7人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ
暗号化された真実と禁止事項
いつも通り、トイレから自席のデスクに戻ろうとしたところで、総務の山田に呼び止められた。
「昨日の参加費。キャンセル効かないから」と言って面倒くさそうに手を差し出してくる。
僕は「ああ、昨日はごめん。急な予定が入っちゃって」と無意味な言い訳を述べながら、彼女と店で30分過ごすのに必要な金額の半分のお金を財布から出して山田に手渡した。退屈な時間を回避して彼女と過ごすために必要な経費だったと思うと安く感じた。
「ドタキャンは仕方ないとしても、電話ぐらい出ようぜ」と、山田は財布に金をしまって、地べたを這う小虫でも見るかのような冷たい視線で僕を一瞥してから去って行った。
デスクに座り、一部始終を見ていただろう小寺さんに視線を向けると気まずそうに目線を逸らされた。
僕は気を取り直し、共有フォルダに格納されているファイル名に片っ端からインデックスを付けるという無意味な作業に専念した。
その日、僕は彼女をロングで指名した。通常30分を2回分、つまり60分彼女と一緒にいられるということだ。出費は痛かったが、いつも以上に彼女と一緒に過ごせる長い時間を思うと胸が躍った。
その日も40分待ってからようやくコックピットのようなシートに案内された。
「お・ま・た・せ」
変わらない彼女の笑顔に、胸につかえていたへどろのようなものがスッと押し流されていくのが分かる。
「本当にロングで指名してくれたんだね」
彼女は僕が空けた狭い隙間に体をねじ込んで隣に座ると、そう言って僕の頬にキスをしてくれた。
腿を撫でる白魚のような細い指に手を重ねて、僕は勇気を振り絞り、「今日は何もしなくていいから」と言った。
「具合、悪いの?」と心配そうに小首を傾げる彼女の疑問を、首を振って振り払う。
「せっかくだから、あのさ、話をしたいなって。今日は時間あるし。いい?」
「え? あ、うん。わたしはいいけど、でも、お金もったいないよ?」
そういいながらも、彼女はどこか嬉しそうに微笑んでいた。だから僕も笑顔で「大丈夫。キミのこと色々聞きたいって思っただけだから」と、返した。
「じゃあ何から話す?」
僕の横にちょこんと座って可愛らしく小首を傾げる。
改めて彼女に問われると何を聞いていいのか分からなくなった。
「えーと・・・」
「なになに?」
しどろもどろの僕をからかうように彼女は僕の口元に耳を近づける。目の前に迫ってきたいつも口を付けているはずの小ぶりな耳が、触れてはいけない神聖な何かに見えて緊張した。ごくりと唾を飲み下し、えいやと切り出した。
「本当の名前、聞いてもいい?」
「えー」
想像していなかったリアクションに。いや心の隅で感じていた不安が表面化され肩を落とす。
「ごめん、教えられないよね」
「うそうそ。いいよ」
彼女は意地悪く微笑み、僕の耳に唇を付け、とびっきりの秘密をこっそりと囁くように本当の名前を教えてくれた。
僕は世界の理の裏側にある真実を僕だけが知ったような気がして、どん底から一気に這い上がり、優越感と高揚感に包まれた。
「じゃあ、次は? 何聞きたい?」
「えーと・・・」
僕は一瞬ためらいながら、勇気を振り絞り、一番聞きたかったことを聞いた。今の彼女と僕の関係なら何でも答えてくれると思った。僕の気持ちを全て包み込んでくれる気がした。
けれど、「なんでこんな仕事をしているの?」と遠慮のない疑問が僕の口から滑り出ると同時に、彼女の表情が一瞬にして変わり僕は口をつぐんだ。難しそうな悲しそうな微妙な表情。
「やっぱり気になる、よね。他のお客さんにもよく聞かれるんだけど・・・」
お客さんという一括りのワードにトゲを感じた。彼女と僕との間の3センチの隙間が千里ほどの距離に感じ、胸の辺りでワイシャツを握り締めながら「あ、いや。そういう意味じゃなくて・・・」と言い訳がましい言葉がつい口からこぼれて一層惨めな気持ちになった。
「ごめんね、ちょっと言いづらくて・・・」
「そうだよね。こっちこそごめん。他の話題にしようか」
「ごめんね」
やってしまったと思った。こういう店で働くのにセンシティブな理由があることは明白で、そこにいきなり土足で踏み込むことが如何に不躾なことなのかなど容易に想像がつくはずだった。
数秒前まで全て受け入れてくれるような気がして浮かれていた自分に心の中で思いつく限りの呪詛を唱えながら、「休みの日は何をしているの?」など、当たり障りのない質問を繰り返した。
そうこうしているうちに、1時間などあっという間に過ぎてしまった。
時間切れのアナウンスが流れた時、僕の手は汗でびっしょりと濡れていた。
彼女はいつもと変わらない笑顔で僕をハグすると、「名刺を書いてくるからちょっとまっててね」と言ってコックピットから出て行ってしまった。
一人残された僕は、所在なさげに膝を抱えて、隣のブースから聞こえてくる見知らぬ女性の喘ぎ声を聞きながら、壁に貼られている黄ばんで端が折れた禁止事項の紙きれを何度も読み返した。そこには僕が破れるようなものは書かれていなかったけれども、『キャストに連絡先を聞く行為』と『キャストと店外で会う行為』という文言がやけに目に焼き付いた。
『禁止事項を破った場合は業界特有の対応をさせていただきます』
「遅くなってごめんね」と、いつもより少しだけ時間を掛けて戻ってきた彼女の笑顔が少しだけ遠くに感じた。彼女は僕にもう一度ハグしてから名刺を手渡し、手を引いて僕を迷宮の外に連れ出した。
最初のコメントを投稿しよう!