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今夜は、広瀬は来ない。
陽深はアパートの部屋の窓を開けて、川の流れる静かな水音に、ぼんやりと耳を傾けていた。特に趣味も無く、TVさえほとんど見ない陽深だが、暇を持て余すようなことはこれまでなかった。
ただ、こうしてじっとしていれば時間は過ぎていく。なのに、広瀬に会えないこんな夜は、なぜだかとても長く感じた。
そして、音の無い陽深の部屋に、アパートの階段を上がるゆっくりとしたリズムの足音が近づいてくる。足音は止まり、軽いノックの音に変わった。
「いるのかね、早川だが――」
陽深は意外なその声に、我に返って慌ててドアに向かう。開いた扉の向こうには、恰幅の良い初老の男性が立っていた。品の良いダブルのスーツに身を包み、体格のいい欧米人とは違った意味で堂々と着こなしている。半分以上白くなった髪もすっきりと整えられ、笑顔を湛えていてもどこにも隙の無い、成功した実業家そのものの容姿。
「早川さん。どうなさったんです、こんなところにわざわざ」
驚いた顔の陽深に、
「こっちへ来るついでがあったのでね。――上がっていいかな」
早川は、ちらりと中を見て言った。
「あ、ええ。すみません、どうぞ」
部屋に上がった早川は、八畳一間の簡素な部屋を、珍しそうに見回している。
画商である早川は、美大時代から陽深の才能を認めていた春日教授の友人で、名のあるコンクールに出品することも画廊に売り込むこともしない無名の川合陽深を、援助し育てた後援者といって良かった。
今まで陽深は家がないに等しい状況で、彼と会うときは早川の画廊か、外でだった。東京近郊にいないときは、絵の受け渡しですら会うこともなく、陽深は描き上がった絵を早川をところへ郵送するだけで、絵の売買に関することはすべて早川に任せていた。
それは、早川を信頼しているからというよりも、絵が売れようと売れまいと、どんな値段がつけられようと、陽深にとってそれはどうでもいいことだからで、絵を描いて食べていけるだけの収入があれば、それで充分だった。
それでも、陽深の口座にはいつも彼には使いきれないほどの金額が振り込まれている。
「ここの暮らしが気に入ってるのかね」
「え?」
「いや、君がここにアパートを借りたというのを聞いてね。つい気になって邪魔してしまったが、――ここには、君を引き留めるなにがあるんだろうね」
いつも落ち着いた物腰の早川が、珍しく少し戸惑ったような微笑を浮かべて言った。
曖昧に、ただ微笑むだけの陽深に、早川が続ける。
「絵の方は、どうなってる?」
陽深は、壁に立て掛けてあった10号のキャンバスを、早川に渡した。
蒼い夜。銀の月。どこまでも続く銀杏の道。ひとつひとつは生真面目なくらい写実的なのに、全体をみると、どこか幻想的で不思議な印象を与える風景画。
「ああ、いい絵だ」
早川は、いつものようにそう言って頷いた。
彼はいつも、渡された絵にはどんな批評も加えずにただそう言って受け取るだけなので、陽深には早川がその絵を気に入っているのかどうか、正直よくわからない。
「他には?」
「――それだけです」
陽深の答えに、早川が驚いた様子で訊き返す。
「これ1枚だけ?」
「すみません」
思わず謝ってしまった陽深に、早川は首を振って続ける。
「いや、催促しているわけじゃないんだよ。ただ、驚いただけだ。今までのきみのペースを考えるとね。だが、――スランプ、というわけでは無さそうだし」
彼は手にした絵に目を遣りながら、そう言った。
「なんだか、描きたいという欲求が、最近あまり湧かなくて…。自分でも戸惑っています」
陽深は、言いにくそうに答える。
「そうか――。君がここにいる理由は、絵ではないんだね。よほどインスピレーションを感じるところなのかと思っていたよ。この古い街は」
早川は、ちょっと考えるように間を置いて、続けた。
「まあ、でも構わんさ。かえって君自身のためには良いことなのかもしれない。絵を描くことだけが人生じゃないからね。――まだ若いのだし、いろいろなことに興味を持った方がいい。きっと、そういう時期なんだろう。そうした経験はいずれ、これからの君の作品にも何かを与えてくれるはずだよ」
うわべだけでなく、心から言ってくれているような早川のその言葉は、陽深には意外なものだった。画商である早川にとって、絵を描けない今の自分はあまり意味の無い存在のように思っていた。
「そうでしょうか」
「ああ。だから焦る必要はないし、私に気を遣う必要もない。しばらくゆっくりするといい。生活費の方もしばらくは大丈夫だろう?この絵の代金もすぐ振り込んでおくよ」
「そっちの方は、十分すぎるくらいです」
陽深は早川の言葉に慌てて首を振った。そんな陽深を見て、早川はふと表情を綻ばせて言う。
「しかし、君に絵を忘れさせることができるものが、あるとはね。――君が絵を描くのは、野心からでも仕事だからでもない。そんなものからこんな作品は生まれない。それぐらいは、凡庸な私でもわかることだ。けれど、ただ好きだからという理由だけではないよう気もするんだがね…」
最後の方は、まるで独り言のように呟く。
「どうして絵を描くのかなんて、考えたことはないですけど――。この間、とてもきれいな雪景色を見たんです。滋賀の方まで足を延ばして」
陽深は思い出すように目を伏せて、話し出す。
「静かで、早朝の身を切るような冷たい空気すら心地よくて、雪の白と、湖の青と空の青と、言葉では表現出来ないくらい美しい光景でした。いつもなら、描かずにはいられないくらい。切なくなるほどの――。けれど、そんなとき誰かがそばに同じ気持ちでいてくれるだけで、きれいだねっていう一言だけで、満たされることもあるんですね」
そう言って微笑んだ陽深の表情は、今まで早川が見たことのない幸せそうな笑顔だった。
「そのとき、なんとなく思ったんです。誰かにそう伝える言葉の代わりに、僕は描いているのかもしれないって」
陽深はそう言うと、照れたように微笑って、それだけではないでしょうけど、と付け足す。
それを聞いた早川は、納得したように言った。
「――そうか、そういうことだったのか。それなら、絵を描くどころではなくなるだろう。いいね、若い者は。そんな君を見られるなんて、嬉しいよ。――いらぬ世話なのはわかってはいるが、気に掛かっていたんだよ、私も春日教授も。君は礼儀正しいし、素直で優しい人間なのに、目に見えない箱に入っているような、そんなどこか人を寄せ付けないところがあったから。――けれど、今夜のきみはなんだか無防備にみえる」
陽深は、画商としてではなく、陽深の身近な人間としての早川の笑顔を、初めて見たような気がした。それとも、今まで気づかなかっただけなのだろうか。干渉したり、言葉に出したりしなくとも、見守ってくれている人が、自分にもいたのだろうか――。
「実は、こっちに来たのは君の個展の件でね」
早川は、画商の顔に戻って言った。
「関西ではまだちゃんとした個展を開いたことがなかっただろう? 君も今こっちにいることだし、ちょうどいい時期かなと思ってね。目をつけていた神戸のギャラリーが借りられそうなんでね。比較的広い会場だし、近々展覧会も兼ねてやろうと思っているんだよ。それで、新作が何点かあれば、と思っていたんだが」
「すみません」
「いや、気にしないでいい。今までの分で十分間に合うんだから。どちらかというと、私が個人的に新作を楽しみしていたと言ったほうが正しい。仕事に託けてね。展覧会を兼ねるのも、手放したくない作品が多いからなんだよ。――まあ、せめて大勢の目に触れる努力ぐらいはしないとな」
早川は苦笑してそう言った。
「また詳しいことが決まれば連絡する。ほとんどこちらに任せてもらうことになると思うが、二、三きみの手を煩わせることがあるかもしれん。すまんがそのときはよろしく頼むよ」
「ええ」
「あと、君はこういうの煩わしいだろうが…」
早川は、通信会社のロゴの入った紙袋を陽深に差し出した。
「…携帯電話ですか?」
「ああ、スマートフォンだ。機能もシンプルで分かりやすいものにした。仕事用と割り切って持ってくれないか」
「そうですね。――すみません、いろいろご面倒お掛けして。ありがたく使わせていただきます」
陽深は、素直に受け取った。ホテルを出て、電話もないアパート暮らしでは早川から連絡のとりようがない。そのせいでわざわざここまで来させてしまったのだろうと、陽深は申し訳ない気持ちになる。
「それじゃあ、遅くに邪魔をしてすまなかったね。――そろそろ失礼するとしようか」
そう言って早川は、そのまま戸口へと向かう。彼がノブに手をかけたとき、陽深はその後ろ姿に思わず声をかけていた。
「あの――」
振り向いた早川に、陽深は言葉を探す。
「今日は、どうも、ありがとうございました」
それだけ言って頭を下げた。思わず声をかけてしまったが、なにを言いたかったのか、自分でもよくわからない。
「――落ち着いたら、いちど春日教授のところへも顔を出してやりなさい」
早川は笑みを浮かべてそう言うと、静かにドアを閉めた。
陽深が早川から渡されたスマホには、早川の電話番号と、恩師だという大学教授の番号が予め登録されていた。
使い方が分からないという陽深に、広瀬は一から説明しながら、自分の番号を登録してラインも登録した。
すごいですね、ドラえもんの秘密道具みたいだと云った陽深の顏を思い出すと、今でも笑みが浮かんでしまう。
広瀬は会社のデスクから、陽深に電話をした。
「今日は七時までにはあがれそうなんだが、出てこれるか? ――じゃあ、七時に南座の前で」
約束だけして、すぐに電話を切る。
ここニ、三日会えなかった。たったそれだけのことで不安になる。ふと気がつくと陽深のことを考えている。本当は毎日会いたい。ほんの一瞬顔を見るだけでも。まるで禁断症状みたいだと、広瀬は自分でも可笑しくなった。
少し離れた席から、しっかり聞き耳をたてていたらしい長谷川が声を上げる。
「あ、課長デートですかぁ?」
「なに言ってんだよ」
「怪しいなあ」
「学生時代の友人と久しぶりにあうんだよ」
ふざけた調子の長谷川を軽くかわすが、彼もなかなかしつこい。
「えー、言い訳するところが怪しい」
「嘘だと思うならついてくるか? 来てるのは男だぞ。たまには長谷川に奢ってもらうのも悪くないな」
「あ、ははは――。遠慮しときます」
素直に引き下がってくれて、広瀬がほっとしたとき、
「なに邪魔してるの? 長谷川くんは課長の浮気賛成なんでしょ」
横で聞いていた高橋が冷たく言った。
「え? なにそれ」
「おとといの飲み会で言ってたじゃない」
「知らねー。そんなこと言ったっけ? 俺」
「もう! 信じらんない。男だったら言葉に責任もってよね」
仲が良いのか悪いのか、言い合いをしている二人を残して、広瀬はそそくさと席を立つ。
「それじゃあ、得意先回ってそのまま直帰するから。なんかあったら携帯にな」
広瀬はそれだけ言い置いて、さっさと出掛けた。
七時に待ち合わせの場所に行くと、いつものように陽深は先に来て、所在なげに立っていた。最近は、広瀬が陽深のアパートに直接立ち寄ることが多く、こんなふうに外で待ち合わせたのは久しぶりだった。
「ごめん、待たせたね」
「いいえ」
現れた広瀬に、一瞬ぱっと顔をほころばせたが、陽深はすぐに視線をおとす。
「どうかした?」
「いえ――」
どこか沈んだ様子が気になったが、広瀬は陽深の肩を抱いて、押し出すように歩き始めた。
「今日は冷えるな。鍋にしようか」
顔を覗き込んで明るく言う広瀬に、陽深も笑って頷いた。
食事の後、広瀬はタクシーを拾って静かな住宅街の外れへと向かった。着いたのは、『Rondo』と書かれた、古ぼけた看板のかかる小さいながらも洒落たつくりの洋館。バーのようだった。
広瀬は、大きな厚い木の扉を押して入ってゆく。中は、琥珀色に柔らかく照らされた落ち着いた雰囲気。陽深は、広瀬の後ろについて、物珍しそうに周りを見渡している。外国の探偵小説か映画に出てくるバーのようだと思った。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね、広瀬さん」
カウンターの中から笑顔で迎えるバーテンダーは、大学教授のようなインテリっぽい雰囲気の年配の男性だった。二人はカウンターの中ほどの席に腰掛ける。彼らの他に、客はいない。
「良かったよ、開いてて。来てはみたものの、閉まってたらどうしようかと思った」
「運がよかったですね」
広瀬の言葉に、マスターは他人事にようににこにこと言った。
「ここって不定休でマスターの気が乗らないと休みになるんだよ。場所もこんな住宅街の外れにあるし、前から連れてきてみたかったんだけど、なかなかね」
広瀬は苦笑して云った。
「素敵なところですね」
陽深は嬉しそうに微笑って言った。 陽深はもともと出歩く方ではないし、酒も多少は口にするが特に好きというわけではない。
普段広瀬が行くありきたりの場所がかえって陽深には目新しく新鮮に映る。二人で鍋をつついたり、賑やかな大通りを歩いたり、そんな些細なことで彼は無邪気に喜んだ。広瀬はそんな陽深の笑顔が見たくて、こんなふうに彼を連れ出す。陽深がそれを楽しいと思えるのは、一緒にいるのが広瀬だから。その一番大事な部分には気付かないままに。
「何をおつくりしましょうか」
「僕はいつもの水割りで。彼には、なにかカクテルを。種類はよくわからないから、マスターに任せるよ。あまり強くないやつで」
店主は慣れた手つきで用意を始める。
「この店は、マスターが定年後の趣味って云うか、道楽でやってる店でね。さっき云ったような状況だから、いつもすいてるし、客も常連ばかりだ。2年くらい前からかな、偶然知って、ときどき来るようになったんだ」
陽深は黙って広瀬の話を聞いていた。暖かな淡い灯り、少しトーンを落として話す広瀬の声、肩が触れる距離で。低く流れるBGMに、マスターが振るシェーカーの軽い音が響いている。
陽深は、穏やかに自分を見つめている広瀬に、自分が涼子たちと知り合いだということを言うべきだろうかとふと思う。
もう彼女たちとは会わないつもりだったし、黙っていればそれですむことのような気もした。けれど――。
「どうぞ」
すっと、陽深の前のコースターにグラスが置かれた。細長い薄い硝子のなかの、紅い透きとおった液体。紅から橙色に変わってゆく微妙なグラデーション。
「きれい」
口をつけずに見とれている陽深に、マスターが言った。
「アルコールは少しだけしか入ってませんし、飲みやすいですよ」
「へえ、綺麗な色だね。なんていうカクテル?」
広瀬が、マスターに聞いた。
「シャーリーテンプルです」
陽深がグラスにそっと口をつける。
「おいしい?」
広瀬が覗き込んだ。
「ええ、とても。お酒じゃないみたい」
「甘そうだな」
「飲んでみます?」
陽深が差し出したグラスに手を添えて、広瀬は口をつけた。
「旨いけど、ほんと酒じゃねーなこれ」
辛党の広瀬は、眉を寄せる。
「飲んでみるか?」
広瀬は自分のグラスを持ち上げると、答えがわかっていて聞く。陽深は顔を顰めて、首を振って見せた。広瀬の水割りはいつも、銘柄はなんにしろいつもバーボンのダブルだ。陽深には、飲めた代物ではない。陽深はたいてい、口当たりのいいワインか、薄い水割りだった。
そんな二人のやりとりに、黙って立っていた店主がさりげなく口を開く。
「初めてですね、お連れの方といらっしゃるのは」
「そうだったかな」
「ええ」
広瀬くらいの年代になると付き合いと云えば酒で、人と会うのも自然とそういう場所になる。けれどときには、社交の道具としてではなく、ひとりで純粋に酒そのものを楽しみたいときもある。ここは広瀬にとってそういう秘密の場所だった。ここに連れてくる気になったのは、陽深が初めてだ。
「思いついたときにふらっと寄りやすいからだよ。マスターの酒は旨いしね」
そんな感傷的な思いが気恥ずかしくて、広瀬はわざと素っ気なく言った。
「ここは広瀬さんにとって、とても居心地のいい場所なんですね」
陽深はなにげなくそう呟いた。おっとりとしていて、一般常識に疎いようなところのある陽深だが、不思議とときどき広瀬の気持ちを見透かしているかのような反応を見せるときがある。
思わず陽深を見つめてしまった広瀬に、陽深が微笑んだ。
「嬉しいです。僕もこの店、好きですよ」
そんなささいな陽深の言葉に、広瀬は言いようのない愛しさで胸が詰まる。
「なにか、弾きましょうか?」
マスターが、にこやかにそう言って、店の奥にある古びたグランドピアノを目で示した。
「え?」
驚いて見上げる陽深に、横から広瀬が囁く。
「こう見えても、マスターのピアノはプロ級なんだ。よっぽど気が向いたときにしか弾いてくれないけどね」
陽深の言葉は、どうやら店主にとっても嬉しいものだったらしい。
「あまり技巧的なのはもう年なので難しいですが、スタンダードなナンバーなら、ジャズでもクラッシックでも歌謡曲でも。なにかリクエストはありませんか?」
急に云われて、陽深は戸惑ったように広瀬を見る。
「せっかくだし、遠慮せずになにか好きな曲があれば言ってみれば?」
陽深はちょっと考えるように首を傾けて、
「じゃあ、――トロイメライを」
比較的ポピュラーなその曲名を口にした。
シューマンのピアノ曲、『子供の情景』のなかの一篇。ドイツ語で「夢」という意味の。
それを聞き、マスターはカウンターを出てピアノに向かう。蓋を開け、色あせたビロードの椅子に浅く腰掛けて、静かに手を添えた。
そして、ふわりと舞い降りる指先、零れ出す音。眠りを誘うような、優しい旋律。
二人はカウンターを背に、寄り添うように座っている。マスターの指先から、年を経たピアノから、紡がれる“夢”。耳を傾ける陽深の頭を、広瀬がそっと引き寄せた。陽深は広瀬の肩に頭を預けて、目を閉じる。
舌に残る甘いカシスの匂い。髪に触れる広瀬の手の温かさ。微睡むような、優しい時間――。たとえほんのひとときでも、この優しい時間は自分のものだと、ここに居てもいいんだと、陽深は思いたかった。
優しくて、せつなくて、――そして、やがて静かに終わる“夢”。いつまでも、消えない余韻を残して。
「ここでいったん停めてください」
二人の乗ったタクシーが、陽深のアパートの前で停まる。
別れる時間が近づくにつれ、ぎこちなくなる空気。訪れる沈黙。二人は帰りのタクシーに乗り込んでから、ほとんど言葉を交わさなかった。
「じゃあ――」
開けられたドアが合図のように、陽深はするりと車を降りる。
「おやすみなさい、気をつけて」
目を伏せたまま、呟くように言う陽深。広瀬の顔は見ない。引き止める言葉を抑えこむために。
「ああ――、おやすみ」
音を立てて閉まるドアに遮られ、途切れる言葉。走り出したタクシーが、二人を引き離してゆく。
去ってゆく車に、陽深がようやく目を上げた。振り返って見ている広瀬と、視線が絡まる。見送るだけの寂しい瞳。リアウィンドウに小さくなる、置いてきぼりの子供――。
「――すみません! 停めてください、降ります」
考えるより先に、言っていた。
陽深は、突然停まった車から走って戻ってきた広瀬を、戸惑いがちに見上げる。
「広瀬さん――」
「やっぱり、寄っていっていいかな」
弾む息でそう告げた広瀬の肩を、ふいに抱きしめた細い腕。思いがけない激しさで。
ただ、そばにいる。簡単な、たったそれだけのことが、彼の求めるすべてなのだと、広瀬はようやく気がついた。
「カーテン、買わなきゃな」
広瀬は陽深の肩を抱いたまま、ぽつりと言った。
「ん――」
広瀬の体温を感じながら眠りに落ちかけていた陽深は、ふいに現実に引き戻される。
がらんとした部屋に敷かれた、一組の布団。白いシーツの上の二人を照らすように、街灯の仄かな明りが窓から落ちてくる。
陽深は黙ったまま、広瀬に背を向けて寝返りを打つ。
枕にした広瀬の腕。視線の先には、淡い光を照り返す腕時計のメタル。文字盤の部分はちょうど下になっている。
「陽深?」
不意に腕を掴まれて、広瀬が陽深の方に顔を向ける。陽深は広瀬の手首を持ち上げて明りにかざす。12時を少し過ぎてしまっていた。いつもならもう、とうに帰っている時間。
彼は日付が変わる前には、必ずこの部屋を出る。
広瀬は陽深の動作の意味に気付くと、背を向けた陽深ごと腕を引き寄せる。そうして横たわったまま、腕時計に手を伸ばした。陽深はそれをぼんやりと眺めていた。
広瀬はいつも、腕時計を外さない。帰る時間が近づくと時折さりげなく時計に目を遣る。そして云うのだ、もうこんな時間だ、と。
けれど今夜は、広瀬は時計を外そうとしている。外して、文字盤をかざす。
「もうこんな時間か――」
陽深は目を閉じて、体を固くする。
「そろそろ眠らなきゃな」
そう云いながら、広瀬は枕もとに時計を置いた。
「広瀬さん――」
驚いて、体を起こす陽深。
「ん?」
伸ばされた手が、陽深の頬を包む。
陽深は、なにも言えずに、広瀬の胸にことりと頭を落とした。
規則正しい呼吸、上下する胸は揺り篭のようで、鼓動は子守唄のよう。どんな毛布より温かい人肌は、考えることを妨げる。
罪悪感を捨て去ることは出来なくても、目を逸らすだけなら、こんなにたやすくできてしまう――。
陽深はそのまま、そっと、目を閉じた。
(まだ、今は、“夢”の続きなんだ…)
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