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高村と別れたあと、広瀬はそのまま陽深のアパートに向かった。
人を訪ねるような時間ではないことはわかっていたが、一刻も早く彼に会いたかった。あんなふうに突き放してしまったことへの言い訳は、結局思いつかないままだったが、会いたいと思う気持ちに押さえれて、気が付けばタクシーを走らせていた。
どこにも留まらず、留まれない陽深――。
彼が今ここにいる理由が自分だとうぬぼれているつもりはなかったが、広瀬は、彼がこのまま黙ってどこかにいってしまうのではないかという不安に駆られていた。
今、目の前にいたのに、目を離すと次の瞬間にはもうそこにいないような、広瀬にとって陽深はそんな不思議な存在だった。
アパートの階段を駆け上がり、陽深の部屋の前に立つ。201号室、明かりはついていなかった。もう眠っているのか、それともいないのか。広瀬はそのまま、ノックもせずにドアを開けていた。鍵はかかっていなかった。
明かりもつけず、窓枠に凭れてぼんやり外を見ていた陽深は、いきなり開いたドアに驚いて振り向く。
「広瀬さん…」
広瀬が急に現れたことに驚いたというよりも、彼がそこに立っているのが不思議なことのように、立ち尽くす広瀬を、陽深は見つめる。
「あ――、ごめん、ノックもしないで」
たしかにそこにいる陽深の姿に安心した途端、広瀬は慌てふためいて飛びこんできた自分が急に恥かしくなってきた。
ドアを開けたまま突っ立っている広瀬に、
「上がらないんですか?」
どことなく、硬い声。広瀬の位置からは、暗くて表情までは見えない。
「え。――ああ」
広瀬は慌ててドアを閉め、靴を脱いだ。陽深は、動かない。
「明かり、つけないのか?」
「夜は、暗い方が安心するんです」
だんだん目が慣れてくると、カーテンのない窓から入る外の明かりだけでも、けっこう明るいことに気づく。
「どうしたんですか、こんな時間に」
何を言ってよいかわからず言葉が続かない広瀬に、陽深の方が先に口を開く。
「もう、来ないかと思っていました」
陽深の口調は、相変わらず穏やかで丁寧だけれど、どこか寒々しい感じがした。
「どうして?」
広瀬の質問に、今度は陽深が黙り込む。
「その、昨日のこと、謝りたくて…」
云いかける広瀬を遮るように、
「別に、謝るようなことじゃないでしょう」
首を振って、答える。今夜の陽深は取り付くしまもない。
「無理しなくても、いいんです」
「なにを言ってるんだ?」
訳がわからないといった様子で近づいてくる広瀬に、陽深はすっと身を引く。
触れようと伸ばした手を、広瀬は下ろさなかった。一定の距離を保とうとする陽深を、広瀬はそのまま部屋の隅に追い詰めたような格好になる。
「それ以上、近づかないで」
伸ばされた広瀬の手が、陽深が背中を押し付けている壁に、つく。陽深の頬のすぐ横に、広瀬の腕があった。目を上げれば、きっと何十センチの距離に広瀬の顔がある。陽深は、伏せた目を上げることが出来なかった。
「もう――、放っておいて下さい。僕は、人との距離をどうとればいいのか解らない…。どこまで近づいていいのかさえ、わからない。投げ与えられる同情や憐れみや、そんなものに振り回されたくないんです」
「同情?」
「可哀想だと思ったから、思わず抱きしめてくれたんでしょう? でも、後悔したから…、近づきすぎてしまったから、突き放したんでしょう? それとも、嫌悪感からですか」
震える声を押さえて、言う。
「そんな、――違う!そうじゃない」
「なら、どうして?」
一瞬、目を上げて真っ直ぐに問い掛ける。
「それは――」
口ごもる広瀬に、ふっと諦めたような笑みを浮かべる。
「もう、いいんです。どうせ、僕はもうここを離れるつもりだったんです。だから――」
「待ってくれ!――違うんだ」
広瀬は思わず、陽深の肩を掴んでいた。
「たしかに、俺は君を可哀想だと思ったよ。同情したんだ。それが、いけないことだったのなら謝る。――ただ、なにも出来ない自分が歯がゆくて、思わず抱きしめてしまっていたんだ。他人事のような哀れみなんかじゃない。君だから――。急に突き放してしまったのは…、そんな自分に驚いたからからで…。後悔なんか、してない」
「広瀬さん…」
真剣な面持ちの広瀬を、陽深は不思議そうな顔で見上げている。
広瀬は、これではまるで愛の告白だと、云ってから気付く。顔に血が上った。
「その、――とにかくごめん」
広瀬は、陽深の肩を掴んでいた手を、ぎこちなく離す。 陽深は、赤い顔をして俯いている広瀬を黙ってじっと見つめていた。
「だから、急に行ってしまうなんて言わないでくれ。俺のせいなら謝るから」
「そんな――、僕の方こそ勝手に誤解していたみたいで、…ごめんなさい。でも、そろそろ行かなくちゃいけないのは、本当なんです。広瀬さんのせいではなく」
陽深はいつもの、柔らかな口調で言う。
「何か、急な用事でも?」
「そういうわけではなくて…」
言葉を濁す陽深に、不安を掻き立てられる。
「じゃあ、どうして? ――この街は、気に入らなかった?」
「いえ――」
曖昧な笑顔で、首を振る。
「どこか行きたい場所でも出来た?」
「いえ、まだ具体的には」
「じゃあ、せっかくアパートまで借りたんだし、ここを拠点にしてしばらくは関西近辺を回ってみてもいいんじゃないか?」
広瀬は、このまま陽深を行かせたくなかった。
「そうだ、もしよければ今度一緒に旅行に行かないか?」
「え?」
「関西近辺なら、普段営業で回ってるから詳しいし、自然のきれいな場所も知ってる。――その、もし嫌じゃなければの話だけど」
最後の方は、さすがにおずおずと付け足した。繊細で、誰かと一緒にいることに慣れていない陽深。広瀬は断られるだろうかと、言った端から後悔していた。
「一緒に?――連れて行ってくれるんですか?」
しかし陽深は、不思議そうに広瀬を見上げる。
「ああ、どこでも。きみの行きたいところに」
思いがけない陽深の反応に、広瀬は嬉しそうに頷いた。
「仕事があるから、週末に一泊二日くらいしかすぐには時間はとれないけど。でも、近場ならゆっくりできるし」
懸命にかき口説く広瀬につられるように、陽深は微笑って、頷いていた。
「どこか、行きたいところある?」
「どこでも――」
そう答えてから、陽深はふと、何かを思い出したように呟いた。
「――雪。…一面の、雪景色」
「雪?」
聞き返した広瀬に、陽深は我に帰ったように慌てて打ち消す。
「あ…、でもこのあたりでは、あまり降らないですよね、積もるほどの雪は。いいです、今のは忘れて下さい」
広瀬は少し考えて、言った。
「雪の多いとこか…、わかった。大丈夫だよ、探しておく」
次の週の土曜日。 広瀬が約束の時間より少し早く着くと、陽深はもうアパートの前で待っていた。
カジュアルなハーフコートに、荷物はキャンバス地のリュック一つきり。いつものように薄着で立つ陽深の前に、ダークブルーのXVがゆっくりと停まる。
「早いね。部屋で待ってれば良かったのに、寒かっただろう」
中から助手席のドアを開けながら言った広瀬に、
「なんだか、落ち着かなくて。早く起きちゃったし…」
陽深は少し照れたように微笑んで、答える。まるで遠足に行く前の子供のようなセリフ。
「乗って」
広瀬が促すと、陽深はおずおずと助手席に乗り込んだ。ぎこちない手つきで締めようとしていたシートベルトを、広瀬が取って締めてやる。そして、広瀬が静かに車を走らせるのを、陽深は珍しいものでも見るようにじっと見つめていた。
「前見てないと、酔っちゃうよ」
広瀬はそんな陽深の様子に、笑いながら言った。
「あ、ごめんなさい。タクシー以外の車ってほとんど乗ったことないし、助手席なんて初めてだから――。車の運転って、間近で見るの初めて」
「え?」
感心したように言う陽深に、広瀬は驚いて陽深の方を思い切り振り向いてしまった。
「あ、前」
慌てて、陽深が言う。
「え、――ああ、ごめん。大丈夫だよ」
広瀬も慌てて前に向き直る。ふと間が空いた瞬間、なんだか妙におかしくなって、二人同時に吹き出してしまった。
「おかしいかなぁ…。おかしいですよね。この歳になって車の運転見たことないなんて」
くすくす笑いながら、陽深が言った。
「いや、――」
楽しそうな陽深を見て、広瀬はやはり来て良かったと思った。
あの夜は思わず勢いに任せてああ言ってしまったが、妻子のいる広瀬が週末の二日間黙って家を空けるのは不可能だ。
いろいろ口実を考えてみたが、結局、この真冬に接待ゴルフというかなり苦しい言い訳になってしまった。車のトランクにはしっかり、ゴルフクラブのセットが一式入っている。
三時間ほど車を走らせて、やっと目的地に着いた。山の中腹を走る道路の、見晴らしのよいところでいったん車を停める。刺すように冷たい空気のなか車を降りると、眼下には透き通った湖が広がっていた。
普段はなにもない静かな田舎町だが、関西でも雪の多い滋賀県の北部、本格的な冬を迎えたこの時期の、湖を囲む美しい雪景色は知る人の少ない隠れた名所だった。
だが、今は曇り空の下、何日か前に降った雪の名残りがところどころに白い斑点のように残っているだけ――。
「いい場所ですね」
それでも陽深は、白い息で呟いた。山のくすんだ緑を背景に、湖岸の松林、静かな湖。都会を離れればとくに珍しくもない、日本の田舎の風景。だが陽深にとってそこは、間違いなく居心地のいい場所だった。
宿に着いてから夕食までの時間を、教えられた近くの名所旧跡を散策して過ごす。その日の宿は、湖岸にある古い小さな旅館で、離れになっているその部屋の前には、湖を借景にした小さな庭が造られていた。
「ええ眺めでしょう。古くて質素な宿ですけど、眺めは最高です。今日は冷え込んでますし、こんな空模様ですから、明日の朝はきっと一面の雪景色ですわ。お客さん、ええときに来はりましたねぇ」
案内してくれたこの宿の女将が、人懐っこそうな笑顔で言った。
「そうですか。着いたときはもう雪がなかったんでがっかりしてたんだけど、…よかった」
ほっとしながら、広瀬は相手の話に合わせる。
陽深は、雪がみたいと言った。だから、そのためだけに、ここへ来たのだから。
「ええ、大丈夫ですよ。ここらへんは雪の多いとこですし」
「でも、観光客はいいですけど、地元の方は大変ですね」
女将は、手馴れた仕草でお茶を入れながら言った。
「そうですねぇ。渋滞するし、雪かきも大変やて嫌う人も多いですけど、この湖のへんに住むもんはそれでも雪は好きですよ。遠くからやって来はるお客さんだけやなしに。そりゃあきれいですし。不便なのも、慣れたらそれが普通のことですから」
広瀬の言葉に、歳相応に皺の刻まれた笑顔でおっとりと答える。
「お食事は六時頃でよろしいですか?」
「ええ」
「お風呂は、もういつでも入っていただけますから。そしたら失礼します、どうぞごゆっくり」
女将が出て行った後、外を見ていた陽深に話し掛ける。
「降るってさ。よかったな」
「ええ」
頷いて、振り返る陽深。広瀬は窓辺に近づくと、陽深の隣に立った。
「でも、――降らないなら降らないで構わないんですけど」
呟くようにそう言った陽深に、広瀬は苦笑する。
「おい、雪が見たいって言うからここにしたんだぞ」
「…もともと僕は雪国育ちだけど、大学に入って上京してからは、雪らしい雪って見たことないんです。雪のあるところへは、行かなかったから――。でも、何故でしょうね。広瀬さんにどこがいいかって聞かれたとき、ふとね、思い出したんです。――そろそろ懐かしくなってくる頃なのかな」
なにげない調子で微笑んで言った陽深の顔は、どこか痛みを堪えながら大丈夫だと笑う――、そんな表情に見えた。
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