ハチミツとコックピット

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ハチミツとコックピット

強面のお兄さんに引き連れられてコックピットのような狭苦しいブースに靴を脱いで入り、何かでべたついた不潔なマットの上に腰を下ろす。 所在なさげに膝を抱え、大音量のハウスミュージックをかき分け聞こえてくるパチンコ屋で流れているようなアナウンスに耳をそばだて、彼女の名前が呼ばれるのを待ちながら、壁に貼られた注意書きをぼんやりと眺めていると、『シートでの携帯電話の使用禁止』の文字が見えて、ポケットの中にスマホが入れっぱなしだったことに気が付いて慌ててカバンにしまったところで低いパーティションの切れ目から彼女が笑顔を覗かせた。 「お・ま・た・せ」 ごくりと唾をのみ込んで、「あ、うん」と面白味のない返事しか返せない自分に辟易しながら、ずりずりと尻を引きずりシートの端に寄って彼女が腰を下ろせるだけのスペースを作る。 彼女は薄い麦茶の入ったコップをテーブルの上に置き、僕の隣の狭い隙間に体をねじ込むと、慣れた手つきでカゴからおしぼりを取り、「今日もお仕事お疲れ様」と、とびきりの笑顔で僕に差し出した。 彼女は昼間は別の仕事をしているらしいし、今もこれから深夜までしんどい接客をしなければならない。それと比べて僕は一日中トイレと自席で時間を潰しやり過ごしてその足でここに来ているのだから疲れてなどいない。いや、ある意味疲れているのかもなどと、どうでもいい思考を巡らせ、気の利いた返しもせずにいると、彼女が目を閉じ唇を重ねてくる。 ハチミツのような甘い香りが鼻先をくすぐる。 我慢できず綿毛のように柔らかな彼女の体を力強く抱きしめると、朝顔の茎のように、しっとりとした指先が僕の太ももをそろそろと撫でる。それだけで僕の頭の中は真っ白になり、カバンの中でスマホが振動し、安っぽいマットを振動させ耳障りな音を立ててもちっとも気にならなかった。 一仕事終えた彼女は長い足を折りたたんで僕に添うように横になり、「うん、やっぱ落ち着く。何でだろ・・・」と僕の腋に顔を埋めて息を吸い込んだ。 程よい倦怠感と微睡の狭間で川のせせらぎに仰がれたそよ風のような彼女の吐息が心地よく感じた。 「相性ってやつ、なのかな。遺伝子の構造が似ている相手が近づくと嫌悪を感じるんだって。体臭とか、色々。生物の繁殖って、生存競争を生き抜くために異なる遺伝子の組み合わせでより優位な遺伝子を生み出そうという行為なわけだから、本能的に自分の遺伝子と異なる相手を探そうとするのは当たり前で。それが相性の正体なんだけど・・・」 「へー。何か頭が良いって感じがする(笑)大学を出ていないわたしとは遺伝子レベルで違うぜっていう嫌味かな?」 彼女の声のトーンが下がり、しまったと思って上体を起こし、「そういうわけじゃ・・・」と、彼女の顔を覗き込むと、彼女は小悪魔のような笑みを浮かべていた。 「焦ってる。かわいいー(笑)」 ハッとして、差し出された彼女のひんやりとした指に唇を付けたとところで時間切れを知らせるアナウンスが流れた。 「ごめんね、時間になっちゃった。いつも時間が短く感じる。もっとゆっくりしたいね」 てきぱきと服を着ながら話す社交辞令的な彼女の言葉に、急に現実に戻され寂しさを感じる。 「こ、今度はロングで取るよ」 「ありがと。でも無理しないでいいよ? それじゃあ、名刺書いてくるから、ちょっと待っててね」 しばらくして戻ってきた彼女から名刺を受け取って手を引かれながら迷宮のように入り組んだ店内を歩いていると、この先に時間という縛りなく彼女と一緒にいられるアルカディアがあるような気がして心躍る。 しかしアルカディアなどなく、程なくして店の入り口に到着すると、彼女は笑顔で握手というお別れの儀式を済ませて店の奥の暗闇に帰っていく。 僕はというと、黒い重い扉を潜った先の階段に並んでいる次に彼女が相手をするかもしれない同志達から品定めするような視線という洗礼を浴び、急に羞恥心が沸き上がり、違法的な斜度の階段を速足で上りきり、逃げるように駅に向かった。
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