美味しいものを一緒に食べようよ。

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

美味しいものを一緒に食べようよ。

 日曜日。何でもない休日。  とはいえ、それなりに楽しい予定はある。  友人とランチに出かけ、気になっていた評判の洋食屋で一番自慢にしているカニクリームコロッケをいただくのだ。 サクッとした衣、その中に隠れているカニの旨味が溶け込んだとろけるクリーム。そこにかかっているトマトソースの、トマトの甘さと酸味のバランスが絶妙で、クリームの柔らかい味を締まらせていて合うことといったら。  一口食べた瞬間に、思わず口元が緩んでしまった。そして、花梨(かりん)の頭の中に自然と浮かんできたのは志真(しま)のこと。  これを食べたらどんな顔をするだろうな。きっと、油断してなにげなく口に放り込んだコロッケからとろりと出て来たクリームを二、三口噛みしめてから、おっ、って、美味しさに驚いた顔をする。  それを想像すると、一人で笑ってしまう。親友には奇妙に思われたけれど。   美味しいものを食べると、こうやって一緒に食べていることを想像してしまうのは何故だろう。  親友は午後から別の用があるというので、食事をしただけで別れたけれど、このまま帰るのももったいない。一人で何となく、街をうろうろしていたら、偶然通りかかったドーナッツ屋。  ベリーの赤、マンゴーの黄色、抹茶の緑、色とりどりに可愛らしくコーティングをされているものや、何も纏っていないシンプルなもの。ディスプレイが華やかだ。甘い匂いも、花梨を誘っているようで、ふと立ち止まってしまった。 「……ドーナッツか」  なんだか少しぐずついてきそうな顔色をしている空。  そうだ、こんな日は、志真と二人で、ドーナッツでも食べながらのんびりするのもいいんじゃないか。 そんなことを考えながら店先で中を伺っていると、店頭に立っていた店員に声をかけられた。 「今日開店なんです。試食、どうぞ」  さわやかな笑顔とともに、女性店員が差し出した籐のバスケットの中に入っていたのは、小さく切ったシンプルなオールドファッションのドーナッツ。彼女は、つまようじにその一切れを刺して、花梨に渡してきた。  それを有難くいただき、口の中に放り込む。すると、しつこくはないほど良い甘さで、ぼそぼそとしていないしっとり感もちょうどいい。どこか懐かしい味。  これは当たりだ。  もう、花梨の心は決まった。鞄から電話を取り出し、慣れた手つきで志真の番号を呼び出し、かける。コール五つで電話は繋がった。 「もしもし、志真?」 「うん、何、どうした?」 「今日、これから暇だったりする?」 「うん、何にも予定はないから、家でのんびりしているけど」 「じゃあさ、行ってもいいかな。おいしそうなドーナッツ屋の前に今いるんだけど。買って行くから一緒に食べようよ」 「うん」 「それじゃあ、超特急で行くから、待っててね」 「はいはい」  電話を切って、早速店内へ入って行った。店の内装は、パステルカラーで可愛らしい。  迷ってしまうくらい種類が多い。一つはさっき試食したオールドファッションにするとして、後をどうするか。パン生地ドーナッツも捨てがたい。  志真が好きなのはどれだろう。  チョコレートはビターじゃないと苦手だったはず。それならば、カラメルのかかったものほうがいいのかもしれない。プリンは好きなのだし。  それから、ミックスベリーは外せない。パンに塗るジャムも、大概イチゴかブルーベリーだから。  それから、一つは花梨自身が気になった抹茶。  この四つで決まり。  彼の家の扉の前までは、三十分ほど電車に揺られ、そして、駅から徒歩で五分ほど。  インターフォンを鳴らすと、ドアを開けて出て来たのは、髪には寝癖があったりして、いつもより明らかに気が抜けていて、休日を満喫しているのが一目でわかる男。 平日は、もう少ししゃんとしていて、もう少し男前だけれども、こういうふうに気が抜けているのを見るのも、なんとなく自分の特権な気がして、花梨は嬉しいのだった。 可愛い、などと言うと怒られるだろうし、きっと志真のプライドに関わることなので、口に出しては言わないが。 「やあやあ」  わざとらしく元気のいい挨拶をすると、彼は苦笑しながら花梨を中に招き入れた。 「元気だね」 「今日はね、美味しいものにいろいろ巡り合えたから機嫌がいいのだ」 「そりゃよかった」  花梨は手にしていた紙袋を、ずいっと志真の眼前に差し出した。彼はそれを受け取って、早速中を覗いていた。 「それでドーナッツです」 「なるほど。ありがとう。コーヒー淹れるね」 「うん」  志真は台所へ行って、やかんを火にかける。静かに、水が湧き立っていく音が響く。  窓の外を見ると、ぽつぽつと木の葉に雨粒が当たっているのが目に入った。良かった。あと一歩遅かったら、雨に降られていたところだった。  コーヒーの香りが部屋中に広がる。じんわりと、心の奥が温まっていく。もし、幸せというものに匂いがあるのなら、きっとこういう匂いなんじゃないかと、勝手に思ってしまう。  湯気に乗せて幸せの香りを鼻孔へ運んでくるカップを二つ持ってきた志真に、花梨は尋ねた。 「ありがとう。……今日は何してた?」 「ハムスターの小屋の掃除」 「なんか、いかにも休日って感じだね」 「だって休日だし」  二匹のハムスター、ぐりとぐら。もちろん、あの有名な絵本からその名前をいただいたそうだ。実は、こっそりこの二匹はカステラを焼いていたりしないだろうか、なんて思ったりしていることは、馬鹿にされるだろうから絶対志真には言わないけれど。  それに、ドーナッツだってあの魅力的なカステラに負けてはいないのだから。  皿の上に色とりどりの四つのドーナッツを並べて、志真は吟味するように、真剣な面持ちでにらめっこをしていた。  そう、人生で食べられるものは限られているのだから、その一つを後悔しないように選びたい、その気持ちは花梨にもわかる。  そんな些細なことでいちいち悩むなんて馬鹿らしい、なんて言う人もいるだろうが。 「全部味が違うんだ」 「うん」 「どれにする?」  志真は花梨にそう尋ねてきたが、花梨はふるふると首を横に振った。 「先に好きなの選んでよ」 「いいの?……とは言いつつ、悩むんだよなぁ。どれも捨てがたい」  それはそうだろう。自分が気になるものというのもあるが、志真がどれを好きそうか考えて買って来たのだから。  うん、うん、と、誇らしげに花梨は頷きつつも、そこで一つの名案が浮かんできた。 「あっ、それならば……全部を半分ずつにすればいいのでは。 分けあえば四種類、四つの味が食べられるんですよ。倍になるんですよ。いろんな味を食べられた方がお得じゃないですか」  これは、最高の提案ではないかと思っていたのに。志真は頷かなかった。 「いやいや、あれこれ手を付けるより、気に入ったものを存分に味わうことにこそ醍醐味がある。俺は移り気じゃない。一途なんだ」  余計とも思える一言に、花梨はむーっと口を真一文字に結んで抗議をした。 「何それ……私が浮気性だって言いたいのかい」 「というか、欲張りだよね」 「そうだよ、欲張りだよ!」 「あ、開き直った」 「志真だって、選べなくて悩んでるじゃん」 「まあね……でも、半分に切ったら、色々食べられるかもしれないけど、一つに対しての満足感も半分になってしまうからなぁ」 「それはそれで欲張りなのでは」  認めざるを得なくて、志真はそこで黙ってしまう。  チクタクチクタクと時計の針が進む音と、かさかさとハムスターたちが動き回る音が、二人をからかっているようだった。  これでは、永遠に終わらない水掛け論である。こんな時間と気力の無駄な浪費はあるだろうか。  気が抜けたように、へにゃりと志真は苦笑した。 「ちょっと我々、食に対して貪欲過ぎませんか。これが特別な御馳走というわけでもないのに」 その困ったような顔が可愛いじゃないか、ずるいぞ、こんちくしょう、と思ったその時、不意に花梨の中でこのこだわりの正体が降りて来て、囁いたような気がした。 「そうだねぇ……。今日ね、お昼に友達と洋食屋さんでランチして、カニクリームコロッケを食べたんだ。すっごく美味しかったの。サクッ、じゅわーっ、でね」 「何、突然」  突然変わった話の流れについていけず、目をぱちくりと瞬かせている志真に、花梨は力説した。 「それでさ、そんな美味しいものを食べて幸せだなぁって思った時に、ふっとね、志真の顔が頭の中に浮かんできたの。これを食べたらどんな反応するかな、ってね。目を輝かせたり、思わずにやけちゃうくらい美味しかったとかさ。美味しいと思ったものは、志真にも食べてもらいたいだけなんだよ。感動と至福を分かち合いたいんだよ。それが有名な老舗の洋食店じゃなくて、商店街のお肉屋さんの九十八円のコロッケだったとしても」  志真の動きが一瞬ぴたりと止まったと思ったら、その次の瞬間に、唸りながら俯いた。 「……あー……ああー……」 「何、どうした?」  すっと、志真の両腕が花梨の方まで伸びてきたと思ったら、ぐしゃぐしゃと髪を撫でまわした。 「わーっ、ちょっと何するのよ。ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん。せっかく綺麗にセットしたのに」  何事かと、志真の手を振り払った花梨が、俯いたままだった彼の顔を覗き込んでみると、彼は見られまいと顔を逸らした。それでもわかる。顔が真っ赤になっているのが。  こちらまで照れてしまうではないか。 やがてぽつりと志真がつぶやいた。 「よし……わかった……もう全部半分こしよっか」 「うん。でも、自分がいろいろ食べたいという欲望ももちろんありきです」 「正直だね……」  ただの照れ隠しであるが。  皿の上には半分に分けられて、八つになったドーナッツ。  正解のない問題に、どうにかこうにか結論を出し、二人はようやくこの言葉を口にした。 「いただきます」  花梨は深く考えずに、なんとなくミックスベリーのドーナッツの半分を手に取って食べ始めたのだが、志真はまだ真剣な面持ちで皿と向き合って手を伸ばさない。 「また、四種類あると、どれから食べるか問題もあるな」 「志真って、本当に何でも真剣に悩むよね。どれから食べたって、結局食べるんだから一緒じゃないの」 「いや、ひょっとすると食べる順番によって、美味しかったと感じる度合が違うかもしれないじゃないか」 「そうかなぁ……。私と付き合うことを決める時も、それくらい真剣に散々悩んだの?」  その質問に対して、まったく考えるような間もなく、彼は首を横に振った。 「いや、それは悩まなかったよ。悩む必要はなかった」 「何で?」 「理由はないけど……考えるまでもないって」 「ドーナッツにはそんなに悩むのに?」 「ドーナッツには自分の中ではっきりしているものは何もないから悩むんだよ。花梨のことは、はっきりしてたから」  その言葉を聞いて、一瞬花梨は固まってしまったが、やがてじわじわと体温が上がって体中が熱くなってくるのを感じると、それをごまかすようにパクパクと一心不乱にドーナッツを食べた。  そして、コーヒーをごくりと一口飲んで、そこから何か新しい生物の鳴き声のようにつぶやき続ける。 「ほぉーっ……へーぇ……へーぇ……ふーん……」 「何だよ」 「良かった、って思っただけ。……もう、どれから食べるか、好きなだけ迷ったらいいさ」 「う……うん」  でも、そう言われた途端に、志真の手は、抹茶のドーナッツに伸びて行った。もしかすると、なんとなく漂っている気恥しい空気に耐えられなかっただけかもしれないが。  ついに、彼はドーナッツを一口かじった。  どんな顔をするだろう。興味と期待とで、花梨はじっと彼を見ていた。  すると、僅かに口元が緩んだ。そう、そうなのだ。思わずにやけてしまう至福の瞬間。これが見たかった。  秘かに別の満足感に花梨が浸っている間に、食べ始めると彼はあっという間に皿を空にした。 「ごちそうさまでした。……すっごく美味しかった」  うん、うん、と、志真の言葉に花梨は激しく頷いた。 「だよね!ほかにも食べてみたい味があったからまた買ってこようかな」  部屋の中が少し薄暗くなってきて、影が深くなっていることに気づく。すっかり夕方の日暮れ。太陽が店仕舞いを始めて、一日が終わろうとする時間が近づくことを告げている。 「明日からまた仕事だね。普通の日だ」  花梨はそう言ってみてから、余計に憂鬱な気分になってくる。このゆったりした時間に幸せを感じていればいるほど。 「今日だって普通の日だよ」  案外そっけない返答に、花梨はつい舌打ちをしてしまった。 「ちっ」 「え、何で舌打ちした?」  じと、っと、花梨は咎めるような視線を志真に送った。 「つまらん男よのぉ」 「……おい」  なんとか気分を回復させなければ。出鱈目を捲し立ててでも何でも。 「こう考えようよ。不思議の国のアリスで、帽子屋が言うでしょう。誕生日は一年に一度しかなくて、あとの三六四日は何でもない日。だから、何でもない日を祝うんだってさ。そうすれば毎日祝える。でもさ、よくよく考えたら、三六五日、うるう年も考えると三六六日、毎日誰かの誕生日なわけじゃない。だから、毎日おめでたい日ってことでしょう?だから、本当は今日も何でもない日じゃないわけで。昨日も明日も何でもない日じゃないのだよ。だから、さっき食べたドーナッツだって、なんでもないものじゃないのだよ」  案外悪くはない考え方ではないか、と、花梨が自己満足に浸っていると、志真は呆れたような目を向けてくる。 「どういう屁理屈だよ。知りもしない人間の誕生日を毎日祝ってどうする。……何でもない日だったとしても、こうやって一緒に何気なくドーナッツ食べているみたいに、何でもないことが積み重なって行って、花梨が俺にとって特別になるし、花梨にとって俺が特別になるんだから、三六四日が特別でもそうじゃなくてもいいよ、別に。案外、本当に特別っていうのは、記憶に残ることよりも、何でもないことを一緒に積み重ねることじゃないの。……ドーナッツ、ごちそうさまでした」  志真は、丁寧にぺこりと頭を下げる。 「……うーっ」ソファーの上にあったクッションを抱えると、花梨はそれをボスボスと殴り始めた。「悔しい!つまらぬ男ではない!」 「何で悔しいのかわからないんだけど。つまらぬ男の方がいいの?」 「いや、私の方が面白い女でいたい!」 「負けず嫌いか」 「そうですよ!」  ハムスターのぐらが、回転車の中で一生懸命走りまわっている、そんな何でもない休日の夕暮れ。  これもきっと、特別になる種だ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!