トロイメライ

1/10
209人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
 (あー、いい月だな…)  広瀬隆尚は、ため息をついて空を仰いだ。  もう真夜中といっていい時間帯。閑静な住宅街にあるこの大通りでは、時折何台かのタクシーが行き過ぎるくらいで、歩道を歩く人影は彼だけだった。  趣味のよいスーツに身を包み、ステンカラ―のコートにブリーフケースを抱えたビジネスマン。背の高い、職場のOLたちにも人気のありそうな容姿だが、今歩いている彼の姿は、いかにも疲れ切ったサラリーマンそのものだった。  中堅どころの建材関係の商社に勤める彼は、34歳の若さで課長。同期の中では出世頭だった。しかし、課長とはいっても規模の小さい京都支店での話だ。多忙な営業マンとしての役割の上に中間管理職の責任と雑務がのし掛かってくるだけの、彼にとってはまったく有り難くない状況だった。  今日の西日本ブロック会議は散々だった。  前期の営業成績は、各支店の課の中で京都支店営業部営業二課、つまり広瀬の課が一番悪かった。彼個人の成績自体は目標額をクリアしていたが、会議では課長という役職においての責任が問題なのである。散々無能呼ばわりされた挙げ句に、今期の目標額をさらに5%アップしろときた。  彼はもう一度大きくため息をつくと、胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。  いつもならバスかタクシーで通るこの並木道を、今日はなぜか急いで帰る気がせず、ことさらゆっくりした歩調で歩く。身体も精神的にも疲れ切っているはずなのに、もう少し歩いていたい気分だった。  対向車線を区切る安全地帯はかなり広くとられていて、銀杏の大木が一列の植えられている。もう十一月も半ば、銀杏の葉はすっかり黄金色に色づき、あとは散るばかり。  広瀬は、季節感さえあまり感じる余裕のなかった最近の自分に気づき、また一つため息を漏らす。その銀杏並木の葉の間を横切るように架けられている歩道橋。ふと思いついた彼は、その階段を上り始めた。  すぐそばに横断歩道があるために、今ではもう殆ど使われていない古びた歩道橋。今まで広瀬は一度も上ったことはなかったけれど、月の綺麗な静かなこの夜、月見には案外もってこいの場所かも知れない。そう思いながらのんびりと階段を上る。  階段を上りきると、意外なことに先客がいた。  広瀬は思わず立ち止まり、思ったより明るい歩道橋の上、その先客の姿を見つめる。  イーゼルを立てて、銀杏並木に向かって絵を描いている、若い――男性だろうか。長めの髪を後ろで結んでいるが、女性にしては直線的な身体のライン。  (美大生かな)  立ち止まって見つめる広瀬に気付く様子もなく、彼の視線は銀杏並木とキャンバスを往復している。肉づきの薄い整った大人っぽい顔立ちだが、唇を引き結んで一心にキャンバスに向かう姿は、まるで遊びに夢中になっている子供のようなあどけなさで――。  立ち止まったまま広瀬は、なぜかその年齢不詳の横顔から視線を外せずにいた しばらくして、ようやく広瀬の視線に気付いたらしい彼が振り向いた。 広瀬は慌てて視線をキャンバスに移して言った。  「すいません。見ていても構いませんか? その…、好きなんです、絵」  「――ええ」  彼は、少し戸惑ったように頷くとすぐに視線を戻した。広瀬は少し下がって斜め後ろの手摺りに凭れて立った。  とっさに絵が好きだなどと言ったものの、本当のところ彼にはピカソやゴッホでさえ今ひとつ見分けがつかない。嫌いではないが別段関心もなく、身内に美術関係の仕事をしている者もいるが、芸術オンチだとよくバカにされていた。  ただ単に、人が絵を描いている姿が珍しかったのだろうか。仕事中心の生活で、日頃会う人間はサラリーマンや経営者などの同年代かそれ以上の中高年。それ以外はファッションや旅行やグルメや、そういうものが話題の中心になるOL達。そういう生活を送っている広瀬にとって、絵や音楽などの芸術に携わる人間は、なんだか違う人種のようにさえ思われた。  月明かりか、街灯か、ほの白い明かりに浮かび上がる手の動き。しんと冷えた空気の中、セーターを捲り上げた細く白い腕。くせだろうか、ほんの少し傾けられた小さな顔。  広瀬は自身の行動に戸惑いながらも、一心にキャンバスに向かう彼の姿に、時間を忘れて見入っていた。  彼は筆を止めて、しばらく描いた絵と銀杏並木を眺めると、画材をしまい始めた。  「もう描き上がったんですか?」  ぼんやりと眺めていた広瀬は、はっと気がついて尋ねる。  「いえ、まだですけどもう月もだいぶ落ちたし。それに、色を置くのは昼間じゃないと…」  彼は声をかけられて一瞬広瀬の方を向いたが、すぐに向き直って手を休めずに答える。一見そっけない態度のように見えるが、声のトーンは柔らかく、気恥ずかしそうな、他人と向き合って話すのに馴れていないような、そんな感じがした。  「あの、――まだ時間ありますか?」  「え?」  不思議そうに振り返った彼に、広瀬は慌てて続ける。  「いえ、今夜は冷え込むし、よかったらどこかで温かいものでもと…」  取って付けたようなセリフ。まるでナンパだと思ったが、もう遅い。つい口をついて出てしまっていた。怪しい中年だと思われているだろうかと、広瀬は少し後悔していた。  ただ、もう少し話をしてみたいと、そう思っただけなのだけれど――。  彼は目を伏せて一瞬考えるような素振りを見せたが、意外にもあっさりと、広瀬の言葉に頷いた。  「ただいま」  当然、もう寝ているだろうと小さな声で呟きながら玄関を上がる。  「お帰りなさい」  予想に反して、リビングから返事があった。  「なんだ、今日は遅くなるから先に寝てろって言っただろ。もう1時過ぎだぞ」  遅くなったのは仕事のせいばかりではないせいか、なんとなんくばつが悪くて、少し怒ったような言い方になる。  「なぁに、それが健気にもこんな時間まで起きて待っていた妻に言うセリフ?」  ダイニングテーブルでお茶を入れながら、妻の涼子がふざけた口調で笑って言った。  「深夜番組見てたら、つい遅くなっちゃっただけよ。なにか食べる?」  「いや、いいよ」  彼はそのまま、もうすぐ3歳になる娘の優里の部屋に向かう。細く戸を開けて中を覗くと、優里はお気に入りの縫いぐるみと一緒にぐっすり眠っていた。そのまま静かに戸を閉めて、ダイニングに戻る。  会社では、スマートなビジネスマン。とても所帯持ちには見えないと女子社員に人気の広瀬だが、家ではただの子煩悩な父親だった。優里が起きているうちに帰れないときは、たとえ何時になっても、帰るとまず娘の寝顔を確認するのが日課になっている。  彼が熱い湯呑みを受け取ると、涼子は自分の分も入れて座った。  「優里ったら、今日もパパの帰りが遅いって拗ねてたのよ。お風呂入るでしょ?沸いてるわよ」  「ああ、悪いな」  「――なんだ。けっこう元気そうね」  「え?」  「会議だったんでしょ?今日。恐怖のブロック会議。朝から胃が痛そうだったもんね」  立ち上がってバスタオルや着替えの用意をしながら続ける。  「もっと、ヘコんで帰ってくるかと思ってた。思ってたほどひどくなかったの?」  涼子とは職場結婚だった。といっても、彼女は広瀬の親友の妹で、学生の頃から見知ってはいた。三つ年下の彼女が、たまたま広瀬のいる会社に三年遅れで入社してきたのだ。  もともと知り合いということもあって、親しくなるのにさほど時間はかからなかった。涼子は美人で頭も良かったし、お高くとまったところもなく、素直で明るい、広瀬の好みのタイプだった。あとはよくあるパターンを辿って結婚まで行き着いた。  結婚後はすんなり会社を辞めて家庭に入ったが、同じ会社にいただけあって内情には詳しい。今でも社の女の子達と仲良くやっているらしく、社内情報は筒抜けで浮気なんてまず無理だ。けれどこうして夫の仕事の厳しさを理解してもらえるのは有り難かった。  「まあ、キツイのはいつものことだから」  「お疲れさま」  涼子はそう微笑むと、広瀬に着替えを手渡した。  湯舟に深く身を沈め、熱い湯に疲れた体を伸ばしながら、広瀬は今日出会った青年のことを思い出していた。今考えても、大胆なことをしたよなーと、一人赤面してしまう。  彼が月夜に出会った絵描きの名は、川合陽深(はるみ)といった。  「えっ、二十七? てっきり学生かと…。あ、いや失礼」  つい不躾なことを言ってしまった広瀬に、陽深は笑って答える。  「よく言われるんです。気にしないで下さい」  彼はゆっくりとした動作でコップ酒を口にした。  本当はちゃんとした店に連れていくつもりだったが、このあたりは住宅街で盛り場の方へわざわざ出るのも大袈裟なので、結局近くにあったおでん屋の屋台になってしまった。  「なんか申し訳ないな…。こんなところで」  「いいえ」  「寒くない?」  「お酒飲んだから、暖かくなりました」  熱燗のコップを両手で囲んで言う。  適当におでんを頼んで、腰を落ち着ける。彼は言葉少なで、ほとんど聞かれることに答えているだけだったが、それでもなんとなく楽しげに見えるのは広瀬の希望的観測ばかりでもなかった。話し込むでなく、ばか騒ぎをするでもなく、こうして静かに並んでいるだけで、さっきまでの落ち込んでいた自分が嘘のように、不思議と満ち足りた気分になっていた。  会社勤めが長くなってくると、交友関係も固定してきて仕事関係の付き合いばかりになる。同じ業界の似たような境遇の人間たちばかりの付き合いが嫌な訳ではないが、広瀬は、新しい、自分の知らない世界の人間との交友を求めていたのかもしれない。  「学生じゃないのなら、もしかして画家とか?」  「そんな大層なものじゃないですけど…。働かないで絵ばかり描いてるだけだから」  彼は少し困ったように笑って、曖昧に答えた。  「よくこのへんで描いてるの?」  「いえ、今日が初めてです。京都へ来たのは今回が初めてだから」  「家はどこに?」  「一応、東京に家はあるんですけど…。決まってないんです。いろんな土地に行って描いて、また違う土地へ行って――。その繰り返しで」  その答えに、広瀬は少しがっかりしながらも聞いてみた。  「ここには、どれくらいいるつもり?」  「いつまでとは決めてないですけど…。いいところですよね。いろいろ描きたいところも多いから、しばらくいるつもりです」  「それなら…、またこんなふうに会えるかな?」  「ええ」  広瀬の申し出に、彼は素直に頷いた。  「広瀬課長」  「ん?」  いつもよりは比較的静かな夕刻のオフィス。広瀬の課の女子社員の一人、高橋が話しかけてきた。中途半端な時間に会議があったせいか、課の営業マンたちも今日はもう外回りには出ずに、伝票処理や見積りなどの溜まったデスクワークに勤しんでいる者が殆どだ。広瀬もその一人で、得意先のフロア工事の見積りを出しているところだった。  「今日は珍しく営業の人が社に残ってるし、今出掛けてる佐藤さんも、もう戻るんですって」  「うん」  なんとなく様子を伺うように、高橋が続ける。  「私たちも今日は定時にあがれそうなんです。それで…、今日は二課全員、今のところ広瀬課長以外七人、アフター5空いてるんですけどー」  広瀬は思わず苦笑していた。――要するに飲みに連れてけ、ってことか。残業が多いのはいつものことだが、成績不振だった前期末は飲み会どころじゃなかったなと、思い当たる。  「そうだな、それじゃ今日は早めに切り上げてみんなで飲みに行くか」  「え、ホントですか!」  高橋が嬉しそうに確認する。  「ああ。久しぶりだし、今日はスポンサーになってやるよ」  途端にまわりのデスクで歓声があがる。真面目に仕事をしている振りをして、実は他の連中も聞き耳を立てていたらしい。  「さすが広瀬課長。太っ腹!」  こういう時だけ元気な若手社員が囃し立てる。  「ああもう、いいから仕事しろよ長谷川。今日までに回ってきた伝票は全部値つけしとけよ。定時までに終わらなかったら追いてくからな」  「えー! そんなぁ、こんなに溜まってるのに無理ですよー」  机の前の厚さ五センチはありそうな受注票を前に情けない声を出した長谷川に、高橋が追い打ちをかける。  「自業自得です。いっつも溜めてるんだから、長谷川さんは。そこで止まっちゃうとあとで事務が大変なんです。早く回して下さいね」  「――はい、すんません」  高橋の容赦のない言葉に、小さくなる長谷川。  彼らのやりとりを笑って見ていた広瀬だが、ふと思い出したように電話に目を遣る。本当はもし早く終わるようだったら、陽深に連絡を取ってみるつもりだった。だが、   (…電話はまだないんだったな、アパートには)  思い出して広瀬は苦笑する。住所不定のくせに、陽深は携帯電話を持っていなかった。  陽深と知り合ってもう一ヶ月あまり。あれから暇を見つけては何度か二人で飲みに行った。最初はホテル暮らしだった陽深だが、思ったよりも滞在が長くなりそうだからと、彼は小さなアパートを借りた。広瀬は、今日あたり訪ねてみようかと思っていたのだ。  (明日、外回りの途中にでも寄ってみるか)  考えてみれば、おかしな関係だった。  独身で自由業の陽深はともかく、仕事に追われ家庭もあり、旧友ともなかなか会う機会を作れないでいる広瀬が、陽深に会うために一生懸命に時間を割いている。  だからといってなにか特別な関係というわけでもなく、ただ会って、とりとめのない話をしているだけ。広瀬のするありきたりの、会社や娘の話を、陽深は楽しそうに聞いている。とくに家族の話をよく聞きたがった。  けれど陽深の方は、自分のことをあまり話そうとはしない。  意外といっては失礼だが、絵だけで食べていけるプロの画家らしいということと――決まった画商にすべてを任せ、自分はただ絵を書くだけの生活だと言っていた――、家族はいなくて、一人でいろいろな場所を転々を旅していること。  それが今、広瀬の知っている陽深のすべてだった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!