火をつける少年

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火をつける少年

 背丈ほども生い茂った草の中に潜んでいた。  月光に照らされた少し先の狭い空き地のような空間で、ごそごそと幾つもの人影が蠢いている。時折、ペチャペチャと舌なめずりするような音や話し声が、すぐ耳元に聞こえてハッとする。  足音を忍ばせて近づくと、それは人ではなく、口が耳元まで裂けた鬼たちだった。草叢が切れたあたりで小さな輪を描くように立っている中に、さらに黒い影が幾つかある。その蹲った足元に白いものが横たわっていた。その白いものが見えたとたんに、体の芯が悪寒で震えた。  <死体を食べているんだ!>と思った。  髪も髭も伸び放題で、幾つもの目だけが光ってみえる。バシッと足元の枯れ枝が音をたてて爆ぜ、身が竦んだが、鬼たちは酒を呑んでいるのか、或いは肉をむさぼるのに夢中なのか、こちらに気づいた様子はなかった。  「野雉(イェィ・チー)だよ、かわいそうに」  いつの間にかすぐそばに自分と同じ姿勢でしゃがみこんだ父がいて、鬼たちのほうに目を向けたまま、囁いた。くたびれたカーキ色の軍服を着て、額のところに星のある略帽を目深にかぶっている。  父の言葉で、そうか、ここは長江の畔なのか、と気づいた。  「わしは向こうから火をつける。おまえはここで待て。用心しろ。気づかれたら喰われるぞ。そのときは合図を待たずに火をつけろ」と父は言った。  マッチを渡され、思わずギュッと握り締めた。その瞬間、強い既視感に襲われ、周囲の草が炎に包まれたように思った。                *  目の前に炎が揺らいでいる。幼い自分が小さなマッチ箱を握って呆然と立っている。板塀の下の縁から、もくもくと煙が立ち昇り、炎が裾のあたりを舐めて、自分の背丈のあたりまで這い上がってきた。  5〜6人の村の年上の少年たちが、興奮した調子で自分たちを鼓舞するように口々に囃し立てながら、塀に火をつけてまわっている。  突然、右手の裏木戸が跳ね上がるような勢いで開き、バケツをもったその家の住人らしい若い男が、何か叫びながら血相を変えて飛び出してきた。  悪童たちは身を翻し、蜘蛛の子を散らすように四方八方へ姿を消した。一番幼い自分は、逃げなければ、と思いながら、足が地面に張り付いたように動かなかった。  捕まる!と思ったが、若い男は塀に勢いよくバケツの水をぶっかけると、自分には見向きもせずに、またくぐり戸の中へ駆け込んで行った。  年長の本家の餓鬼大将が引き返してきて、自分の手を取って駆け出した。               *  ・・・昨日の晩、板倉の栄作さんが、家に火をつけられたと言うて、えらい勢いで怒鳴り込んできました。稔がマッチ持って火をつけるのを勝次が確かに見たと言います。  いくら悪さをすると言うても、まだ五つの子に、ひとりでそんなことができるとも思えません。おおかた金三らがしたことでしょうが、一緒について回っておったには違いないから、こちらは頭を下げるしか仕様がありません。  ほかの者ははっきり分からなんだそうで、稔だけがはっきり見られたようです。運が悪いといえば悪いが、しでかしたことはしでかしたことだから、申し開きはできません。  むこうも稔が独りでやったことでないことは分かっているから、無茶なことは言ってこないと思いますが、いずれ損害を言うてよこしたら、それなりの弁償はしなければならないでしょう。  今年は気候の加減か米のできが悪くて、ついこの前、どうしたものかと義男夫婦ともども思案していたところへ降ってわいた災難で、父さんも泣き面に蜂とはこのことだとため息をついています。  そちらも妙子さんのことがあって大変でしょうが、また話がはっきりしたら相談させてもらうので、心積もりをしておいてください。   私たちもことさら稔に甘い顔をしているわけではないし、、義男も自分の子と同じように接してくれてはいるが、自分たちでは気づかなくても、やはり母親と一緒にいられないことが不憫と思う気持ちがあるものだから、気がつかぬところで甘くなるからこういうことになるのかと情けない思いをしています。  どころで、妙子さんの手術の日取りは決まりましたか。やはり片肺を全部取ってしまうのですか?2年も療養所にいて良い方へ向かわないのはどういうわけか、医学のことは分かりませんが、なかなか合点がいきません。  わたしらも歳をとって、稔もだんだん難しくなってくるので、このまま預かっていることが稔のためによいことなのかどうか、またよく考えてみる必要があると思います。 ・・・                *  マッチを握った手がじっとり汗ばんでいた。  音を立てないように、火付け木になりそうな枯れ枝を集め、小さな櫓に組んだ。だが、父からの合図が来ない。そのうちに蹲っていた鬼たちが立ち上がり、動きが激しくなった。  <行ってしまうぞ!>と思った。これ以上は待てない。  立ち上がろうと踏ん張った瞬間、足元の枝がバキッと大きな音を立てた。<しまった!>と思ったとき、鬼たちが一斉にこちらを振り向いた。  月明かりの中で、口元を血だらけにした恐ろしい形相の鬼たちが、爛々と光る目でこちらを見ていた。その中の一番大きな鬼がニヤリと笑った。父の顔だった。  思わずアッ!と声を挙げ、卒倒しそうになった。鬼たちは手招きし、笑いながらこちらへ近づいてくる。  マッチを擦った。手がふるえて、なかなか火がつかない。  「もういい。馬鹿なことをするんじゃない。お前もこちらへ来い。」  父の声が聞こえた。  ようやくマッチ棒の先に火がついた。枯れ枝の櫓に火をつける。たちまち小さな櫓は炎をあげて燃え上がった。  火は乾いた草の根に広がり、河原が炎に包まれていく。 鬼たちの騒ぐ声が聞こえた。  堤の上に立って、河原の草の波を舐めていく炎を眺めていた。いつの間にか鬼の姿は消えていた。                               (了)   .
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