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小春日和の穏やかな午後。鴨川沿いの河川敷からは五山の深い緑がよく見渡せる。時折川面を渡ってくる風は、冷たいが頬に心地いい。
陽深は、茶色く乾燥した芝生に腰を下ろし、クロッキー帳に水彩画を描いていた。
ふと、すぐ横に暖かい気配を感じて振り向くと、小さな女の子が斜め後ろから覗き込むようにじっと絵を見ていた。
自分の方を振りかえった陽深に、女の子は屈託のない笑顔で笑い、絵を指さして聞いてくる。
「これなあに?」
小首を傾げて聞いてくる可愛らしい仕草に、陽深は思わず微笑んで答える。
「橋だよ」
「これは?」
「山」
「これは?」
次々と聞いてくる少女に、一つ一つ答えてやる。
「あっちのお山を描いてるのね?」
ひと通り聞いた後、陽深が向かっていた方角の山を指さして言った。
「そうだよ」
「ふうん。――きれいね」
「しばらくじっと絵を見つめると、陽深の方を見て言った。
「ありがとう」
「どおいたしまして」
お礼を言った陽深、誰かの真似か、そう言いなさいと教えられたのか、ぺこりと頭を下げてみせる。
まだ、二、三歳くらいだろうか。ニットのワンピースに、タイツにマフラー、今は外して首から紐で下げているミトン。両側で緩く三つ編みにされた柔らかな髪も毛糸で結ばれていて、全身がふかふかの毛糸玉のようだ。これくらいの子供はみな愛らしいものだが、この女の子は、愛嬌のある綺麗な顔立ちをしている。大きくなったら、きっと美人になるだろう。
「あのね、お花」
「え?」
ぼんやりとそんなことを考えていた陽深に、女の子がふいに、描きかけの絵の、山の部分を指さして言う。陽深は思わず山に目を遣ったが、もちろん花など咲いていない。
「お花?」
聞き返した陽深に、頷いて続ける。
「そう。描いて」
それを聞いて、彼女の言いたいことがわかった陽深は、クロッキー帳を捲って聞く。
「お花好き?」
「うん」
元気よく頷く。
「どんなお花がいい?」
「んとねー、百合のお花」
陽深は、新しい頁に大きく百合の花を描き始めた。
薄いピンクを使って、さらさらと描いてゆく。きれいに開いた花弁と、膨らんだ蕾。優しげな、けれども凛とした、笹百合。
「きれいね、ピンク。かわいいね」
目の前で形になっていく花の絵を見て、はしゃいで言う。
「ゆり!」
少し離れたところから、声がした。
「ママ!」
女の子が返事をする。
「急に姿が見えなくなったと思ったら…、びっくりするじゃない。探したんだからね、もう。心配するでしょ」
まだ若い、明るい感じのきれいな女性が近づいて来る。
「すみません。なにかご迷惑をお掛けしませんでした?」
座ったままの陽深に、自分もしゃがみ込むと、女の子を抱き寄せ申し訳なさそうに言った。
「いえ、とんでもない」
丁寧に話しかけられて、慌てて首を振る。
「あら、きれいな百合。絵を描いていらしたんですね、素敵」
彼女は陽深の手元を見て微笑んだ。
「ね、きれいね、お花」
女の子もいっしょになって、嬉しそうに声を上げる。
陽深はそのまま手早く描きあげると、その頁をちぎって女の子に渡した。
「そんなせっかくお描きになったのに」
慌てる母親に、
「よかったらもらって下さい。ゆりちゃんのリクエストだったんです」
陽深はそう言うと、ゆりに向かって、ね。と首を傾けて微笑んだ。
「ね、ゆりのね」
同じように愛らしい仕草で答える。
「すみません、やっぱりお邪魔していたみたいですね」
「いえ、そんな。僕の方こそ相手をして貰ってたんです。子供は好きだし」
優しい笑顔でそう応える陽深に、若い母親は好感を持ったようだった。
「ほら、ゆり、お礼は?」
「どうも、ありがとう」
母親に促されて、棒読みの大きな声でふらつくぐらい頭を下げながら言う。
「はい。どういたしまして」
丁寧に答える陽深に、母親は子供を抱き上げながら聞いた。
「ここへは、よくいらっしゃるんですか?」
「ええ、ときどき」
「私たちもよくお散歩にくるんです。またお会いできるかもしれませんね」
そう言って笑いかけると、母親はまた丁寧に礼を言って、離れてゆく。
「バイバイ」
母親に抱かれて、肩越しにゆりが手を振る。
手を振り返す陽深に、見えなくなるまで、降り続けられた小さな手。
ゆりちゃんか――。
陽深は、ふと最近知り合った不思議な男のことを思い出していた。彼の娘も、たしか同じ名前だったはずだ。
まっとうな、良識ある社会人。有望そうなビジネスマンで、ちゃんとした家庭を持った、地に足のついた人間。
世間ではけして珍しくはない、けれど陽深の身近には一人もいなかった人種。今も、昔も。
彼がなぜ、自分のような人間に興味を持ったのか、最初は戸惑った。だが陽深にとって彼のような人間が目新しいように、彼らから見れば自分は、風変わりで珍しい存在なのだろうと、納得した。
自分とは、明らかに違う。
どこにも接点を見いだせない人間のはずなのに、彼と過ごす時間は、不思議と居心地がよかった。
身寄りもなく、今まで友人と呼べる人間の一人も持ったことのない陽深にとって、必要以上に他人と近づくことは、落ち着かない、気疲れするものでしかなかったはずなのに。
けれど陽深は、本当はずっと、彼のような人間に憧れていた。
社会的に認められた存在。そして何よりも、暖かい幸せな家庭を持った――。そんな普通の人々を、彼はいつも遠くから、諦めと憧れを持って、ただ眺めていた。
――ごく普通の、誰にでも手に入りそうなものを、どうしても手に入れることのできない人間がいる。人がどんなに望んでも得られないものを、自然と生まれ持つ人間がいるように。
「川合くん?」
広瀬は声をかけながら、そっとアパートのドアを開ける。ノックに返事がなかったが、ノブを回してみると鍵は掛かっていなかった。陽深から聞いた住所は、この部屋で間違いないはずだったが…。
ドアを開けると、右手に小さなキッチンのついた、がらんとした八畳間。絵の具と、壁に立て掛けられた何枚かのキャンバス。立てたままのイーゼル。あとは、小さなストーブと鴨居にかけられた何着かの服。最小限度の生活用品さえ、揃っているのかどうか怪しい、生活感のない部屋。
「いくらなんでもカーテンくらいはつけないと…、これじゃ寒いだろうに」
玄関口に立ったままそんなことを考えていた広瀬の耳に、吹きさらしの階段を上る足音が響いてきた。戻ってきた陽深は、部屋の前に立っている広瀬に気付くと、足を速めて近づいてくる。
「いらっしゃい」
少し恥ずかしそうな笑顔で、言う。手にはコンビニエンスストアの袋を提げていた。
「鍵、開いてたよ」
「ええ、いいんです。盗られるようなものなんてないから」
陽深は先に部屋に上がると、広瀬を招き入れる。
「どうぞ。何もない部屋ですけど」
広瀬は、部屋に上がって中を見回す。
「――へえ、前がすぐ鴨川なんだね」
窓辺に立った広瀬が、外を眺めながら言った。
風呂無しトイレ共同の古い木造アパート。今どきまだこんなアパートが存在するのかと驚くくらいのレトロなアパートだが、学生の街でもある京都には、まだこういう建物は現役で残っている。
とはいえ、このあたりは京都市内でも屈指の高級住宅街だった。よくこんな物件を見つけたものだと思う。
「ええ、だからここに決めたんです。とてもいい眺めでしょう? 畳も入れ替えてくれたし」
薬缶を火にかけながら、嬉しそうに言う。
そう言われてみれば、まだ青い畳。真新しい藺草の匂い。
「でもこれじゃ、寒いし不便だろう。適当なマンションとかは見つからなかったの?」
彼は金銭的には困っていないはずだと思う。ここの前に陽深が滞在していたのは、名の知れた高級ホテルだった。
「鉄筋コンクリートって、ほんとはあんまり好きじゃなくて…。ホテルの場合はもう仕方ないけど。もとが田舎育ちだから、畳の感触とか、土や水の匂いのあるところが好きなんです」
「まあ確かに、――畳の方が落ち着けるな」
広瀬は、コートを脱いで座り込んだ。
なんとなく、間が空いてしまい、広瀬は流しの前に立ってお茶をいれている陽深に、かける言葉を探す。
「電話は…、つけないの?」
携帯をもっていない陽深と連絡をとるのは難しい。ホテルに滞在している間は部屋に回してもらうことが出来たが。
「そうですね…。せめて携帯をもってくれって、言われてるんだけど」
「――誰に?」
広瀬は、ほんの一瞬躊躇して、聞いた。
「画商さん」
なんのためらいもなく返ってくる答え。誰だと思ったというのだろう。
広瀬は自分のなかにわき上がった疑問に、戸惑う。家族はいないと云っていたが、親しい人間の何人かはいて当然だ。友人とか、――恋人、とか。
「――でも、ここに住むなら、持った方がいいんでしょうね。ホテルみたいにメッセージも預かってくれないし。広瀬さん、今日は仕事は?」
陽深の声に、我に返る。
「え、――いや、もう終わったんだ。今日は得意先から直帰するって、言ってあるから」
そう云って、広瀬は腕時計に目を遣る。
四時半か――。まだ、こんな時間かと思う。冬の陽は落ちるのが早い。夕暮れ時の太陽に、部屋の中が黄色く染まってきている。
部屋には卓袱台もなかったので、陽深は湯呑みの載ったトレイを、畳の上にじかに置いた。
「ごめんなさい、家具が揃ってなくて」
「俺は構わないよ…、まだ引っ越したばっかりだし、そのうち徐々に揃ってくるよ」
そう言った広瀬に、陽深は曖昧に笑って応える。
「あまり物を増やすと、出ていくとき大変だから…」
そんなに長くいるつもりはいないという、含みのある言葉。
ずっとここにいればいいのに――。広瀬は言いかけた言葉を呑み込む。たとえ冗談でも、自分がそんな言葉を口にするのは無責任な気がした。
友人と呼ぶには、どこか不自然で曖昧な関係。けれどもう、ただの通りすがりの他人ではなかった。少なくとも広瀬にとっては。
はっきりとした位置づけのできない二人の関係に、ふさわしい呼び名のない感情に、広瀬は戸惑いをおぼえていた。
真冬だというのに、相変わらず薄手のセーター一枚きりの、陽深。ゆったりした白っぽいグレーのセーターは首周りも少し大きくて、髪を束ねているせいか白い首筋が余計に寒々しい感じがした。
「髪――、下ろせばいいのに」
広瀬は、無意識に陽深の髪に手を伸ばしていた。
「え」
陽深は、急に伸びてきた手にびくりと首を竦め、思い切り身体を引いた。
「その、寒いかと思って――」
そんな陽深の反応に、広瀬はばつが悪そうに、宙で止まった手を引っ込める。
「下ろすと邪魔だし、首にあたるとくすぐったくて…」
陽深の方も、目を伏せてどこかぎごちない様子で答える。
「どうして、伸ばしてるんだ?」
「伸ばしているわけじゃないんだけど…、床屋に行くのが苦手で、滅多に行かないから。前は自分で適当に切れるけど、後ろはできないし…」
なんとなく、沈んでしまった雰囲気。重い沈黙を先に破ったのは、陽深だった。
「あの…、夕日がきれいだし、外にでませんか?」
しんと、凍てつくような空気。黄昏どきの川沿いの遊歩道には、彼の他に人影はなかった。
ゆっくりと二人ただ並んで歩く。ふいに、陽深が口を開いた。
「さっきは、――ごめんなさい」
「え」
急に謝られて、広瀬はなんのことだかわからない顔をした。
「その、人に触られるのって、馴れてなくて…。だから、床屋さんも苦手なんですよね」
そう言って、ぎごちない微笑みを浮かべた。
「ああ…、いや、俺の方こそ。ついなんとなく…。悪かったね、触られるのが嫌いな人っているもんな」
なんとなく後ろめたい気分で、言い訳をした。
「嫌い、とかじゃないと思うんですけど…」
「え?」
小さな声で呟くように言った陽深に、広瀬は聞き返す。
「馴れてないんです。そういうスキンシップ?みたいなの、――子どもの頃からなかったし、ずっと」
広瀬の方を見ずに、前を向いたまま続ける。
「ずっと、って…」
先を促すかのような広瀬の言葉に、陽深はそのまま、呟くように続けた。
「僕はね、不義の子なんです」
そう言って、薄い、笑みの形に唇が歪む。えらく古風なその言い方に、広瀬は一瞬言葉の意味がわからなかった。
「父には別に家庭があって、戸籍上は認知をしてくれていたし、裕福な家の人だったから、成人するまで養育費は出してくれていたけれど、父と過ごした思い出なんて一つもありません。――僕が育ったのは、田舎の、とても保守的な村だったし、父の家はその地方の名家だったけれど、母はもともとその村の人間じゃなくて『よそ者』だったから…、妾だとか、売女だとか、母一人が悪者でした」
ただの世間話をするように、淡々と話す陽深。視線は爪先に落としたまま、一度も広瀬の方を見ようとしなかった。
「母は自分を守るのに精一杯だったし、父に捨てられないように、ただそれだけに一生懸命なひとだったから…。子どもに関心はなくて。――その母も早くに亡くなってしまったし」
陽深は小さく息をついて立ち止まり、視線を川べりへ移す。
いつもより、やけに耳に付く水音。自分の吐く白い息の向こう、ざわめくように乱反射する冷たい川面。広瀬は冷たくなった指を、コートのポケットの中で握りしめた。
今まで、ずっと聞きたくて聞きそびれていた陽深の生い立ち。こんなふうに聞いてしまって、よかったのだろうか――。
黙ったままの広瀬を、陽深は初めて振り返った。
「僕は、父にも母にも、手を繋いでもらったり、頭を撫でられたり、抱きしめてもらったり、そんな記憶がほとんどなくて。…馴れてないんですね。だから、人に触れられるのは嫌いなんじゃなくて、少し、怖い」
そう言って、微笑んだ。
怖い――。そう口にしながら微笑む陽深に、広瀬は押さえきれず、手を伸ばしていた。驚かせないようにゆっくりと、陽深の頭に手を置いてそっと引き寄せ、包み込むように抱きしめる。陽深は一瞬身体を硬くしたが、徐々に力は抜け、黙って身体を預けてきた。
頬にあたる滑らかな頬、華奢な肩のライン。仄かな匂い。腕の中にある確かな温もり。
――突然、広瀬は陽深の身体を手荒く押し剥がした。 いきなりの広瀬の仕打ちに、呆然としている陽深。広瀬は動揺のあまり言い訳すら浮かばない。あろうことか、腕の中の陽深に、男として反応してしまっていたのだ。固まったままの陽深以上に、広瀬は自分の反応に動転していた。
「あ…、その、――ごめん! 急に用を思い出して…。また、連絡するから」
腰を引いてなんとかそれだけ言うと、広瀬は陽深を残して、逃げるようにその場を立ち去った。
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