トロイメライ

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 「隆尚さん!いったいなにが ――」  戻ってきた夫を問い詰めようとする涼子。だが、広瀬はどんな言葉も耳に入らない様子で、無言でリビングのソファに腰を下ろす。  いつもと違う張り詰めた空気に怯える優里を宥めながら、涼子が子供部屋に連れてゆく。  広瀬は、混乱していた。この状況にも、陽深からの突然の別れの言葉にも。  「隆尚さん、ねえ」  戻ってきた涼子が不安そうに広瀬の膝を揺する。  「陽深、いや、彼とはどういう知り合いなんだ」  難しい顔のまま、呟くように広瀬が言った。  「優里のお友達なのよ」  「優里の?」  ようやく、広瀬は顔を上げた。  「ええ。顔見知りっていうか、優里を連れてのお散歩の途中でよく見かける人で、優里が懐いてしまったの」  「それでどうして、彼がここにいるんだ。この家に!」  広瀬は思わず、苛立ったきつい口調で言う。  「私が呼んだの! 偶然会って、―― 寂しかったから、誰かに話を聞いてほしかったから…。それだけよ。なにもやましいことなんてないわ」  涼子はそう言いながら、溢れてきた涙を拭って続ける。  「あなたが悪いのよ…。私、わかってるわ、あなたが浮気してること」   「涼子 ――」  「ほら、やっぱり」  絶句した広瀬に、涼子は泣くのを堪えようと唇を噛んだ。  息苦しい沈黙。それでも広瀬は口を開かない。  「私、不安で、誰かに相談にのってもらいたくて ――。でもこんなこと会社の友達にも言えないし、両親や、まして兄には心配かけられないし。ずっと、一生懸命打ち消してきたけど、…でも、やっぱりそうなのね」  「―― すまない。君を裏切るつもりじゃ、なかったんだ…」  項垂れてあっさりと認める広瀬を、涼子が縋るように見上げる。  「別れて、くれるわよね、その人と。今すぐに」  広瀬は、動かず黙ったままだった。頷くことも、撥ね付けることも出来ず、胃が締め付けられるような痛みに、ただ耐える。  「ねえ!」  涼子が、駄々っ子のように膝を揺さぶる。  「私、許すから。忘れるから。なかったことに出来るから!責めたりなんかしないから…」  「涼子 ――」  泣き縋る涼子をソファに引き上げてやりながら、広瀬はのし掛かってくる罪悪感に圧し潰されそうになる。それでもやはり、頷くことは出来なかった。  「彼が、言ってくれたの。きっとあなたは帰ってくるって。一番大切なのは、家族なんだって。―― 気休めでも、信じたいの。私や優里を捨ててまで、手に入れなきゃならないものなんてないよね?」  逸らそうとする広瀬の視線を捕らえて、涼子が訴える。  「陽深が ――、そんなことを?」  広瀬がそう言って苦しげに歪めた顔は、無理に笑おうとしているようにも見えた。  「ええ」  涼子は、そんな広瀬の様子に不安げに頷く。広瀬はなぜか不意に、大声で笑い出すか、叫びだしたいような衝動に駆られた。  結局陽深は、良心と引き換えにしてまで、俺を必要とはしてなかったっていうことか。穏やかで淡々としたポーカーフェイスの裏に隠されていた、人の温もりに飢えた淋しい瞳。自分を見つめる目、戸惑いがちに絡みつく腕。  ―― そんなに簡単に捨ててしまえる程度の想いだったのか?  広瀬は、これは優柔不断な自分の態度が招いた事態だと、涼子を苦しめているのも陽深を追い詰めたのも自分だと、よくわかっていた。わかってはいても、自分を切り捨てようとする陽深が許せなかった。身を引こうとする陽深が、なりふり構わず広瀬に執着できない陽深が、歯がゆくて、―― 愛おしい。  このまま、彼を失いたくない ――。  「ねぇ、隆尚さん…。彼とはどういう知り合いなの?」  急にふらりと立ち上がった広瀬を、涼子が訝しげに見上げる。  「すまない、涼子。俺はあいつを、陽深を愛してるんだ」  逃げるようにアパートに戻った陽深は、後ろ手にドアを閉めて鍵をした。そのままドアに凭れ、乱れた息のまま部屋を見渡す。  なんの変哲もない、どこにでもあるアパートの一室。隣も階下も同じつくりで、それぞれに人が住み生活する、家。  けれどここは、『家』じゃない。僕には、『家』など作れない。必要ない ――。  陽深は自分の部屋に上がることも出来ず、ずるずるとその場にしゃがみ込む。この部屋には、自分だけ。一人きり、他に誰もいない。そんな当たり前のことに、寒気がした。  もうここにはいられない、いたくない ――。  ドアに凭れて座り込んだまま動けずにいた陽深の背中に、響く振動と声。  「陽深!」  周囲を憚ることなく、必死に陽深の名を呼び扉に激しく拳を叩きつける。  「陽深、開けてくれ、いるんだろ」  切羽詰まった広瀬の声に、陽深は呆然と立ちあがる。  「陽深、頼むから ――」  陽深は黙ったまま、息をひそめて立っている。薄い戸板一枚隔てた向こうの、広瀬の気配を感じながら。  そのまま黙り込み、懇願するようにドアに凭れかかる広瀬の気配。  陽深は、無意識にドアノブに伸ばしかけた手を止める。代わりに、無理に絞りだした言葉が悲鳴のように響いた。  「帰ってください! お願いだから…、このまま帰って」  陽深の理性を支えているのは、二人を遮るこの閉じられたドアだけだった。  「―― 帰らない。このまま帰ったら、もう二度と会えなくなる。君は手の届かない、遠い場所に行ってしまう。一人で――。俺は、ここにいるから。君がドアを開けてくれるまで、ずっといる」  広瀬は、陽深に言い聞かせるように一言一言はっきり云うと、それきり口を噤んでただ待った ――。  永遠のような沈黙に、耐え切れず陽深はドアを開ける。目が合うより先に、広瀬は陽深を強く抱きしめていた。  「広瀬さん」  吐息のように、甘く掠れた呼びかけ。広瀬の腕の中で、陽深は震える瞼を閉じた。  こんなふうに彼の腕の中に包まれて、彼の言葉にも、自分の心にも、逆らうことなどもう出来ない。  「どこへも行くな。ずっと俺のそばにいてくれ、陽深。ここにいられないなら、俺も一緒に行くよ。何もかも捨てて、構わない」  「広瀬さん ――」  思わず体を離した陽深を見つめて、広瀬は迷いのない顔で言う。  「本気だよ」  「そんな…」  「ダメか?」  優しい覗き込むような問いかけと、そっと陽深の頭を引き寄せる大きな手。何も考えたくない、考えられない。陽深は、この手が自分のものになるならどんな罰を受けてもいいと、思った。  「―― 離れたくない」  こぼれ落ちた、何も偽らないただ素直な気持ち。理性や常識の殻の下に押し込めていた、たった一つの欲望。  幼子のように無防備な、震える陽深の体を、広瀬はただ包み込むように抱きしめていた。  翌日、広瀬は陽深のアパートから、いつもと変わらぬ様子で出勤した。二、三日中に、陽深は部屋を引き払い、広瀬は出来る範囲内で仕事を整理するつもりだった。  もちろん普通の円満退職などはなから無理な状況だったが、最低限の後始末はしておきたかった。明日か明後日には、「失踪」というかたちですべてを放り出して行くのだ。  取り合えず、空家同然となっているという東京の陽深のマンションに行くことになっていた。そこから先のことは、まだ考えていない。とにかく、少しでも早くどこかへ行かなければ ――。二人はただ、焦りにも似た思いに囚われていた。  「課長、すみません。今なんか変な電話があったんですけど」  外回りにもいかず、朝から黙々とデスクワークをこなしていた広瀬に、高橋が遠慮がちに声をかけた。  「変な電話?」  「はい。課長に掛かってきたんですけど、お名前おっしゃらなかったんで、伺ったら切れちゃったんです」  「―― 女? 男?」  「男性です」  広瀬は男だと聞いて幾分ほっとしながら、言った。  「いいよ、そんなのほっといて。どうせ勧誘かなんかだろ、きっと」  あんなふうに家を飛び出したまま、なんの連絡も入れてない。たとえ理解してもらえなくても、涼子と話し合わなければならないのはわかっている。わかっているけれど ――。  広瀬は大きく溜め息をつくと、朝から取り付かれたようにすすめていた仕事の手をとめた。上げた目線の先には、ブラインド越しの冬景色。暖房の効いた暖かい部屋から見える、晴れているのにどこか寒々しい空、強い北風にひゅうひゅうと音をたてる電線。ほんの1,2ヶ月後には確実に訪れるはずの、春の気配などまだどこにもない。  広瀬は体を伸ばしてPCに向き直ると、再びやりかけの仕事をひたすらこなしていった。  なんとか今やりかけの仕事にけりがついたのは、もう八時を過ぎた頃だった。机まわりだけでも掃除をしておきたかったが、不自然なのでやめた。出世には執着していないつもりだったが、いざ離れるとなると、この課長席に愛着のようなものさえ感じている自分に気付く。  平凡なサラリーマンで、自分じゃなくても出来る仕事。それでも、やりがいはあったし、嫌いじゃなかった ――。  広瀬は、そんな感傷的な自分に苦笑を浮かべ、立ち上がり気持ちを切りかえると、まだ残っている営業マンに軽く挨拶をして会社を出た。  道に出てすぐの、白く照らされた街灯の下。夜になって一段と厳しくなった冷え込みのなかで、一人の男が広瀬を待っていた。  「高村 ――」  「たまらんな、この寒さ。まったくお前の仕事熱心さには呆れるよ」  コートの襟を立て、寒そうに首を竦め腕を組んで、高村が立っていた。  どこか暖かいところへと、二人は近くの小さな居酒屋へ入る。席について注文を済ませると、先に口を開いたのは広瀬の方だった。  「涼子から、聞いたのか?」  「ん、―― 俺もあんまり人の家庭のごたごたには首を突っ込みたくはないが、今回はさすがにな」  高村は、取り出した新しい煙草に火を点ける。  「今朝、涼子から電話があってな。おまえが出ていっちまった。もう帰ってこないかもしれないって。随分取り乱してたし、理由を訊いても要領を得なくてさ。仕方ねえから、とるものもとりあえず新幹線に乗ったってわけだ。会社に電話してみたら、どうやら出勤はしてるみたいだし、お前が出てくるのを待ってたのさ」  「そうか ――」  「で、どうするつもりなんだ?」  黙りこんだ広瀬に、高村が溜め息をつく。  「ただの浮気じゃないってか ――」  独り言のように、高村はなげやりに言った。  「涼子には、すまないと思ってる。お前にも。…こんなことになって」  「俺のことはいい、おまえたちの問題だ。―― けど、このまま放っとくわけにもいかないだろう?」  「それは、わかってる…」  俯いてそう言ったきり口を開かない広瀬に焦れたように、高村が続ける。  「俺は、お前ってこういうごたごたとは無縁の人間だと思ってたよ。いい旦那やって、いい父親やって、まぁもし万が一ハズミで浮気するようなことがあっても、そのへんもうまくやると思ってた。お前が自分から家庭を壊すようなことをするなんて信じられないね。―― いったい、どうしたっていうんだ?」  高村は、少し苛立たしげな様子で言った。  「―― 浮気とか、涼子を裏切るとか、そんなつもりじゃなかったんだ。けど、気付いたら、こうなってた。どんなに責められても仕方ない。悪いのは俺だ。だけど、もう後戻りできない。彼を、―― 失いたくないんだ」  「彼?」  高村は怪訝な顔で言った。  「聞いてないのか? 涼子から。―― そうだよ、男なんだ相手は。それもおまえのよく知っている」  「お前 ――、俺もよく知ってるって――」  驚きに言葉を詰まらせる高村に、広瀬が淡々と続ける。  「川合陽深だよ。お前の会いたがってた」  「なんだって!」  高村は思わず大きくなってしまった声を、慌てて潜める。  「冗談だろう? なんで、また―― 知り合いだったのか?」  「いや ――」  説明に窮する広瀬の肩を掴むと、高村は身を乗り出して言った。  「俺はな、はっきり言って今回のことはお前の気持ち次第だと思ってた。無理に説得して連れ戻すつもりできたんじゃない。お前の気持ちを確認して、どちらにしろ涼子と話し合ってこれからのことを決めるように、その仲立ちにでしゃばってきたつもりだった。涼子には可哀想だが、結果的にお前たちが別れることになってしまってもお前の気持ちがもう決まっているなら、それはそれで仕方のないことだと思ってた。けど、―― 相手が彼なら、話は別だ」  「高村…」  いつになく真剣な面持ちの高村に、広瀬は戸惑っていた。なぜ、彼ではいけないのだ?  「お前、この間の俺の話を聞いてなかったのか?」  高村は、苛立たしげに声を荒げる。  「涼子と別れて、優里を手放して、何もかも失うつもりなのか? それで彼と幸せになれるとでも思ってるのか?」  「陽深が、男だからか?――」  「違う。―― いや、それもあるが…。涼子とのことは、まだお互い若いんだ、今は辛くても時間が経てばまたやり直せるし、優里とお前の血の繋がりまでは切れちまったりしない。あいつらのことは、俺だってついてる、大丈夫だ。けどな、―― 相手が普通の女なら、水商売でも年上でもなんでもとりあえず女なら、その相手ともう一度始めればいい。お前がそれほど惚れた女なら、俺はそれでも仕方ないと思ってた。お前が 無責任な男でも、遊びで恋愛ができる人間じゃないってことも、俺だって知ってるさ…」  高村は寂しげにふっと微笑んだ。そして、その顔を厳しく引き締めて云う。  「けどあの男は…、川合陽深は、だめだ」  「どうしてだ」  断定的な高村の言葉に、広瀬は戸惑いと微かな怒りを覚えた。不貞を責められるのならわかる。だがなぜ、陽深だからだめだと言うのか。  「彼は俺たちとは違う人種なんだよ。そりゃあ、お前が彼に惹かれる気持ちもわからなくはないさ。彼はいろんな意味で特別な人間だからな…。けどそれだけで、恋愛感情だけで一生を共になんて出来ないんだ。この歳になりゃあ、お前だってもうわかるだろう。求めるものが同じで、同じ方向を見ている人間としか人生は重ならないんだ。―― 彼と一緒になって、どうなるっていうんだ? 彼が絵を捨ててここに定住するとでも?」  「ここには、いられないよ。どこか別の土地でやり直すつもりだ」  「仕事は?」  「やめるよ」  「やめてどうする? 奴のヒモにでもなるつもりか」  高村は苦々しく、吐き捨てるように言った。そんな彼の態度に、広瀬は諦めたようなため息をつき静かに言った。  「先のことは、後で考える。とにかく、今は早くここを離れたいんだ。涼子にも優里にもすまないと思ってる。本当に――。けど、決めたんだ。もう引き返せない。…すまない、高村」  「まだ、引き返せるさ。―― いいか、後でじゃない、後でじゃ遅いんだ。今考えろ広瀬。今の気持ちだけじゃなく長い人生の先の先まで。考えて、やっぱり気持ちが変わらないなら、覚悟が決まっているなら、仕方ない。――でもな、少しでも後悔しそうなら、帰れ。涼子たちのところへ。あいつは、許してくれるよ。ずっとお前のこと、待ってるんだ。―― 涼子とお前は、似てるよ。バカ正直で、駆け引きが出来なくて。…あいつは、バカな女だけど、愚かじゃない。もう一度、やり直せるよ」  高村の口調は、だんだん穏やかな諭すようなものになり、広瀬はただ黙って手の中の氷の溶けたグラスを見つめていた。  「―― とにかく、一度は家に帰れ。まさかこのまま駆け落ちするつもりじゃないだろう。出て行くなら出て行くで、きちんとするべきことはしておけ。本来お前が背負うべきものを全部投げ出していくんだからな。優里の将来のこともあるだろう」  「―― ああ」  優里のことを言われるのが、広瀬には一番こたえた。広瀬は、温くなった液体とともに、湧き上がる苦いものを無理やり呑みこんだ。 
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