トロイメライ

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 「ただいま」  暗い声で、マンションのドアを開ける。  「パパ! お帰りぃ」  飛び出してきた娘を、広瀬はしゃがんで抱きしめる。  子供特有の、少し埃っぽいような匂いと、柔らかい弾力。小さな腕を首に巻きつけてくる優里。そのまま止まってしまった広瀬に、優里は顔を傾ける。  「パァパ?」  こんなふうに、父親のつもりで抱きしめたはずだったのに――。  「いつまで感動の再会をしてるのかしら?」  涼子が、いつまでも玄関先で抱き合っている親子を呆れたように見ていた。その言葉に我に帰った広瀬は、そのまま優里を抱き上げて部屋に上がる。  「お帰りなさい。珍しいわね、こんな時間に帰ってくるなんて」  「ああ、今日は直帰してきたから」  「そう、お疲れさま。でも――、ごめんなさい、ご飯まだ出来てないの。もう少し待っててくれる?」  そう云って手を合わせると、上目遣いに広瀬を見上げる。  「いいさ、まだ早いしそんなに腹へってないから。優里と遊んで待ってるよ」  「ごめんね」  涼子は、慌てて台所に戻る。 広瀬の後をちょこまかとついて回る優里に、着替えながら聞く。  「今日は、何をして遊んだの?」  「えっとね――」  まだよく回らない舌で、一生懸命話すのを聞いてやりながら思う。  人の家庭の事情に簡単に他人が首を突っ込んだり、詮索するのはよくないことだと充分承知している。結局、他人にはどうしてやることも出来ない問題だということも。  けれど――。  すぐ近くにいるのに、遠い場所からこちらを眺めているかのような、優しい瞳。何事にも執着しない、世俗から逃れて生きているかのような彼の生き方の理由が、なんとなく理解できたような気がした。  「パパ?」  もの思いに沈んでしまった広瀬の額に、優里が手を伸ばす。  「ああ、ごめん。なんでもないよ」  黙ってしまった優里に笑いかける。  「なあ、優里。パパのこと好きか?」  「うん! 好き」  考えるまでもなく、すぐさま帰ってくる答え。  「大好きのチュウは?」  頬を差し出すと、音を立ててキスをしてくれる。酔っ払ったときなど、しょっちゅうこうして娘に構っている広瀬だった。  「パパも優里のこと好きだよ~!」  おどけて言う広瀬に抱きしめられて、優里がきゃっきゃと歓声をあげる。 キッチンから二人を呼びにきた涼子が、その楽しそうな光景に苦笑して言った。  「もう、危ない親子ねー。外ではやらないでね、隆尚さん。ロリコンだと思われるわよ」  そうして、ソファに座っている広瀬のすぐ横に腰を下ろす。  「なにかあったの?」  心配そうに顔を覗き込む。  「いや、…なんでもないよ。ちょっと、――自己嫌悪に陥ってるだけ」  そう力なく微笑む広瀬に、  「そう――。じゃあ、ご飯食べて元気だして。おなか空いてると余計暗くなっちゃう。今日は隆尚さんの好きな麻婆茄子よ。ちょっと自信作なの」  何も聞かずに笑ってそう言うと、広瀬の手を引いて立ち上がった。  「ご飯、ご飯!」  優里も嬉しそうに立ち上がる。  「ああ、そうだな」  ――明日、陽深に謝りに行こう。広瀬はそう思いながら、食卓に向かった。  もう陽も落ちて薄暗い河川敷。陽深はもうずっとそこに座り込んでいた。 やっぱり、嫌われてしまったのかな、と思う。ふいに胸を刺す、小さな痛み。  こんなふうに、誰かに自分から昔の話をしたのは初めてだった。今まで、別に隠しておきたいと思っていたわけではないけれど、誰かに聞いて欲しいとも、思ったことはなかった。  今さら、こんな痛みを感じるなんて、我ながら不思議だった。  陽深は、人から嫌われることには馴れていた。村人から、本家の人たちから、ずっと疎んじられてきたのだ。学校でも、いじめに会うのはごく日常的なことで、教師たちでさえ見て見ぬ振りをしていた。だが、どんなに苛められても何の反応も示さない陽深に、そのうち子供たちも構わなくなる。  そして、無視されることは、陽深にとってはそんなに辛いことではなかった。一人で下手な絵ばかり描いている変わった子供だと噂されても、放っておいてくれさえすればそれでよかった。  高校へ上がって村を離れても、陽深の生い立ちを知った同級生たちは、いつもどこか遠巻きに彼に接していた。それは、陽深が幼いときから自然と身に付けてしまった他人との距離感、近寄りがたい雰囲気のせいでもあった。友達の一人もおらず、いつも一人で絵を描いている。それが陽深にとっての、普通の生活だった。  東京の美大に進み、誰も陽深のことを知らない人間ばかりのなかにあってもそれは同じことだった。  だがそんな中、変わり者だと評判の陽深の才能を早くから認めてくれていた春日教授と、教授から紹介された画商の早川だけが、いつしか彼の理解者となっていた。  彼らに対しては、感謝を尊敬の念を抱いている。しかし陽深は昔から、誰かに理解されたいとも、好かれたいとも、願ったことなどなかった。人嫌いというのとも少し違う。嫌いになるほど、人は陽深から近いところにいないのだ。川の向こう岸に住む人々の日々の営みを、ただぼんやりと眺めている――。今まではそんなふうに、陽深は人と接してきたように思う。  そして気がつくと、陽深の目の前に、手の届く距離に、立っていた広瀬。 けれど――。  陽深は小さく溜め息をつく。それでも、やっぱり広瀬は向こう側の人間なのだ。と思う。  差別する側の、哀れみ同情する側の、常に「する」側の幸せな人々。妬んだり、羨んだりするには遠すぎる。それなのに、いったい自分は何を期待していたのだろう。  吐く息が、白く霞む。身体の芯まで凍えそうな冷たい石段。冷たい空気。 陽深は立ち上がり、踵を返す。  ここに長く、居すぎてしまったのだろうか――。  今日は早めに切り上げるはずだったのに、思わぬ納材ミスで、広瀬はなかなか会社を出ることが出来なかった。  (もう七時か)  ちらりと時計に目をやり、急いで帰り支度を始める。まだ残っている部下より先に帰るのは気が引けるが、少しでも早く陽深に会って話がしたかった。あんなところで、あんな別れ方をして、どんなふうに思われているかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。  そのとき、仕事用ではなくプライベートのスマホに電話が入った。発信元を見て、驚いて電話に出る。  「高村か? どうしたんだ、珍しい」  高村は高校、大学時代からの悪友で、涼子の兄だった。  『今な、京都なんだよ』  「仕事か?」  『そう、取材旅行。さっき着いたんだけど、取材は明日からだし、もし今から空いてたら飲みに連れてけよ。こっちは勝手がわかんなくてな』  「暇なら家にくりゃいいのに、涼子も喜ぶし」  『相変わらずわかってないな、おまえは。あいつが喜ぶわけないだろ。邪魔者扱いするに決まってる』  憮然とした口調で、高村が言う。本当は仲が良いくせに、この兄妹は会えば憎まれ口ばかり叩いている。  広瀬は苦笑し、今日は都合が悪いと言いかけて、思い出す。  高村は、美術雑誌の編集者をしている――。もしかしたら、陽深のことを知っているかもしれない。  「――わかった。今、どこなんだ?」  『五条の東急ホテル』  「じゃあ、七時半にロビーで」  「久しぶりだよな、おまえとこうやってゆっくり飲むのも」  ヘビースモーカーの高村が、片時も離さないピースを吹かしながら口を開く。  取りあえず、軽く腹ごしらえをした後、彼らは繁華街の外れの静かなバーに腰を落ち着けた。  「ほんとだな。――仕事のほうは、どうなんだ」  「相も変わらず、売れない美術雑誌のヒラ編集者だよ。まー、仕事自体は好きでやってることだけど、サラリーマンは哀しいね。今回の取材だって、うちのヘボ編集長の命令で否応なしだよ。『今も古都に眠る幻の名品』だとさ。使い古しもいいとこの特集だよな。今さらどんなご大層なもんがあるってんだ。ネタに困ると京都に逃げるんだから、安易だよなぁ」  口の悪いのもいつものことで、面白くなさそうな高村の口ぶりを広瀬は笑って聞いている。  「どうせここまで飛ばされるんなら、取材した画家もいたのに」  「画家って?」  高村は聞き返してくる広瀬を意外そうな面持ちで、見遣る。  「美術オンチのおまえに言ったって。わかんねぇと思うけど」  いつもなら聞き流す話題に水を向ける広瀬に、高村はそう言ってジントニックに口をつける。  確かに聞いても多分わからないとは思うが、陽深のことを聞きたい広瀬は、不自然にならないように話題をそっちに持っていきたかったのだ。  「川合陽深っていう、最近注目されだした若手の風景画家」  思いがけない名前に、水割りを運ぶ広瀬の手が止まる。  「川合、陽深?」  なにげなく言ったつもりだったが、動揺は隠せない。まさか、いきなりその名前が出てくるとは思わなかった。  「知ってるのか?」  少し驚いたような顔で聞く高村。  「いや、――どこかで名前をきいたことがあるような気がして」  曖昧に答える広瀬に、高村は名前ぐらいならなと呟く。  「まあ、ここ一、二年で随分知られるようになってはきてるから」  「どういう、画家なんだ?」  「んー、変わってるっていうか、かなり異質なタイプだな。今の画壇の中では。普通はみんな、芸術家っていうと、ゴッホみたいなどっか紙一重な天才を思い浮かべがちだけど、ああいうのはほんの一握りでさ。今売り出そうと躍起になってる若手の連中や、大家ぶってふんぞり返ってる連中の大半はただの俗物だよ。才能より自意識の方が先走ってて、自己顕示欲の強さと個性を履き違えてる。そんで、そんなちょっと目新しいだけのつまんない絵だって、売り方次第で結構簡単にさばけるし、テクニックと過去の賞歴に頼ったヌルい絵でも、投資対象か見栄か知らんが、買うバカは今でもいる。内情知るとかなりうんざりする世界だぞ。――そんな中で、彼の存在はある意味救いだね」  そう云ってグラスを空けた。毒舌家の高村にしては珍しく、かなり彼をかっているような口振りだった。  「彼を見出したのは、この世界ではかなりやり手で通ってる早川って画商なんだけど、この爺さんが曲者でさ、画商であると同時に大した蒐集家でもあるんだ。あの爺さんのコレクションは、死んだら間違いなく彼の名前がついた、有名コレクションになるぜ。――ま、確かに画商なんて商売は趣味がこうじてやってる輩が多いのは確かなんだか、いわゆる「商売になる絵」と本物の芸術ってのは別なんだ。商売人としても一流で、なおかつ最高の鑑識眼も持ってる。そんな画商って、実はいそうでいないんだよ。その爺さんが見つけてきたんだ、どっちにしても名が売れる。そのうえ、彼の作品の一番の所有者がその早川個人なんだ。画廊じゃなくてね」  いつものことだが、こういう話には饒舌な高村。いつもはただ黙って聞いているだけの広瀬が、珍しく口を挟む。  「彼、――川合陽深自身については、どうなんだ?」  「それなんだよ、俺が知りたいのも。こいつがなぁ、いわゆる山下清みたいな放浪タイプの画家でさ。全然居場所が掴めないんだよ。誰の弟子でもなく、どの派閥にも属してなくて、マスコミ嫌い。コンタクトが取りにくいことこの上ないよ。早川のおっさん経由でアクセスしても、音沙汰なし。実は、うちの雑誌でも近々小特集組ませて貰えることになってるんだけど、今現在生きてる作家なんだし、インタビューくらいは載せたいんだがなぁ」  二杯目のバーボンのロックを舐めながら、高村は大きく溜め息をついた。  広瀬は、高村の話に正直驚いていた。確かに陽深は、質素な見かけや生活とは裏腹に、金銭感覚は鷹揚で、ホテル暮らしをしていたり、ボロとはいえ、鴨川沿いの高級住宅地にあるアパートをぽんと借りたり、お金に不自由している様子はなかった。  でも、だからと云って注目を浴びている新進の若手画家という印象はまるでない。広瀬はなんとなく彼に対して、「売れない絵描き」というイメージを勝手に抱いていたのだ。金や名誉や、そういう俗っぽいものとは遠いところにいるような、そんな存在のように思っていた。  「会ったことは、ないのか」  「顔を見たことくらいはあるけど。でも、――そんときは驚いたよ。最初は歳も略歴も知らなくて、絵の印象から、なんとなく悟った感じの老人をイメージしてたから。あんなに若いと思わなかったよ。今年、二十八らしいけど、実際より若く見えるしな。けど、――どっか達観したような、不思議な雰囲気の青年だったな。人当たりは柔らかいけど、ちょっと近寄りがたい感じで」 「彼の絵って…、どんな感じなんだ?」  そういえば広瀬は、まだちゃんと陽深の絵を見たことがないことに気付く。出会ったときも、絵ではなく彼の横顔ばかり見ていた気がする。  「そうだな…、一言でいえば、なんか懐かしい感じの絵だよ」  「懐かしい?」  「ああ、ほとんどが風景画なんだが、どこかで見たことがあるような、どこにも在りえないような景色の不思議な絵で、対象は木や水や空や月や、よくある具象そのままで、描き方も奇をてらわないごくノーマルなタイプなんだが、構図がちょっと変わってるかな。――俺がすごく印象に残っているのは、蒼い空に白い満月、地平線までずっと風に揺れて光る薄野原の絵なんだが、その中に一箇所丸く、黄色い部分があるんだよ。よく見るとそれはキリン草の一群で――たったそれだけの、なんてことないシンプルな絵なんだけど…。どこかにほんとにそんな風景があるのか、彼だけに見えた風景なのか。それは俺にはわからんが、穏やかで、なんだかとても懐かしいような、絵だった」  高村は、彼らしくないどこか遠くを見るような、優しい表情で目を細める。  「ま、地味といえばかなり地味な絵だからな、一躍有名になったり、流行画家にはなりそうもないけどな」  しんみりしてしまった自分をごまかす様に、高村はそう付け加えた。  「そうか…」  「で、その川合陽深が今、こっちにいるらしいんだよ」  高村のセリフに、広瀬は思わず身体を固くする。  「へえ――」  「それも、もう一ヶ月以上も」  さも意外なことのように、高村が声が上げる。  「珍しいことなのか?」  「早ければニ、三日。長くても半月。それが大体彼のペースらしいからな。便宜上もっている東京の自宅にも、滅多に帰らないらしいし、この滞在日数は最長記録じゃないかな」  「よく調べてるな」  広瀬は感心したように呟いた。  「こっちはコンタクト取りたくて必死なんだけど、向こうさんがなかなか捕まらないもんでね。編集から記者から、なんでも屋は大変だよ」  肩を竦めて見せる高村に、広瀬は独り言のようにぼそりと口にする。  「ここに、――住み着くつもりがあるのかもしれない」  予想というよりは、願望。  「それはないな」  「どうして」  あっさりと言い切る高村に、ついむっと切り返す。  「どうして、と言われても困るが…。風景画家なんて、始終旅をしているもんだし、『家』のある奴はそこを拠点にするが、彼は一生、そう言う意味での『家』を持つことのない種類の人間だよ」  納得のいかない様子に広瀬に、高村が続ける。  「こういうのは、理屈じゃないんだよ。おまえみたいに地に足つけて、女房子供養って、家族と幸せに暮らしていくのも人生なら、俺みたいにこの歳になっても結婚もしないで、趣味と実益兼ねた気楽な商売やってくのも人生。川合陽深のように、どこにも定まらず、一人で放浪を続け、絵を描くためだけに生きてるような人間だっているんだ。――天才ってのは、何かと引き換えにしか手に入れられないもんなんだろうさ」  きっと陽深の生い立ちくらいは調べているだろう高村の、他人事のような言い方が、広瀬には何故か腹立たしかった。  「そういう生き方は、――寂しくて、嫌だ」  目を伏せたままそう口にする広瀬に、  「それはおまえの価値観だよ。ひとそれぞれ幸福の基準は違うし、すべての人間が同じ形の幸せを手に入れることなんてできないさ。――変わんねーな、おまえは。青いっつうか、純っていうか」  呆れたように、苦笑する。  「悪かったな」  「褒めてるんだ。どうせ俺は分別くさい年寄りになっちまったよ」  そう自嘲する高村に、広瀬はくすりと笑って応える。  「お前は昔っから冷めてたよ」  「お前は昔から、青春野郎だったしな」  意地悪く笑ってみせる高村に、口では敵わないと肩を竦める。  ふと、広瀬は時計に目をやる。  十二時十五分――。高村もつられたように、時計を見る。  「遅くなっちまったな。悪いな、こんな時間までつき合わせて」  「いや、こっちこそ――。明日、早いんだろ?」  「お互い様だろ。しかし、せっかく久しぶりに会ったっていうのに、どっかの画家の話で終わっちまったな」  高村が笑ってそう言いながら、立ち上がった。  「でも、久しぶりに会えて楽しかったよ」  広瀬は、笑ってそう答えながら考える。  (人を訪ねるには、もう遅い時間だけど――)
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