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食事を終えて、先に陽深が風呂に入り、入れ替わりのように広瀬が入った。ホテルの大浴場とまではいかないまでも、他の泊り客も使う共同浴場なのだから一緒に入ってもよかったのだが、広瀬は先に入れと促した。
不自然なのはわかっていたが、風呂場で以前のように反応してしまったら言い訳のしようがない。陽深の方は別段不審に思った様子もなく、素直に広瀬の言葉従った。
一緒にいると楽しくて、居心地がよかったはずなのに、最近どこかぎこちない二人の空気。気詰まりではないのに、一緒にいるとどこかで緊張している。
相手の一挙手一投足が気になって、落ち着かない。気がつくと、ただ見つめていた。――こんな状況をなんと呼ぶか、本当は広瀬ももう気付いていた。
広瀬が部屋に戻ると、浴衣姿の陽深が、並んで敷かれた布団の上に所在無く座っている。暖房の効いた部屋で、浴衣の上から丹前を羽織り、それなのに彼はなぜか寒そうに見えた。
陽深は帰ってきた広瀬に気付くと、顔だけ向けて言った。
「降ってきましたよ」
横にかがみ込むと、陽深が指をさした雪見障子を透かして、うっすらと雪を被り始めた庭が見える。
「ああ、本当だ。この分ならかなり積もるだろうね。――障子、開けようか」
「え?」
陽深は一瞬怯えた目で、広瀬を見返す。
「開けたほうが良く見えるだろう? もう一枚ガラス戸が向こうにあるから寒くはないし」
「そう――、ですね」
陽深の様子にどこかぎごいないものを感じながらも、広瀬は立ち上がって障子を開ける。
一面に広がる、雪景色。
暗くて湖の方までは見えないが、整えられた小さな庭はもう真っ白で、その上の空間までも埋め尽くすように、ゆっくりと落ちてくる牡丹雪。あとから、あとから。
広瀬はちょっと考えて部屋の明りを消し、陽深のそばに戻ると黙って横に座る。陽深は、黙ったままじっと外を見ていた。 明りを消した部屋から見る雪景色は、それ自体が発光しているかのように、青白く浮かび上がっている。 ずっと降り続く雪をみていると、理由もなく不安になる。波の打ち寄せる浜辺で、ずっと波を見つめて続けているときのような、不安と孤独。まるで、世界でたった一人の人間になってしまったかのような――。
「広瀬さん」
不意に、陽深が広瀬の浴衣の袖を掴む。
「ん?」
振り向いた広瀬に、
「いえ…」
目を伏せて首を振る陽深。離そうとした手を、広瀬が引きとめる。
「――冷たいな。寒い?」
広瀬は掴んでしまってから、振り払われるかと不安になる。冷たくこわばった、陽深の手。
「いいえ…。広瀬さんの手は、温かいですね」
けれど陽深は、そう言って、広瀬に預けたままの右手から、体から、ほっと力を抜いた。そこで初めて、広瀬は陽深が体を固くしていたことを知った。
「陽深?」
どうしたのかと問うような広瀬の視線から逃げるように、陽深はそっと雪景色の方へ目を逸らす。
「本当はずっと、――怖かったんです」
「怖い?」
「ええ。雪は…、母が死んだときのことを思い出すから――。いつか、少し話したことがありましたよね」
「ああ」
広瀬は掴んだままの手に力を入れる。
「父と母の間のことや、向こうの家庭のことは、子供だった僕には、よくわからないことでしたし、どうでもいいことだった。母が亡くなった、本当の理由も――。ただ、覚えているのは、いつからか三日とあけず家に来ていた、父――と教えられた男の人が、そのうちだんだんと来る回数が減っていって、それと並行して母のお酒の量がどんどん増えて。――そして、ついにはその男の人が来なくなった。――母はいつも、何があっても、夕方には食事の用意をして、きれいにお化粧をして、何時に来るかわからないその人を毎日待っていました。最後の方は、きっと彼は来ないって、わかっていたはずなのに。毎日明け方までずっと起きて待っていて、でも結局は彼の為に用意したお酒を飲んで、飲みつぶれて寝てしまう。もうそんな日がずっと続いてた…。――それが、その日は…、僕が学校から帰ってきたとき母は出かけていて、何時になっても帰ってこなかった。そのとき僕は、まだ小学生だったけれど、たいていのことは一人で出来たし、母とはただ同じ家に住んでいるだけみたいなものだったから、変だとは思ったけどいつもどおり寝てしまったんです。――でも、朝、目がさめても母は帰っていなかった」
陽深は、降り続ける雪に視線を預けたまま、淡々と話す。まるで他人事のように。
仄かな雪明りが、表情のない陽深の横顔を照らしていた。広瀬は黙って彼の肩を抱き寄せる。脅かさないように、そっと。
「朝起きてすぐ、僕は外に出ました。前の夜はずっと雪だったみたいで、外は真っ白で。よく晴れた朝で、目の奥が痛くなって目を開けていられないほど眩しかった。――そこで、見つけたんです。家から十メートルと離れていない道端で、半分雪に埋もれるように倒れている母を。――でもね、なぜかそのときは、大変だとか、死んでいるんじゃないかとか、そういうことは考えなかったんです。僕は…、ゆっくりと滑らないように気をつけて歩きながら、母の近くへ行きました。顔も手足も真っ白で人形のようだったけれど、気に入っていた春物の柔らかい花柄のワンピースを着て、夢を見てるみたいに微笑んで。――そして、すぐそばにしゃがみこんで、投げ出されていた母の手を取ったんです。そしたら、とても、冷たくて――」
そこまで言うと、陽深はふっと自嘲するように小さく微笑った。
「当たり前ですよね。死んでるんだから――。でも、僕はびっくりして、怖くなって…、手を離すことが出来なかった。――氷のような母の手は、ぴくりとも動かなくて、僕が手を離せば簡単に滑り落ちるのに、まるで繋がった鎖みたいに、離せなかった。――そのうち近所の人たちが気付いて、大騒ぎになって…。――母の死因は、泥酔して路上で眠り込んでしまったための凍死ということに、なりました」
陽深は少し間をおいてから、広瀬の顔を見上げ、努めて冷静に言った。
「でもね、変かも知れないけど、もう昔のことだし、母の死自体はとっくに納得してて、哀しくはないんです。ただ、雪は――、母の冷たい手の感触を思い出させるんです。寒さには強いはずなのに、どんなに暖かくしていても、雪を見てるだけで、寒くて、意味もなく不安になる…。叫び出しそうなほど。――おかしいですよね、自分から見たいって言ったくせに。雪を見なくなって随分経つから、もう平気になったかなって思ったんですけど…」
「陽深…」
気がつくと広瀬は、陽深の体を抱きしめていた。少しの隙間のできぬよう、包み込む。
「暖かいですね、広瀬さんは」
陽深が、吐息に紛れて、呟いた。
「寒くないよな」
確かめるように、広瀬がささやく。
「はい」
「怖く、ないよな」
「はい――」
なにも考えられなくほどに、ただ、人の温もりが欲しいときがある。陽深はそれを、初めて知った。広瀬の腕の中、頬に感じる、広瀬の首筋、肩、体温。
広瀬はそっと、陽深を横たえた。
はだけた浴衣から覗く肩のくぼみに、唇を落とす。膝に、腿に、手を這わす。寄せ合う肌と肌で、互いの存在を確かめる。頬にかかる息遣い、胸の鼓動。皮膚の味、骨の感触――。目を閉じていても、夢じゃない。
愛撫と、喘ぎに混じる互いの名と、それだけで想いは伝わる。『愛』という言葉を口にする必要は、なかった――。
頬を撫でる冷たい空気に、目を覚ます。
目を細めて開けた広瀬の視界の隅に、もう着替えを済ませた陽深の姿があった。窓を開け、縁側に腰掛けて外を見てる。
「おはようございます」
広瀬の視線に気付いた陽深が、振り返る。
「ごめんなさい、寒いですか?」
「いや」
広瀬は立ち上がって浴衣を羽織ると、陽深のそばへ行く。良い天気だった。庭の向こうに広がる、蒼い湖。それ以外は、ただ真っ白な世界。吐く息さえも。
白いセーターを着た陽深の肩を、後ろから抱きしめる。
「きれいだな」
「ええ」
もう、陽深は逃げない。広瀬は陽深の手を取った。
「ああ、温かいな」
陽深は一瞬きょとんと広瀬を見上げ、言う。
「広瀬さんの手の方が、温かいですよ?」
「それは、寝起きだからだろ」
寝癖のついた頭で、素肌に浴衣一枚巻きつけただけの格好で、あくび混じりに言う広瀬に、陽深はくすくす笑いながら言った。
「寒くないんですか、そんな格好で」
「そりゃ、寒いよ。すっごく」
寒そうに、大げさに肩を竦めて言う。
「風邪ひきますよ。早く服を着てください」
「冷たいな、陽深。温めてくれよ」
広瀬はそのまま、陽深を押し倒す。
「え?――ちょっと、広瀬さん重い!」
もがく陽深の上に重なったまま、頬を重ねる。
「陽深」
耳元でささやく。少し体を起こして視線を合わせる。そのまま顔を近づけて――。
そのとき、離れの前の廊下から足音が聞こえた。
慌てて飛び起きたのとほぼ同時に、戸口の向こうから声がかかる。
「おはようございます。お目覚めですか?」
「は、はい」
「失礼します」
仲居さんが襖を開けたときには、広瀬はなんとか帯を締め終えていた。
「お布団、お上げしてよろしいですか?」
「はい、すみません」
布団の上に正座していた広瀬は、慌てて避ける。陽深は、部屋の隅で笑いをかみ殺していた。
落ち着かない沈黙の中、黙々と布団を上げ終えた仲居さんが、口を開く。
「もうすぐ朝食の用意ができますから」
てきぱきと部屋を整え、すぐに部屋を出て行った。
朝食時で忙しいのだろう。早く行ってくれて助かったと、広瀬がほっと溜め息をつくと、ずっと笑っていたらしい陽深が言う。
「おかしい、広瀬さん。そんなに慌てなくても――」
「慌てるよ。ああびっくりした」
陽深はおかしそうに、いつまでもくすくすと笑っている。こんなにくつろいで、楽しそうな陽深を見るのは、初めてだった。広瀬も、そんな陽深を見ているだけで、なんともいえない幸せな気持ちがこみ上げてくる。
「飯食ったら、湖の方へ行ってみようか」
「ええ」
雪景色にぐるりと取り囲まれた湖は、まるで鏡のように澄んでいた。旅館の脇にある、雪に埋もれて判別のつきにくくなった小道をゆっくり降りてゆく。
「滑るなよ」
差し出された広瀬の手に、ごく自然に手が重ねられる。
松林の中を、重なる二つの足跡を残しながら水辺まで歩いた。水際まで雪に覆われた岸辺、空を映した湖。青と白を分ける境界線が、ずっと遠くまで続いている。
「あ」
並んで歩いていた陽深が、雪で隠れていた窪みに足を取られバランスを崩した。
「大丈夫か?――歩くの辛いなら、部屋に戻ろうか」
「――大丈夫です」
変に気を回す広瀬に、陽深が赤くなって顔をそらした。
途切れた会話を繋げようと、広瀬が言葉を探す。
「――この雪だと、朝からすごい渋滞だろうな。まぁよく晴れてるから、俺たちが帰る頃にはましになってるだろうけど…」
なにげなくそう口にした自分の言葉で、広瀬はふいに、現実に引き戻される。
そう、戻らなければならない場所がある。いつまでも、ここにはいられない。それは、わかりきったことで――。
陽深は湖の方を向いたまま、黙って並んで歩いている。広瀬の方からは、陽深の顔は見えない。
湖全体を見渡せる高台で、立ち止まる。
風、というほど強くはない、湖から流れてくる澄んだ冷気が頬を撫でる。氷も張らず、雪の積もらない鏡のような水面。昨日と同じ湖のはずなのに、なにもかもが違って見えた。
「たった一晩で、こんなに変わるんだな。昨日見た風景と、とても同じところとは思えないくらい…」
独り言のように呟いた広瀬に、
「そうですね――。季節や、天気や、朝夕、それに見る人の気持ち次第で、目を奪われるほど美しく感じるときも、なにも感じないときもある。たとえそれが、同じ場所であっても」
湖に目を向けたまま、陽深が答える。
「ああ。――そうだな、そういうものなのかも、知れないな」
同じ場所に立ち、同じものを見ている二人。
けれど、立ち止まってしまった二人は、あとはもう、もと来た道を引き返すしかなくて――。
二人は、足元から這い上がってくる凍り付きそうな寒さに身を任せ、目の前に広がる湖をいつまでもただ、見つめていた。
家に帰ると、珍しく優里が起きて待っていた。
「パパ! お帰りなさい!」
「優里、まだ起きてたのか。もう十一時過ぎてるぞ」
迎えに出た優里を抱き上げながら、広瀬が驚いて言う。
あのまま、陽深とあっさりとは別れ辛くて、ついずるずるとこんな時間になってしまった。
「待ってるってきかないんだもん。優里ったら、半分寝ながら待ってたわよ」
そういえば、二人とももうパジャマ姿だった。
「ごめん。――帰り、飲みに連れていかれたから」
気まずい思いで言い訳する。
「しょうがないわね、接待だし。あーあ、でも男の人ってどうしてそんなにゴルフが好きなのかしら。真冬だっていうのに」
急に土日に出かけることになって、あまり機嫌のよくなかった涼子だったが、まだ拗ねているようだ。
「優里だって、昨日も今日もパパがいないって、ぐずるし」
そう言って、広瀬の腕に抱かれたまま寝息をたて始めた娘の頬をつつく。
「悪かったって言ってるだろ。次の日曜日にはどこかへ連れていくよ」
さすがに、仕事だから仕方がないだろう、とは言えない広瀬だが、嫌味のつもりなどないはずの涼子の言葉が、なぜか癇に障った。声を荒げることはしなかったが、棘のある言い方になってしまう。
「そういう意味じゃないわ。ただ、明日も会社だし、休みがなくて大変だろうと思ったから…。ごめんなさい、疲れてるのに」
涼子はそう言うと、眠ってしまった優里を抱き取って、寝かせに行った。
広瀬は溜め息をついて、深くソファに沈みこむ。
今まで、家族を鬱陶しいと思ったことなどなかった。どんなに疲れて帰ってきても、娘の顔を見ればそれだけで癒されたし、妻と些細なことで喧嘩をしても、半分レクリエーションのようなもので、こんな気まずさを感じたことはなかった。
今さらのように、罪悪感が頭を擡げてくる。
上着も脱がずに座り込んでいる広瀬のところへ、涼子が戻ってくる。
「隆尚さん…。怒ってる? ごめんね」
涼子は、広瀬の足元に腰を下ろし、おずおずと言う。普段優しい夫の、突然の冷たい態度に戸惑っているようだった。
「いや、俺の方こそごめん…。疲れてるみたいだ。来週の休みは、優里つれてどっか行こうな」
広瀬は涼子を安心させるように、微笑を作っていった。
「お散歩で充分よ」
涼子は、ほっとした顔で笑って答える。
「じゃあ、そうしよう。――もう休むよ」
広瀬は立ち上がって寝室に向かう。
「お風呂は?」
「いい。朝シャワー浴びていくから」
振り返りもせずに寝室に消えた夫の後ろ姿を、なぜだか取り残されたような不安を抱いたまま、涼子は黙って見送った。
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