序章

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序章

 ずり、ずり、ずり、ずり。  衣擦れの音がする……。  十六歳の青年ラオ・フォーデンは、長い針を使って、眉間にしわを寄せながら、何か繊細そうな作業をしていた。針は薄い石タイルの断面の、気泡のような穴へと差し込まれていた。  ぼさぼさの短い茶髪に、黒い瞳。布を斜めに縛っているせいで、今は右目がすっぽり隠されている。薄汚れたチェックのシャツに、グレーのすり切れたつなぎ、腰にはいろんな道具を入れたポーチ付きの太い革ベルト。足には履き潰している感たっぷりのブーツ。――見目は悪いが、作業には絶好の服装だ。  ガリッ、と石の奥が削れる音がして、ラオは針を引き出した。ぽんぽんと叩いて、中の削りかすを出し切る。肘から手の先ほども長さのある特殊な針は、剣のようにベルトに挟んだ。  ――そして、石タイルを、床の元あった場所に、はめこみ直した。  アーチ型の天井、中庭に面した大きな窓、柱の装飾、肖像画。手入れが行き届き、埃ひとつないこの回廊は、それだけでも優美さを醸し出している。回廊といっても幅はとても広く、祭りの日には村人たちへと開放されるこの空間は、むしろホールに近い。  ずり、ずり、ずり、ずり。  微かな音に、ラオはまったく気づかない。  ラオは、たった今はめこんだタイルを、確かめるように足で踏んだ。  ――ぴんっ!  ピアノの鍵盤の一番高い音を強く叩いたような音が、誰もいないはずの回廊に、響き渡る。 「うん」  ラオは小さくうなずくと、表面に付いた作業の埃を拭き取りにかかった。  ずり、ずり、ずり……。  何かがラオの背後へと、静かに迫る。  ずり、ずり、ずり……。  音はだんだん近づいて、  近づいて近づいて  近づいて……、  ――ずっ。  やんだ。  「その目は何も映さないのか、小僧」  若い女の声に、ラオはぎょっとして顔を上げた。  すぐ横に、背の高い細身の女がいた。立ったまま無表情で、じっとラオを見下ろしていた。  この地方ではあまり見かけない、大地の肌の色をした女だった。長い銀髪、エメラルドグリーンの瞳は、濃い色の肌によく映える。 (いつの間に……。お手伝いさんかな……、変わった格好だけど)  彼女は異国の踊り子のような装束の上に、長いマントを羽織っていた。 (ここに人がいることなんて滅多にないのに。)  レースのカーテンを通して差し込む昼過ぎの陽光が、背を向ける彼女の表情に影を作る。何か嫌な予感が、一瞬頭をよぎった。 「右目の、ことですか?」  ラオは少し緊張して答えながら、逆光に目を細めて、あることに気づいた。  女のあご下。  頬骨に沿うようにして、あごの辺りから耳の後ろまで、ぱっくりと傷口が走っていた。左右対称にひとつずつ。  血は出ていないが、平気で立っているのがおかしいほど深い傷だ。 (く、首が、切れてる……?まさか……ね)  そのとき傷口の割れ目から、あごの中が、赤い中身が、一瞬、見えた気がした。 「…………!」  そこからは、口をぱくぱくさせたまま、声が出なかった。背筋を悪寒が駆け抜けた。 「――う、わ、あ、あああああああ!」  次の瞬間、ラオは悲鳴とともに回廊を全力疾走していた。  ぽん、ぴん、ぽん、ぴん、ぼん、ぼん。  駆け抜けるラオに踏まれたタイルが、例外なく、かわいらしい音を立てた。
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