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──転落はいつから始まった?
落ちて、落ちて、落ちるだけ。
去年、俺はクリスマス前に離婚した。
大きな家も豪華な家具も、血統書付きのノルウェージャン・フォレスト・キャットまでアイツ──元妻のモニカにぶんどられた。彼女の意向で子どもはいなかったが、いたら間違いなく親権まで取られていただろう。
離婚の原因がアイツだったか、俺だったか──なんて、卵が先か鶏が先かという不毛な議論のようだ。
「ねえオーガスト。私、離婚したいの」
と、アイツはある日、冷ややかにそう言った。できたての朝食を食べながら。
驚きのあまり俺は、口に含んでいたスムージーを吹いた。
褐色の肌の、41歳に見えないような美しい顔が、目の前にあった。俺はこの女神に何年もかけて猛アタックして、その末の結婚だったもんだから。完全に尻に敷かれていた。
「オーガスト……あなたは沈みかけの舟。一緒にいたら私も沈んじゃう」
確かに、俺へのオファーは徐々に減っていて。
それを嗅ぎとったモニカは離婚に有利になるよう、俺に落ち度がないかくまなく調査させていたらしい。
おかげで俺が、共演した女優に少しばかり色目を使ったことがマスコミにバレたが、誓って手は──指の一本だって出しちゃいない。
なのにアイツは、それを分かってて、誇張に誇張を重ね、離婚を有利に進めやがった。多額の慰謝料を払わされ、挙句の財産分与──俺の手元には、ほとんど残らなかった。
*
住み慣れた家を追い出された俺は、エージェントのダンカンの紹介で、ロサンゼルス市内のマンションの一室に転がりこんだ。
当面は、ミニマムな生活。最低限の生活に必要なものと、衣服、寝床だけ。窓は大きくて、見晴らしもいいが、部屋は狭くて、真っ白な壁。まるで病室みたいだ。
洗面所の鏡の前に立ち、自分の顔と対面する。
ストレスのせいで一気に歳をとった気がした。これまで髪の毛に困ったことはなかったのに、自慢の金髪に白髪が一本交じってて、思わず抜いちまった。
前言撤回。どれもこれもみんな、アイツのせいだ。
*
夢を見た。怖いものなんて何もなくて、幸せだった頃の夢。
27歳の俺は、西部劇映画『罪深き人(The Sinner Man)』で無慈悲な悪役カイルを演じた。観客や批評家のウケが非常に良くて、賞という賞を総なめにした。
「この役を掴めたのは奇跡だ」と〝Fxxking〟ダンカンはおどけて言ったが、名監督として名高いカルロ・デルーカは「君にしかできない役だったよ」と俺の背中を叩きながら褒めてくれた──。
まばたきをした、その瞬間。俺は、カンカン照りの荒野に放り出されていた。周りには、乾ききった赤褐色の大地が広がるばかり。ブーツを履いた足を踏みしめれば、ザリッと礫土が音を立てる。
口元に手をあてると、ならず者のようなボサボサの口髭の感触があった。
着ている服は所々泥で汚れ、袖口や裾が擦り切れている。ダスターコートに隠れてはいるが、腰のガンベルトには重量感のあるピストルと、弾丸一揃え。
テンガロンハットのつばを上げ、途方に暮れていると──。
どこからともなく黒鹿毛の馬が駆けてきた。馬は俺の前でとまり、乗れとでも言うように俺の目を見つめてきた。背中には鞍がついている。
俺はためらいながらも、その馬に跨った。声を張り上げ、手綱を捌いて走らせるが、俺は一体どこへ向かってるんだ?
たてがみをなびかせた屈強な馬は、ヒヒンといななく。土埃が舞う。タンブルウィードが、音も立てずに転がっていった。
そのうち地平線がグニャリと曲がり。
ピンポンポポポンポポポポンッ、と聞き慣れた音が……。
ピンポンポポポンポポポポンッ。
Shit! こっちが現実か。
緩慢な動きで枕元に置いたスマートフォンの画面を覗くと、エージェントのダンカンからの電話だった。タップして、電話に向かって思わず叫ぶ。
「おいダンカン! 何時だと思ってんだ、まだ朝の6時だぞ!!」
《起こしちまったか、悪いな。ご老人だからもう起きてるかと》
「老人扱いすんな、俺より歳上のクセに!」
俺とダンカンとはかれこれ23年、俳優とエージェントの関係でいるが、長年一緒にいすぎて最早腐れ縁のようになっていた。オフの日は、俺が8時にならないと起きないのを知っていて、イラつくジョークを繰り出してくる。
やっぱりクビにしとくべきだった……!
《実は、お前にオファーがきててな。キャスティング・ディレクターが急に『今日ぜひ会えないか』ってメールを寄越したもんだから》
苛立つ気持ちが、ダンカンのその言葉でおさまった。ベッドに腰掛け、できるだけ冷静に聞こえるように、俺は一呼吸おいてから質問を繰り出す。
「ほう、それは良いことだな。どういう作品なんだ? 役どころは?」
《おいお前、話がきて嬉しくないのかよ?》
「内容を聞いてからだ。ぬか喜びになるかもしれないし」
ダンカンのため息が、スマートフォンを介して俺の耳に届いた……やめてくれ気持ち悪い。
《お前なぁ。選り好みしてる場合じゃねえぞ。状況分かってんだろ?》
「はいはい分かってますとも。だがなぁあまり変な話持ってこられても……」
《今回のはお前も気に入ると思うぞ。イギリスのシドニー・L・ブルックスが、アメリカに来てサスペンス映画を撮影するらしい。題名は『プロミネンス(The Prominence)』。お前には悪役のオファーがきてる》
ダンカンの言った通り、今回はまともな話らしい。シドニー・L・ブルックスの作品は何本か観たことがあった。度肝を抜かれるような演出や、独特なカメラワーク。脚本は監督自身が書いていて、ストーリーの世界観もしっかり構築されていた。
《主役はトリスタン・エドワーズっていうイギリスの役者だ。初めてハリウッド作品に出るっていう……》
「Tris……? 誰だそいつは?」
《トリスタン・エドワーズだよ。〝天才〟とまで言われてる新星俳優さ。24歳らしい》
「〝天才〟だって? フン、どうせ顔だけ良くて周りが持ち上げてるんだろう?」
《王立演劇学校出身だぞ。顔だけであの狭き門はくぐれやしないさ》
思わずぐぬぬ、となる。名だたる俳優を輩出してきた王立演劇学校。志願者1万人ほどの中で、試験に合格するのはたった30人程と聞く。そんな精鋭たちが揃ってる学校出身で、更に天才と呼ばれるなんて、一体どんなヤツなんだ……?
Shit. 何を怖がってる? オーガスト〝Fxxking〟ワイルダー。〝天才が何だってんだ。俺だってこの道38年のベテランだろう? こんな若造に負けるわけないじゃないか。
「……分かった。今日、キャスティング・ディレクターと会うよ」
《そうこなくっちゃな。資料をメールで送るから、目を通しておいてくれ》
通話を終えてから、トランクに仕舞ったままにしていたタブレット端末を取り出す。
ダンカンが一通り資料を送ってくれていて、その中に、例のトリなんとかの写真もあった。
焦げ茶がかった黒髪、若々しい笑顔──。
眺めているうちになんだかムカついてきて、俺は声にならない叫びを上げた。
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