちょっと微笑んで続ける。  「僕はよく行きますけどね」  「じゃあ、これからは一緒に行こうな」  広瀬の言葉に、陽深ははにかむように笑って頷いた。  広瀬は、そんな和やかな空気のなか、ふと思い出す。  優里はまだ、家風呂にしか入ったことがない。広瀬が会社の慰安旅行で行った温泉の話を聞いて、優里も大きいお風呂に入りたいと云いだしたのだ。だがそうすぐに家族旅行というわけにも行かず、とりあえず代わりに銭湯に連れていくと約束をした。それでも、優里はそれをとても楽しみにしていて――。  『ねえ、どれくらいおっきいの? パパもママもゆりも、一緒に入れるくらい?』  嬉しそうにはしゃいでいた優里。みんな一緒には無理よと笑う涼子に、どうして、すんごい広いのにだめなの? と真剣に訊いていた、まだあどけない、小さな娘――。  「…もう、きれいになにもなくなっちまったな。まぁ、初めから大きな荷物はなかったけど」  広瀬は、もう考えまいと振り切るように口を開いた。  「ええ、絵の道具類や細々したものも全部、今日東京に送りました。布団は借り物だから、明日返します。退室の手続きもほとんど終わったし」  「そうか」  「会社のほうは?」  「ああ、もういいよ。どうせすべて片付けていくことなんて出来ないし、最低限のことはなんとかね――」  会社のことなんかより、放っては行けない一番重要な問題をお互いが口に出来ずにいた。このまま目を背けて、忘れたふりが出来るなら――。  「新幹線のチケットもとりました。明日の東京行き12時25分発の、のぞみ」  「――ありがとう」  広瀬は胸ポケットの煙草を探って、思い出す。ああ、ここに灰皿なんてないな――。  一息おいて、広瀬は思い切って言った。  「今日な、高村に会ったよ」  「え?」  「涼子の兄で、俺の学生時代の友人の。――わざわざ会いにきたんだ、東京から。駆け落ちするにしても、ちゃんと二人のことにケリをつけてからにしろってさ…。だから、明日一度家に帰るよ」  「そう、――ですね。じゃあ切符は、キャンセルした方が」  努めて冷静に、なんでもないことのように淡々と、陽深は言った。  「いや、いいよ。それまでには戻るから。列車の時間には必ず間に合うように」  「――いいんですか?」  「ああ、――心配しなくてもいい、もう結論は出てるんだから」  広瀬は微笑んで、陽深の冷たい体を抱き寄せる。  陽深はただ、広瀬の言葉を信じるしかなかった。  朝、陽深が目を覚ますと、広瀬の姿はもうなかった。枕もとに一枚のメモ。  ――もし遅くなったら、駅の改札で待っていてくれ。必ず行くから。――と。  陽深は、寝起きのまだはっきりしない頭で、そのメモをぼんやりと見つめていた。  昨夜、彼はなんて言っていた――? 彼は、帰る、と言った。それは無意識の、ごく自然な文脈から出た言葉で。それは陽深にも、よくわかっていたけれど。  ダイニングテーブルに置かれた離婚届を挟んで、広瀬と涼子はもうずっと同じ言葉を繰り返していた。  「頼む、サインしてくれ」  「いや。絶対に」  涼子は机の下へ両手を隠すように、膝にぐっと拳を押し付けたままだった。  広瀬は、陽深の部屋を出ると先に市役所へ寄り、離婚届の用紙をもらってからここへ来た。二人でよく話し会うようにと、優里は高村が連れ出している。  「君にはすまないと思っている。謝ってすむような問題じゃないことも」  「じゃあ、行かないで」  「涼子――」  「お金とか、家とか、優里の養育費とか、そんなものいらない、そんな話聞きたくない! 謝って欲しいんじゃないわ。どこにも行かないって言って、それしか聞きたくない!」  涼子は離婚届を乱暴に掴み取ると、細かく破り捨てる。思わず立ち上がった広瀬を、潤んだ目で睨みつけて云った。  「こんなもので、今までの生活をすべて切り捨てられるの? そんなに簡単に、私と優里を切り捨てられるの?――私たち、うまくやってたじゃない! 仕事だって――。私、幸せだったわ。あなたがいて優里がいて、この家で幸せだった。あなたはそうじゃなかったの? 全部私の独りよがりだったっていうの?」  「――そうじゃない」  広瀬は、疲れたように首を振る。捨てたくて、捨てるわけじゃない。彼は家族を愛していた。幸せだった。こんなふうに愛するものを裏切っている罪悪感に、もう押し潰されそうだ。考えることすら、身を切られるような苦痛だった。  「じゃあ、帰ってきて! やり直しましょうよ。まだ戻れるわ」  広瀬の腕を掴んで揺さぶる涼子に、彼は力なく首を振った。  「私と離婚したって、彼と結婚できるわけじゃないじゃない! 彼と一緒に行ってどうなるっていうの? 幸せになんかなれっこないわ! 後悔するに決まってる」  広瀬は、振り切るように涼子の肩を押し戻す。  少し痩せた細い肩の感触、涙に濡れた縋りつくような瞳。夫として家族として、一生守ると誓ったはずの女――。守るべきものを裏切り傷つけている自分。  「もう行かないと…」  「いや――」  「ごめん、涼子」  玄関へ向かう広瀬を、涼子が追う。靴を履こうとする広瀬に取り縋る。  「待って! いや――、お願い、行かないで隆尚さん。優里はなんにも知らないのよ? 優里になんていうの?」  一瞬、広瀬の動きが止まる。  「あなたの娘なのよ! あんなに可愛がってたのに、捨ててくの? なんてひどい父親なの!」  「涼子、お願いだ。もう」  広瀬は、その場に凍りついてしまいそうな足をなんとか前に出そうと努力した。  陽深が、待っている。必ず行くと、――約束したのだ。 扉を開けて出て行く広瀬の後ろ姿を、涼子にはもう、引き留める術はなかった。それでも――。  「待ってるから」  戸口から消えていく広瀬の背中に叫ぶ。  「私、ずっと待ってるから! ここで、この家で、あなたが帰るのをいつまでも待ってるから!」  陽深は、改札横のコンクリートの柱にもたれてじっと立っていた。改札中央の時刻表示は12時7分。小さく溜め息をついて視線を落とす。もう30分以上も前からここで、何分かおきに同じ動作を繰り返していた。  陽深はポケットからそっと、二人分の乗車券を取り出した。そして、片方をポケットに戻す。  手の中の、もう一人分のチケット――。無駄になるのだろうか。  案外、冷静な自分がなんだか不思議だった。本当は、信じてなどいなかったのかもしれない。期待なんてするだけ空しいものだと、よく知っている。  顔を上げて、もう一度時計を見た。あと――5分だけ。  「陽深!」  呼ぶ声に、振り向く。広瀬が駆けてくる。  「広瀬さん…」  「ごめん。遅くなって――」  息を切らせながら腕時計を見て、大きく息をついた。  「ああ、なんとか間に合ったな」  陽深は、なんだか信じられない思いで、目の前の男を見つめていた。  「陽深?」  「――来ないかと、思ってた」  消え入りそうな陽深の呟き。  「なぜ? 約束しただろう、ちゃんと」  そう、確かに約束をした――。陽深の顔に浮かんだ寂しい笑みに、広瀬は気付かない。  「あ、そうだ。これ」  広瀬は急に思い出したように、コートのポケットから小さな包みを取り出した。  「なに?」  「この間、なんとなく買ってしまったんだけど。――渡しそびれてた」  「僕に?」  「ああ、たいしたものじゃないんだが――」  「ありがとう。――これ」  陽深はその小さな箱を受け取ると、代わりに持っていたチケットを差し出した。  「ああ」  東京行きのチケット。こんなたった一枚の小さな紙切れが、なぜか広瀬にはとても重く感じられた。  広瀬はそれを胸の隠しに入れると、ちらりと時計を見遣る。  「まだ、大丈夫だな。なにか――飲み物でも買ってくる。待っててくれ、すぐ戻るから」  そう言って、広瀬は柱の影にあった自動販売機に向かった。お茶を二本買い、取り出し口に手を入れようとして、――そのまましゃがみ込んでしまう。  (しっかりしろ! ここまで来て、今更なにを迷うっていうんだ)  疲れているのだと思った。体も神経も、ひどく。休まなくてはいけない。ゆっくりと安心できる場所で――。  広瀬を呼ぶ優里の声が、涼子の泣き顔が、浮かぶ。石のように重い体を無理に引き起こした。考えてはだめだ。今は、考えるな。  大きく息をついて、広瀬は顔を上げた。行かなければ――。  広瀬が待ち合わせの場所に戻ったとき、そこに陽深の姿はなかった。慌てて周りを見渡す。荷物もない。もう出発の時刻まで間もないというのに、どこへいったのだろう。まさか先に? 焦る広瀬のポケットで、スマホが震える。陽深からのラインだった。  『一人で行きます。ありがとう。   来てくれて嬉しかった』  広瀬は、呆然とその文字を見つめる。  どうして、一人で行かねばなならない? 二人で行こうと言ったのに。ずっとそばにいると。約束通り、何もかも捨てて、ここへ来たのに――。  電光掲示板の、のぞみ215号の出発時刻表示が次発から先発に変わる。  広瀬は、我に帰ると上着から自分の分のチケットを取り出した。追いかければいい。まだ間に合う。  切符は自分の手の中にある。  だが、広瀬の足は動かなかった。ただ体重を支えるだけの、少しでも動けばバランスを崩して倒れてしまう棒切れのように、ぴくりとも動かなかった――。  陽深は列車の座席に座り、ただ息を詰めて発車を待っていた。ホームを見渡せる窓からも、車両の入り口からも目を背けて、追いかけてくる彼の姿を探さぬように。  ようやく、発車合図のメロディが響き始め、目を閉じた陽深の耳に、車掌のアナウンスと扉の閉まる音が聞こえた。ゆっくりと動きだした列車の振動が、体に伝わってくる。  目を開けた陽深の視界から長いホームが流れて消え去り、徐々にスピードが上がっていく。  陽深はようやく全身の力を抜いた。  これで、――よかったのだと、陽深は思った。  陽深は、あの母娘が好きだった。幸せな、優しい彼女たちが好きだった。なによりも、優しい夫としての、父親としての広瀬に惹かれたのだと、気付いてしまった――。  彼らを引き裂いて手に入るものなど、何一つありはしないのに。本当はそんなこととっくに、わかる過ぎるくらいわかっていた。二人とも。  それでも、諦められなかった。わかっていてもどうしようもなかった。ただ、お互いを失いたくなかっただけなのに――。  陽深は、息苦しさに歪む顔を、両手で覆う。  もういい。広瀬は、ずっとそばにいてくれると言った。そして約束どおり、来てくれた。これ以上、何を望むというのだろう。最初から、なかったと思えばいい。もとの生活に戻るだけだ。  陽深は、そう自分に言い聞かせた。  (辛くなんかない――。息苦しいのは、強すぎる暖房のせいだ)  身じろぎした陽深の手が、なにか硬いものに当たる。ポケットの中の、小さな包み。陽深は、広瀬がくれたその包みを取り出した。  何かを欲しいなんて、一度も言ったことはなかった。本当に欲しかったのは――。  空いたままの、隣の席。陽深は無意識にそちらに向けていた視線を、戻す。  細いリボンと包装紙の下は、綺麗な瑠璃色の箱。蓋をとると、中身は繊細な細工の施された銀色の懐中時計のようだった。そっと手に取り、上部の突起を押すと、ぱちんと蓋が開いた。  ふいにこぼれ出る、音。単純で透明なそのメロディは、あの夜の、優しい旋律。蓋の下でゆっくりと回る、小さなぜんまい。  それは小さな、オルゴールだった。  幾度となく繰り返されるフレーズは、終わりのないトロイメライ。永遠に立ち止まったまま、次々に訪れては過ぎ去る情景。夢のように、繰り返し、繰り返し――。  甦ってくる、想い。  触れ合う温かさ、目の前にいる安らぎ、一人の寂しさ。広瀬と出会うまで、知らないで生きてきた。  溢れる想いが滴になって、陽深の頬を滑り落ちる。後から後からとめどなく落ちる滴が、陽深の手を、オルゴールを、濡らす。おそらく、陽深にとっては初めての、涙の感触。  リフレインはやがて、ゆっくりと途切れてゆく。  (失ったんじゃない――、もらったんだ)  陽深はそれを、胸の中に包み込むように、そっと抱き締めた。  決して失われないものが、ここにある。  近代的なオフィスビルの中にあるギャラリーは開放的で明るく、中は意外にシックで落ち着いた雰囲気だった。  開け放たれた扉の横には、「川合陽深展」と書かれた札が立てられ、ここへ来るまでにも何度か見かけたシンプルなポスターが貼られていた。  入り口で立ち止まった広瀬に、手をつないでいた優里がポスターを指さして言った。  「これ、絵描きさんの書いた絵?」  「…そうだよ」  「――あなた」  すぐ後ろにいた涼子が、静かに声をかけた。  「ああ――」  受付で、三人分のチケットを渡している間に、涼子が優里を呼ぶ。  「じゃあ、出口のところでね」  涼子は微笑んで言うと、優里の手を引いて先に歩き出す。広瀬は、気を利かせてくれたらしい涼子の、後ろ姿を目で追った。  初夏の明るい日差しに映える若草色のスーツ、優里はベビーピンクのふわふわしたワンピース。広がった短いスカートの裾をひらひらと揺らしついていく優里を、絵の前で涼子が抱き上げる。何か話しながら、楽しそうに笑っている。  仲良さそうな、母娘の姿。どうしても捨てられなかった、壊せなかった幸せの形。  あれから、家に戻った広瀬を、涼子は笑って迎え入れた。泣き腫らした目で、それでも、お帰りなさいと笑った。  そうして徐々に、元通りの単調で安らぎに満ちた生活を取り戻して行く。月日を重ねてゆくうちに、ぎこちなさも消えてゆき、いつかそれも「過去」になり、夫婦の危機だったと笑って話せる日が来るのかもしれない。  今はまだ痛む胸で、広瀬は思う。  昨日の土曜日、高村から一通の封書が届いた。速達で届いたその封書の中には、会期ぎりぎりの、この展覧会のチケットが3枚――。手紙も何も添えられてはおらず、ただそれだけが送られてきた。  広瀬は広い会場内を見回す。最終日である日曜、たくさんの人が訪れていたが、混雑というほどでもなく、みな静かに、それぞれのペースでゆったりと絵を鑑賞していた。適度な間隔を取り、発表順に70点余りの作品が展示されているという。  広瀬が陽深に惹かれたきっかけは、絵を描いてる彼の姿だった。  しかし広瀬は、陽深の描く絵自体に興味を持ったことはなかった。それはただ、画家である川合陽深ではなく、彼自身を愛したからだと思っていた。  透明感に満ちた、美しい風景画の数々。ひっそりとした優しさを感じさせる、静かな絵。けれど、暖かな日溜まりも、眩しい夏の海も、漂う微かな寂寥感。高村の云う懐かしさとは、こういうことだろうかと、思う。郷愁に似た、寂しさ。せつないけれど、それは不快な感情ではなかった。  これもみな、彼だったのだと、今さらのように思う。彼の描く作品はみな、彼の一部なのだ。だが広瀬はずっと、自分の目の前にいる彼だけが、すべてだと思っていた。陽深の淋しさも、透明な心も、すべてをわかっているつもりでいた。すべてを、愛しているつもりでいた。  順路に沿って、年代順に作品を追っていく。最後の作品の前に来て、広瀬は立ち止まったまま、動けなくなる。  あのときの、風景。一緒に行った、湖の――。 立ち尽くす広瀬の脇を、他の客たちが通り過ぎてゆく。  (あの場所は、こんなにも、美しかっただろうか――)  広瀬は、目の前に広がる雪景色に、身動きひとつせずに、ただ見入っていた。  「素晴らしいでしょう?」  不意にかけられた声に、広瀬はびくりと振り返る。すぐ後ろに、穏やかな笑みを湛えた老紳士が立っていた。  戸惑う広瀬に、関係者らしいその男が続けて話し掛けてくる。  「失礼。私、早川と申します」  そう言いながら彼は、慣れたしぐさで名刺を差し出す。受け取りながら広瀬は、ぼんやりと思い出していた。  陽深が、絵のことはすべて任せていると言っていた画商の名。たいしたやり手だと、高村が言っていた――。  「これは、当初予定に入れていなかった作品なんですが、ぎりぎりで仕上がってきましてね。これを受け取ったときは、なんというか――、感動しましたよ。この歳になって、もう何十年もこの商売をやってきて、それでも、打算抜きで惹きつけられてしまう」  老人の穏やかな話し声に耳を傾けながら、広瀬の目は再び絵に引き戻されていた。広瀬には、絵の価値などわからない。ただあの日確かに二人で見たはずの、その光景に打ちのめされていた。  同じ時間、同じ場所。寄り添って、共有していた空間。彼の描いたその風景は、輝くような祝福に満ちた、夢のように儚い世界だった。これが、彼の見ていた風景だったのか――。  「トロイメライ、というのですよ」  「え?」  「この絵のタイトルです。他の絵にも一応便宜上つけていますが、『月の銀杏並木』とか、『春の山並みⅠ』とか、こちらで適当につけてるんですよ。彼はそういうのに、全然拘らないのでね。けれど珍しく、この絵には初めからタイトルがついていた」  よく見ると、掛けられた額の下側にレリーフのようにさりげなく『Traumerei』と記されていた。  今となっては夢のような、あの日々。待っていた彼を、追わなかった自分。裏切ったのは、自分。許しを乞うことさえ出来ず、このまま、現実に流され色褪せていくはずだった思い出――。  けれどその夢は、ちゃんとここにある。二人たしかに抱いていた、息が詰まるほどのいとおしさも、臆病で無垢な愛情も。二人で過ごした優しい時間も、彼はこうして形にして、人生の軌跡のように残してゆく。  二人のことにあれほど反対していた高村が、なぜチケットを送ってきたのか、わかるような気がした。  広瀬は溢れ出る涙を止める術もなく、ただ立ち尽くすことしか出来なった。  「この作品は売り物ではないのですが――、よろしければ受け取っていただけませんか」  振り返った広瀬の涙の意味を、おそらく知っているのであろう。彼は戸惑った様子もなく、穏やかな口調で続けた。  「この絵は、おそらく貴方のために描かれたものでしょう」  けれど広瀬は、俯いて首を振る。  「いいえ」  なにか言おうとする早川を遮るように、広瀬は言葉を継いだ。  「私が持つ資格はありません。こうして、――見ることが出来た。それで、十分です」  そのまま絵に視線を戻した広瀬に、早川はもうなにも言わず、黙って静かに立ち去った。  立ち止まっては通り過ぎてゆく人々のなかで、広瀬は一人いつまでも、その絵を見つめ続けていた。 ――fin
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