2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
初めて葉王様とお話した日、私は恋に落ちた。
思えば、あれは奇跡の出会いだったのだ。
いつも葉王様に食事を運ぶ女房が病欠し、葉王様の三番目の奥様に仕えている母の御使いで台所に向かった私が、丁度いいところにと葉王様に食事をお届けすることになった。
当時は二つ返事で『はい、かしこまりました』と頷いた私であったが、よくよく考えれば、葉王様を怖がる者たちに仕事を押し付けられていただけだ。まぁ、そのおかげで葉王様とお会い出来たのだから、どうしようもない召使たちの行いも許すとしよう。
長い廊下をまっすぐ進み、葉王様の元へ行こうとした時、葉王様のいる縁まで何人もの鬼がずらりと列を成しているのを、私は見た。それはもう粗相をしてしまうのではないかと思う程に恐怖したが、ここは葉王様の御庭だ。葉王様を守るための鬼が沢山いても、何も不思議ではない。
そう思った私は、込み上げる涙を飲み込み、鬼達に言った。
「葉王様のお食事をお持ちしました!お通りしても宜しいでしょうか!」
「葉王様!私の物真似はおやめ下さい!顔から火が出ます!」
葉王様は、楽しそうにケラケラと笑って、私の頭を撫でた。
あれからもう5年。私は15になった。初めて葉王様にお食事を運んだあの日、鬼を見る力と、幼さ故の純粋な心を気に入られた私は、葉王様の世話係兼、弟子として迎えられていた。
「菊乃も大きくなったね。あれから修行を積んで、今やこの僕ですらお前の心を覗くことが出来ない」
「全ては葉王様のお陰で御座います。しかしながら私の力はまだまだ未熟。葉王様に心を隠せても、超・占事略決を完全に修得することは、未だ出来ませぬ」
そうだね、と眼を細めて葉王様は立ち上がった。私も彼の少し後ろについて歩いて行く。
「だけど、何故君はそんなに僕に心を隠そうと躍起になっていたんだい?そんなに心を見られたくなかったか」
「滅相もございません。私が心を隠す理由は、何度も申し上げたではないですか」
葉王様に心が見えないように修行した理由。
それは、葉王様の最も近くにいる存在として、彼の心を侵食したくなかったからだ。初めて会った当時は子供だった為に美しい心を持っていたかもしれないが、その美しさは歳を追うごとに醜く淀んでいくことだろう。それを葉王様に晒すのは、あまりにも心苦しく、申し訳なかった。
「そんな事、気にしなくても良いのに。菊乃の心は他の者達より、よっぽど美しいよ」
「そんな事はありませぬ。私は毎日毎日、葉王様を想い、嫉妬に狂うばかりです。その心、葉王様に見せる訳には」
そう。予想通り私の心は徐々に嫉妬に侵されていった。淋しがり屋の葉王様は、沢山の奥様と子を持っている。私は歳を重ねるごとに、それらに嫉妬し、嘆き悲しんでいた。本当に、心を隠せるようになっていて良かったと思う。私の心はすっかり汚れてしまったが、葉王様には美しかった頃の心を覚えておいて欲しかったのだ。葉王様は私の顔を見て何か考えていたが、しばらく間をおいて突然こう言った。
「菊乃、僕のところに嫁に来ないか?」
「…は?」
意味がわからなかった。私は目を瞬いて、口をぽかんと開けていた。葉王様はそれを見て笑っている。
「どうだい?もう年頃になったのだし、それも悪くはないだろう」
悪くない。なんて、滅相もない。恐れ多くも、葉王様にこうして求婚して頂けるとは、夢にも思わなかった。勿論ありがたくお受けする。する、つもりだった。
「……や」
「や?」
「嫌にございます……」
「えっ…」
今度は葉王様が驚く番だった。
何よりも自分を愛しているはずの小娘が、求婚を断ったのだ。驚愕するのは当然である。
「何故だい菊乃」
「そ、それは…私のような低い身分の者が葉王様の側室になるとは恐れ多く…」
「身分なんて関係ないだろう。僕だって肩書きなんか無かった」
「で、ですが…」
「菊乃、」
私は伏せていた顔をあげ、葉王様を見た。私を呼ぶ声でわかっていたが、あぁ、相当お怒りだ…。私は息を吸って、葉王様と向き合った。
「菊乃、僕に嘘をついたね?」
「ですが、この心。葉王様のものにごさいます」
空気が張り詰め、バチバチと、精霊達が騒ぐ声がした。
「菊乃、命令だ。心を解き放て」
「嫌にございます」
「何を考えている。心を解き放て!」
「嫌にございます!」
「それでは僕を裏切る者たちと同じだぞ!」
「そうにございます!菊乃は、菊乃は卑しい人間なのです!故に葉王様のご命令、聞くことは出来ませぬ!!」
「そこまでですよ、御二方」
今にも鬼が飛び出してきそうな気迫の中、静かな声が私達に割って入った。
「マタムネ…」
猫又のマタムネ様は、落ち着き払ってキセルをくわえ直した。イライラとしている葉王様とは逆に、私はホッとした。マタムネ様がいれば、もう大丈夫だ。
「お二人が喧嘩とは珍しい。何がありました」
「僕が菊乃に結婚しようと言ったら、断られたんだ。その上彼女は何故断るか言わないどころか嘘まで吐いている」
「ほほう」
私は意地になってフンッと顔を逸らしてみせた。その開き直った態度に余計混乱した葉王様は、もう一度こちらに食って掛かろうとしたが、マタムネ様が穏やかにそれを止めた。
「まぁまぁ葉王様、菊乃さんも年頃のおなごです。隠し事の一つや二つおありでしょう」
「でも」
「ここは小生に任せて。先程、お客様がお見えのようでしたよ?」
マタムネ様の言葉により、葉王様はこの場を去って行った。私はフーッと緊張を解いて、近くの縁に座ってマタムネ様を呼ぶ。
「貴方らしくないですね。あの方をあんなにも怒らせて」
「ごめんなさい。でも、気が付いたら口走っていたの。結婚したくないって」
「何故。貴方ほど葉王様を愛している者はいないでしょう?」
「私…」
自分の醜さに涙が出た。よくもまぁそんな事を考えられたものだ。葉王様が私を側室に迎えてくれる。それだけで、どれほど素晴らしいことか。しかし私はそれ以上のものを望んだのだ。葉王様の、心を。
「葉王様はご自分のご家族を全く愛してらっしゃらないわ。私、私もそうなってしまうと思ったの。耐えられなかった。側室という肩書きより、葉王様の心に、ほんの少しでいいから居場所が欲しかったんです。葉王様の求婚を断る者なんて、今までいなかったでしょう?そうなれば、そこが私の入り込む隙間だと思ったの。ごめんなさい、本当にごめんなさい…!!」
私の懺悔を、マタムネ様は感心したように聞いていた。そして、よく考えましたね、と言った。
「しかし、こうなってしまっては元も子もない。葉王様が御許しにならなければ、貴方は彼と一緒にいられないでしょう」
「フフ、そうですね。そこが私の愚かさです。何も考えていなかったわ」
これで、葉王様が出て行けと言われたら、私は出て行くつもりです。
涙を拭いながら私がそう言うと、マタムネ様は何も言わずに考え込んでいた。
その日はそのまま葉王様に会うことなく、私は床についた。翌朝、髪をとかしていると、襖の隙間から小さな式神がひょっこりと顔を出した。
葉王様がお呼びだ。
私は嬉しいような恐ろしいような気持ちを抱いて、彼の元へと急いだ。
「菊乃。お前、僕を呪おうとしたね」
「はい?」
それが葉王様の第一声だった。
私は訳がわからず、葉王様の横にいるマタムネ様を見た。マタムネ様はがっくりとうなだれ、私に目線で『すまない』と謝っているようだった。
「葉王様、何のお話でしょうか」
「僕の心を縛ろうとしたろ。それを呪いと呼んだのさ」
「は!?な、な……?!」
「お前は賢い方ではあるが、やや抜けているね。菊乃、お前が心を閉ざそうが、お前の心を知るマタムネが僕に心を開いていれば、全ては筒抜けだよ」
そうだった。マタムネ様がうなだれている理由はこれか。
二人とも、当然のことを忘れていた。何せ、今まで葉王様に隠し事などしたことがない我等だ。無理もないことである。
「菊乃、わかっているね?呪いを防がれたらどうなるか」
「呪詛返し……で、ございますか?」
葉王様はニコリとする。
ああ、何だかもうどうでも良くなっていた……。
私は投げやりに返事をし、周りを跳ねる式神に目をやる。
いいなぁ、お前たちは。私も何も考えずに、生きたいものだよ。
「はい。どんな返しでもお受け致します」
「よし。では、菊乃。葉羽の本妻となれ」
「……え?」
意味が分からず呆けていると、横でマタムネ様が「葉王様!?何を仰る!」と大声を出した。
麻倉 葉羽。
葉王様の最初のお子様であらせられる。そういえば、彼は昨日14になったのだった。私の一つ下か。
「葉王様、そのようなこと、本気ですか?」
「僕はもう決めたんだよマタムネ。これは絶対だ」
「しかし」
食い下がるマタムネ様を、私は制止した。
葉王様にそっくりな葉羽様。彼と共にいることで、私は葉王様を死ぬまで忘れることが出来ず、苦しむだろう。だが、葉王様がそう言うならそうしようではないか。ただ、やられてばかりの私ではない。
「葉王様の返し、この菊乃、謹んでお受け致します。しかしながら、一つお願いがございます」
「なんだい?」
「葉羽様の妻としてだけではなく、羽王様の弟子として、今まで通りこの屋敷に、葉王様のお側に置いて欲しいのでございます」
マタムネ様は、もう知らんぞ、とでも言うように、呆れ顔で私達を見ていた。葉王様は特に考えた様子もなく、こう言った。
「良いよ。今まで通り、だね」
にやり。
それを聞いた私は思わず悪い笑みを零した。葉王様が不思議に思った時には遅く、私は心を解き放った。勝ち誇った、この心を。
「見えますか、私の心が。私には、もう葉王様に隠すものは何もありません。私が葉羽様の子を産み、愛し、育てる様をご覧遊ばせ。葉王様のお心、どのように乱れるか見ものでございますね。最も私に、葉王様の心、拝見することなど出来ませぬが」
なんと性格の悪いことだろう。師に向かって、愛する方に向かってこのような事を口走るとは、正気の沙汰ではない。
しかし、それ程に余裕がなかった。最早、この感情は、意地でしかなかない。
穏やかに、悪どく微笑む私の前で、葉王様は引きつった笑みを浮かべた。
「菊乃……お前、悪くなったね……」
「葉王様に似たのですわ。ご安心下さい。この菊乃、葉王様に幸せな姿を見せる事、きっと死ぬまで苦しみ、後悔することでしょう。さぁ、共に愛に縛られようではありませんか」
「あの時の葉王様、意地悪そうに笑っていて愛らしかったな。余裕はなさそうでしたが」
「そうですね。あそこまで追い詰められることは、早々ないでしょう」
「あぁ。私、後悔しています。あの様にくだらないことをしなければ、葉王様は間違いを犯さなかったかもしれない」
月明かりの下、半透明の私とマタムネ様は、叱られた子供のようにしゅんとしていた。
あれから、500年が経っていた。
「いいえ。あの一件が無ければ、貴方はあそこまで葉王様に想われなかった。そのおかげで、初めてのシャーマンファイトにも連れて行ってもらえたのです。葉王様の心の闇は、我々の想像より遥かに深いですよ。あの頃の我等がどうしようと、何も変わらなかったでしょう」
500年前のシャーマンファイト、葉王様に付き添った私は、彼より前に彼を庇って死んだ。葉王様は死んでから地獄に篭ってしまい、結局会えず終い。
ようやく見つけたと思ったら、あれよあれよという間に、マタムネ様に殺されてしまった。
「あぁ。それよりも小生の方が、もっと酷い。あの方を信じてあげられなかった。この手で、殺めてしまった……」
マタムネ様は泣いていた。
だが、彼もまた、悪くはない。
葉王様は、子供だ。やると言ったことは、怒られてもやる。それを知っているからこそ、マタムネ様の判断は正しかった。それでも、マタムネ様は苦しみ続けるだろう。再び葉王様に出会う、その日まで。
「私、決めましたわ。500年後、輪廻転生致します。ですが、葉王様のこと、殺しはしません」
「ではどうするのです?」
「生きます。ただ幸せに。500年前素直に出来なかった、彼と結婚出来るように、ただ懸命に生き抜きます」
そうして私は地獄に篭った。苦しい闇の中で、己を磨き続けるために。
500年後、再び輪廻転生した葉王様に出会う事を夢見ながら。
最初のコメントを投稿しよう!