トロイメライ

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 雲ひとつない晴天の昼下がり。陽深はいつものように画材を広げて、鴨川の河原に佇んでいた。川岸にアパートを借りてから、ここに来るのはもう習慣になっている。  けれど――、陽深は溜め息をつくと、持っていた油彩のパレットを置いて座り込む。  この土地に来てもう二ヶ月になろうかというのに、まだ一枚しか絵を描き上げていなかった。歩道橋から見た、月夜の銀杏並木の絵だけ。広瀬と出会ったあの場所の――。  いつもなら陽深は、早いときは二、三日で、遅くとも一週間もあれば一枚描き上げる。丁寧で繊細なタッチの絵だが、何時間でも集中して描き続け、一気に仕上げてしまう。描いている間は飲まず食わずで平気で、話し掛けても聞こえないくらいのめり込むことも珍しくない。彼にとって絵を描くことは、食事や睡眠と同じか、それ以上に生活の一部だった。そしてそれは、息をするように自然で、必要なことだった。  それなのに――。陽深はぼんやり描きかけのキャンバスを見上げる。  集中して描くことができない。気がつくと、違うことを考えていた。描きたいと欲求そのものさえ、薄れているような気がした。  (絵を描くことのほかに、なにも考えることなんてなかったはずなのに――)  子供の頃から、描くことだけですべてが足りていた。足りていると、思っていた。雨も風も、草も木も、暑さ寒さも、人間以外のすべての自然は、陽深を拒むことも、避けて通ることもしない。自分を取り囲む自然の姿を描くことが、彼と世界とのコミュニケーションでもあった。  暑くなれば北に、寒くなれば南に行き、またその反対も。いろいろな土地を回って、切ないほどに心惹かれる風景を、言葉に出来ない想いを絵にしてきた。それが、彼の「生活」なのだ。なによりも、描くこと以上に心奪われるものなど、どこにもない。――そのはずだった。  陽深は、仕方なく絵の具をしまい始めた。彼にとって絵は、描かなくてはいけないものでも、描こうと思って描くものではない。  あの小旅行から、もう二週間余り。広瀬と陽深は毎日のように会っていた。ほんの五分でも時間があれば。会えないときは電話で。陽深は今までにないそんな状況にと戸惑いながらも、無意識のうちに広瀬の訪れを待っている自分に気付いてしまった。  そして、――不安になる。今日も連絡があるだろうか。明日は?  いったん、習慣や約束ごとになってしまえば、それが破られるときがいつか、来る。  会えて嬉しい。会いたい。けれど、待っている自分は嫌いだった。嫌いだけれど、待たずにはいられない、複雑な感情。情緒不安定とは、こういうことをいうのかも知れないと、陽深は他人事のように思う。  自分の意思だけでは解決できない、こんな事態は初めてだった。自分のものでさえ、感情というものは思い通りにはならないらしい。  溜め息をついて視線を上げた陽深は、遊歩道を歩く人影に気付く。  せがまれて百合の花の絵を描いてやって以来、顔見知りになった母娘。買い物帰りや散歩によくここを通るらしく、ときどき顔を合わせる。  風邪を引かないようにと、ころころに着膨れして、女の子は真っ赤な頬に白い息を弾ませて、ぴょんぴょん飛び跳ねるように歩いている。どんなに寒くても外に出るのが大好きなのだと、いつか母親が言っていた。  陽深の姿に気付いた女の子が、駆けてくる。買い物袋を下げた母親は、軽く会釈してあとから歩いてきた。  「こんにちは」  駆け寄ってきた子供が、元気に言った。  「こんにちは、今日はお買い物?」  「そう、お夕飯のお買い物。今日はねー、クリームシチュー!」  嬉しそうに答える。買い物帰りに会った時は、いつもその晩のメニューを教えてくれるのだ。  「クリームシチューくらいでそんなにはしゃがないでくれる?普段の食生活の貧しさがばれちゃうでしょ」  遅れてきた母親が、冗談交じりに笑って言った。  「そんなことないです。いつもゆりちゃんが教えてくれるメニューは、どれもとても美味しそうですよ」  「うん、おいしーの。あのね、ニンジンもね、お星さまとか葉っぱになってね。おっきいお鍋でいっぱい作るの。お部屋じゅういいにおいだよ」  陽深の足に巻きついて、一生懸命に説明する。  「へえ、すごいな。ごちそうだ」  「絵描きさんもいっしょに食べようよ」  笑って応えた陽深の袖を引いて、無邪気に言った。  「え?」  「こら、急になに言い出すの」  母親が慌ててたしなめる。言われた陽深の方もびっくりした。いくら世間の常識に疎い陽深とはいえ、それはさすがにまずいと思う。  「ごめんね、ゆりちゃん。今日はこれからご用があるんだよ」  「だめなの?」  「また今度ね」  泣きそうな顔になる。  「無理言わないの。おいで」  「やっ!」  差し出された母親の手を避けて、陽深の足にしがみつく。  「いいかげんにしなさい。怒るわよ、ゆり」  怖い顔をしてみせる母親に、余計陽深に巻きついてぐずりだす。  「じゃあ、今日はお家まで一緒にお散歩しようか?」  仕方なく、陽深はゆりを抱き上げて言った。  「ほんと?」  「そのかわり、いい子でお手伝い出来るよね。ご飯はまた今度」  「うん!」  機嫌が直ったゆりを抱いたまま、母親に向かって言う。  「すみません、勝手に…」  「こちらこそ。ごめんなさい、無理言って」  「いえ、ちょうど気分転換にぶらぶら歩こうかと思ってたんです」  「あのマンションの五階なんです」  彼女が指差したのは、閑静な住宅街に建つ、まだ新しい瀟洒なマンションだった。  エントランスの付近まで来て、陽深は娘を下ろした。  「じゃあ、ゆりちゃん、またね」  「どうも、ありがとうございました。わざわざこんなところまで。今日は主人の帰りも遅いので上がってもらえませんけれど、よかったらほんとに一度ゆっくりいらして下さいね」  まんざら社交辞令というわけでもなく、親しげな笑顔で母親が言う。  「ママ、お手紙」  ゆりが、玄関脇にある各部屋ごとの郵便受けを指差した。  「はいはい」  彼女は子供の手の届かない一番上の郵便受けから、手紙を抜き取った。  それじゃあと頭を下げて行きかけた陽深の視線が、ふとその名札の上にとまる。  「広瀬、…さん?」  「はい。――ああ、そうか。まだ名前も言ってなかったんですね」  そこには、広瀬隆尚。涼子。優里。と小さく書かれていた。  「広瀬涼子です。――あの」  呆然と名札を見つめている陽深に、涼子が声をかける。  「あ、すみません。川合です、川合陽深」  混乱した陽深は、それだけ言うのが精一杯だった。  「あの、じゃあこれで」  「優里、バイバイは?」  「ばいばい、絵描きさん。またね」  無邪気に手を振る優里から、遠ざかる。  陽深は、これがいったいどういうことなのかわからないまま、逃げるように自分のアパートの帰りついた。  (ゆりちゃんて――、そうか、広瀬さんの娘さんの、優里ちゃんだったんだ――)  力なく床に座り込んだ陽深は、自分のバカさ加減に呆れた。同じ名前、同じ年頃、なのに考えもしなかった。土地鑑のない陽深は、いつも出かけていた河原が彼の家の近所だということもわかっていなかった。  幸せそうな、親子連れ。きれいな優しい奥さん、可愛い娘。以前、広瀬が話したとおりの。  そこに広瀬が加われば、まさに絵に描いたような「家庭」――。その想像は、なぜか陽深の胸を軋ませた。  警告なんだ、これは――。  もう、広瀬とは会わない方がいい。一刻も早くここを出た方がいい。  けれど、陽深は膝を抱えたまま、動けなかった。――ただ時間だけが、過ぎていく。  どれくらい、そうしていただろうか。陽深は小さく溜め息をついた。  ――あの河原には、もう行かない。彼女たちに会いそうな場所には絶対に。  その日の会社帰りは、飲み会だった。支店全体の新年会はあったが、広瀬の課は平均年齢も若くみんな仲がいいこともあって、二課の連中だけで別に新年会をしようということになっていたのだ。  仕事帰りのサラリーマンでごった返す居酒屋。広瀬たちのグループは明るい連中ばかりで、盛り上げ上手の長谷川もいるのに、なぜかその日は、やけにうるさい周りの雰囲気からは完全に浮き、妙な空気が漂っていた。なにかあったのかと訝しく思い始めた広瀬に、女子社員の高橋が思い切ったように言った。  「課長、あの――佐々木課長の件、どうなりました?」  広瀬は驚いて一瞬返事に詰まる。  「出ませんでした? 今日の会議で、その話」  遠慮がちにではあるが、真剣な顔で訊いてくる。  今日の午後行われた会議は課長以上の役職会議だったので、彼らは会議の内容までは知らないはずだった。  「本当は、明日の朝礼で発表になるはずなんだが、――まあ、構わんか。三課の佐々木課長は北九州支店に転勤になった。急な話だが、来週早々には異動になるらしい。けど、なんでおまえらが知ってるんだ?」  「なに言ってんですか、会社中の噂じゃないですか。佐々木課長の不倫騒動。だから左遷になったんでしょう?」  一応声を顰めて、長谷川が言った。  「そうなのか?」  えらく急な異動だとは思ったが、とくに左遷といえるほどの降格ではなかった。けれどそう言われてみれば、今日彼は終始無言で、異動の理由もはっきりとは聞かされなかった。  「え、知らなかったんですか? この間、サッシ部の香川さん、退職したでしょう? 彼女がその相手だったらしいんですけど、なんでも――、その、彼女妊娠してたらしくて、会社では噂になるし、奥さんにもバレて、修羅場だったらしいですよ」  長谷川が、ちらりと高橋の顔色を伺いながら言った。  「いい気味だわ。ううん、いっそのこと首になっちゃえばよかったのに。美佐だけ辞めさせられるなんて不公平よ。大体被害者は美佐なのに男ってずるい」  高橋はどうやら香川と友達だったらしく、真剣に腹を立てているようだった。  「そりゃ香川も可哀想だけど、妻帯者だって初めからわかってたことだろ。俺は佐々木課長に同情するよ。もうこの先帰ってこれるかどうかわかんないし、絶対向こうでも噂になってるから、針のむしろだぞ。あの歳じゃ会社辞めて出直しきかないしな」  長谷川が、しみじみ言う。  「自業自得じゃない。大体、大の男が責任もとれないくせにいい加減な気持ちで若い子に手出して、奥さんと別れるみたいなこと言って。結局別れる気なんかなかったくせに、詐欺じゃないそんなの!」  長谷川の言葉に、高橋が激昂して言った。  男と女とでは、かなり見方に差があるらしく、女性陣と男性陣とで意見が対立していた。アルコールが入っているせいか話がだんだん白熱してくる。形勢が不利になってきた男性陣が、それまで黙って聞いていた広瀬に水を向ける。  「でも、だれでも一度くらい、恋人や奥さん以外の女の人に惹かれるときってありますよねぇ、課長」  「――ああ」  思わず応えた広瀬に、女性陣の矛先が一斉に向いた。  「えー! 課長までそんなこと言うなんて。すごく幸せそうな家庭で憧れてたのにぃ」  「なに言ってんだよ。実際問題、課長が不倫してるわけじゃないだろ。男には、そういう部分もあるって話。ね、課長」  「ああ、そうだな――」  広瀬は曖昧に頷く。「ふりん」という言葉の響きに、どきりとした。  『不倫』――なのだろうか。陽深との関係は。  「じゃあ、課長は他の女の人と浮気したいって思ったことあるんですか?」  高橋が詰め寄る。  「いや、それは思ったことないな」  これは、本当だった。広瀬は自信を持って答えられる。魅力的な女性を、魅力的だと思うこと自体は自然なことだが、それがそのまま浮気願望とはいえない。他の男はともかく、広瀬は本来そんなにマメなタイプではなかった。  「そうですよねー、だって浮気する理由がありませんよね。涼子さんみたいな素敵な奥さまがいらっしゃるのに。私、涼子先輩に憧れてたんですよ。美人で優しくて、てきぱきしてて」  高橋は安心したのか嬉しそうに言った。彼女は今の二課の女子社員の中では、唯一直接涼子を知っている人間だった。他の営業の男たちもその点については異存がないらしく、羨ましそうに同意していた。  「そりゃ、広瀬課長のとこは絵に描いたような理想の家庭ですけどね~。浮気の理由は家庭の不満とは限りませんよね~? 恋っていうのは、こう突然ぱあっと、訪れたりするんですっ! ねっ、課長!」  酒に弱い長谷川は、もう酔ったのか、広瀬に絡んできた。  広瀬は一瞬、息をのんだ。  「人間、誰だって間違いはありますよ。そんなに佐々木部長ばっか責めたら可哀想っしょ。彼もそのときは真剣だったかもしれないし。うん、いろいろありますよ、人生ってのは」  どう見ても酔っ払っている長谷川だが、なぜか言っていることは筋が通っている。  「こら長谷川、課長に絡んでどうする。弱いだから、加減しろよ」  同僚に言われて、絡んでないとぶつぶつ言いながらも引っ張られていく。  結局、その日の飲み会は、なんだか後味の悪いままお開きになった。
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