ビールと残り香

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ビールと残り香

彼女と会った後はいつも倦怠感と共に酷い罪悪感が押し寄せる。 私鉄に乗り換え人がまばらになったところで、電車の隅に立ち、スーツの胸ポケットから彼女の名刺を取り出す。周りから見えないように両手で名刺を包み込み、隙間から丁寧とは言えない彼女の愛らしい手書きのメッセージを読む。 『今日もありがとう。やさしいし、一緒にいるとほんと落ち着く。時間があっという間に過ぎちゃうからなんだかいつもお別れするのが寂しいよ。明日もお仕事がんばってね』 彼女と過ごした甘い時間を思い出しつい笑みがこぼれそうになり、ハッとして真顔を取り繕いながら丁寧に名刺を折りたたみスーツのポケットに戻す。 地元の駅で電車を下りて、名残惜しみながら改札横のダストボックスに彼女からもらった名刺をしまい、家に帰るという一連の流れをもう1ヶ月ほぼ毎日のように繰り返している。 月8万円の築古アパートの玄関を開けると、キッチン奥の間仕切りの向こうから「お帰り」という声が聞こえた。 「ただいま」と返し、靴を脱いですぐにシンクで彼女の残り香がする手を丁寧に石鹸で洗い、リビングに入るともえ子がこちらに背を向けテレビを見ていた。付き合って5年。同棲して3年になる彼女だ。 テレビの邪魔にならないよう静かに戸を開け寝室に入り、スーツを脱いでスウェットに着替える。キッチンに戻り、食卓の上に置いてあった冷えた夕飯を電子レンジに入れ、温めボタンを押す。 冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、もえ子の隣に座り、プルタブを起こしたところでようやくテレビ番組がCMに入り、思い出したようにもえ子が僕の顔を覗き込みながら言った。 「最近、仕事遅いね」 何かを見透かしたような視線にどきりとして、缶ビールの飲み口の曲線を視線でなぞりながら「ごめん」と思わず返す。 「謝るならたまには早く帰ってきて夕飯作れば」 刺すような言葉が胸を抉り、怒りのような寂しさのようなどろどろとした感情が沸き上がりそうになったところで、「チーン」と試合終了を知らせる電子レンジのカネが鳴る。 僕は救われた気持ちになりながらキッチンに戻って、もえ子に聞こえないよう静かにため息をついた。 ハチミツの残り香が微かに漂う指先で鼻先をかき、缶に残ったビールを空っぽの胃袋に流し込んだ。 もえ子とはもう2年カラダの関係がなく、お互いの好きという感情も溶けきっていて、愛情なのか惰性なのか判然としない付き合いが永遠と続いている。 結婚するかどうかも分からない同棲生活は終点のない山手線とよく似ている。窓から流れていく似たようで少しだけ変わっていく景色を眺めながら席に座っているといつの間にかまた同じ駅に戻ってきていて、進んだと思っていたのに一周60分という時間をただ無駄に消費していたことに気付く。 人生という悠久で暇な時間を潰すのには最適なのかもしれないが、過ぎた時間が取り戻せないことに気付いた時にはもう遅いのだろう。僕ももえ子も、もう30歳を越えていた。 漠然とした焦りのようなものをもえ子も感じているかどうかは分からないし、話し合う機会すら二人にはないが、僕はこのまま山手線の席に座り続けて人生を浪費することに危機感を感じていた。 けれど、今更途中下車する勇気も、乗り換えるチャンスもなく、また同じ駅に戻ってを繰り返している。 そして、何かを変えたくて、勇気を振り絞って踏み出して足が向いた先が、彼女が働いているピンサロ店だったわけだ。自分でも辟易とするほどしょぼい勇気だ。 けれど、彼女と会った時、一目惚れというか運命的なものを感じた。 彼女は初めて風俗で働き初めて接客したのが僕で、僕は初めて風俗店に行き初めての相手が彼女だった。 お互い初めて同士でぎこちなかったけれど、交わしたキスも繋いだ手の温もりも、確かに愛を感じた。少なくとも僕はそう思って、それ以来、ホームページで彼女の出勤日を調べては店に通うようになった。 彼女の本当の名前を僕は知らない。彼女がどこに住んでいて、昼間にどこで仕事をしていて、休みの日に何をしているのかも。知っているのはお店の中の名前と、僕に向けてくれる笑顔だけだ。 彼女のことを知りたい。けれど上手く聞けないまま毎日のように店に通っている。まるで終点のない山手線に乗っているかのようだ。だから毎回勇気を振り絞って前に進もうとするが、結局彼女と過ごす蜜月の時が壊れてしまうのが怖くて何も聞けない。 もし神様というものがいるのなら、僕に勇気という名の剣をくださいと祈りたかった。
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