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回想
鏡の前に立っていた。現在交際しており、婚約者である涼子が妊娠したので、彼女を母に紹介するため、鹿児島市市街に位置する実家に帰っていた。実家に帰るのは、大学進学の為に家を出たきりである。盆や正月にも帰省をすることがなかった私だが、先方のご両親に挨拶申し上げた後、やはり自分の親にも紹介せねばなるまい、また、涼子の方でもやはり挨拶をしておかねば、ということで伊丹からの便を取った次第であった。母は、流石に驚いた風であったが、何も言わずに私たちの訪問を了承してくれた。その実家の洗面所にある鏡である。下部に洗面台と、さらにその下には洗剤やタオルなどを収納できる簡単な棚が連結している一枚鏡は、水垢の白く濁ったような斑々の向こうに、私の顔を映していた。
私は鹿児島市に生まれ、弟とともに鹿児島で育った。比較的裕福で、野球と塾に通わせてもらい、何不自由ない少年時代を過ごしたが、不動産関係の仕事に従事する父は単身赴任になり、私が中学生になってからはほとんど家にいることはなかった。そんなわけで、母と、弟と三人で暮らした。友達もおり、平凡で、幸せと呼べるような生活であった。
それは、そんな平凡な、高校二年生の夏の暮れのある日であった。学校から帰ってくると、母が私を和室に呼んだ。弟は野球部の活動があり、不在の時分であった。私は、何かな、改まって、わざわざ。と思ったが、うながされるまま和室に入った。そこは普段は使われていない部屋で、机や座布団なども仕舞われており、額に入れられた短い詩が壁に掛けてある以外は、まったく空っぽというような殺風景な部屋であった。足に感じる畳のひんやりと、柔らかな感じがこの時は妙に落ち着かず、余計に足の裏に汗をかいた。
母は和室に入ると、いきなり、私に向き直り、一呼吸、二呼吸おいてから、「葉平、お父さんが、浮気してるって。」と告げた。そしてそれに簡単な説明を加えた。どうやら、探偵を雇っていたらしい。そういえば、見知らぬスーツ姿の男が家から出てゆくところを、一度だけ目撃したことがあった。しかし、とにかくそれは、夏の夕立のようであった。暗雲が立ち込めてから激しい雨が降り出すまでは、あっという間であった。私はただ立ち尽くすしかなかった。「そう、」とだけ何とか発した。母は、私たち子供が居るから離婚はしない。弟にはこのことは黙っているつもりだ、というような意味のことを言い、夕飯の支度があるから、と台所に戻っていった。
学校から帰ったばかりだった私は手を洗いに洗面台へ向かった。その日は降灰がひどかったので、顔も洗った。汗と交じり鼻腔の溝や耳にへばりついた黒い灰は、ドロドロと、なかなか洗い流すことはできなかった。冷たい水で、何度も顔を擦った。顔を上げると、自分の顔が映っていた。自分の困惑した表情が目に入ってきたが、それを見つめているうちに、かえって気分が平静に近づいていくような気もした。
その後弟が帰宅し、三人で夕食をとった。弟は部活動であったことなどを話し、母は相槌を打っていた。私は、初めはどのように立ち居振る舞うべきか決めあぐねて、母の、弟に対する反応をそれとなく観察していた。変わったところは一つも見られなかった。私も次第に、普段通りに振る舞うようになっていった。しかし、何かがおかしかった。自分は自分でありながら、食卓の上から3人の事を俯瞰している様でもあった。
何事もなかったような三人の夕食を終え、自室に戻ると、先ほどのことについて考えた。既に思考は冷静であった。と、いうより、意外にも、狼狽の後に激しい感情が沸き上がってくることがなかった。父が私たち家族に父親らしいことをしてくれたことは、私の覚えている限りはなかった。たまの帰宅の際も、仲が悪いということは決してないが、言葉を多く交わすということはなかった。だからそもそも、そんな父が浮気をしていると聞かされても、実感もその意味も曖昧で、私には関係ない事だ、とその時考えた。父に対して、怒りや恨むような気持は起こらなかった。
母はかわいそうだな、と思った。しかし、それもどこか他人行儀な、質感を伴わない同情だった。母の気持ちを汲み、その傷を追体験することを無意識に拒んでいた。私が感じたのは、表面上では何事もなかったように続いていくであろう家族の日常に潜む、違和感だけであった。家の中に過ごす時には、薄氷の上を行くような、そんな不安定さを感じていた。それは特に、母と対面して話す時に強く感じられた。そんな時私は、足元の氷を割るまいとするように、じっと身を固くした。
その後の日々も、やはり何事もなかったかのように過ぎていった。相変わらず父は家におらず、たまに帰ってきても、以前と変わらない様子であったし、私も以前と変わらない関わり方をした。しかしあの日以来付きまとう違和感は続いた。父と話す時には、あの日食卓で感じた幽体離脱の感じがしばしば感じられた。私は父と対面しながら、父と私を俯瞰していた。父の表情も何も、分からなかった。空中浮遊は、薄氷の上よりかはいくらか居心地が良かったものの、やはりなんとなく息苦しいものであった。
そのような息苦しさを振り切りたいと思ったのであろうか、私は高校卒業後、地元を離れ、大阪の国立大学に進学することを決めた。入学の日が近づき私と母は忙しかった。下宿先のアパートを契約し、新生活に必要となるであろう品々を、少しずつそろえていった。新生活が現実味を帯びてくるにつれて、私の胸は高まった。母は私以上に細かく、あれやこれやと入念に準備を手伝ってくれたが、その帰り道に車を運転する横顔などは、少し寂しそうにも見えた。帰り道はたいてい、言葉少なだった。私は助手席に座りながら、なるべく母の顔を見ないようにした。
ある日、入学式に着ていくスーツが必要であるため、近くのショッピングモールの紳士服売り場を訪れた。無難な紺のスーツと白のカッターシャツを選ぶ所まではスムーズであったが、ネクタイ選びの段でちょっと手間取った。中学も高校も制服が学ランであった私にとって、ネクタイとは全く未知のことがらであった。母も紳士服に明るいわけではなく、二人困っていたところに、売り場の、気さくそうな好青年の店員が助け舟を出してくれた。結局アドバイスに従い、群青とシルバーとの、太めのストライプ柄の、シンプルだが趣味のいいネクタイを購入した。
スーツを買ったその日、父は家に帰って来ていた。ただいま、おかえり、スーツを買いに行っていた、などの簡単なやり取りを父とは交わし、私と母は購入した商品を整理し、父はソファで見ていたテレビに再び向き直った。一通りの整理の後、買ってきたものをすべて合わせて着てみよう、ということになった。
そのとき、父が、ふいに言った。「葉平、ネクタイは、初めてか。」私はすぐに返事をすることが出来なかった。しかし、しばらくして、やっと「はい。」と答えた。父はゆっくりと立ち上がり、私を洗面所へと促した。私を鏡の前に立たせると、後ろに立った。そして私の体の後ろからネクタイを持った手を回し、ぽつり、ぽつりと、ネクタイの結び方を実演しながら説明し始めた。私は、その時幽体離脱を起こさなかった。父と私は向かい合ってはいなかった。鏡の前に、立っていた。二人の視線は、ネクタイに注がれ、交錯することは無かった。しばらくして、父の手の温かいことに気が付いた。
ジャケットを持った母も洗面所にやってきた。私にジャケットを着せると、三人は鏡の前に並んだ。私の口から、「父さんが結んでくれた。」という言葉が零れ落ちた。母がはっとしたような気配を隣に感じたが、すぐにその気配は和らいだ。母はそして、「似合ってる。」と言った。父は何も言わなかった。三人はしばらくそうしていた。言葉を発することはなく、三人の視線は、鏡に映るネクタイの結び目に注がれていた。しかしそれは重苦しい沈黙では決してなかった。そこには奇妙な安らぎのようなものがあった。目頭が熱くなるのを感じた。涙がこぼれるのを私は我慢した。泣いてはいけないと思った。なぜ泣いてはいけないのかは、自分でもよくわからなかった。
弟が、何かの用で母を呼びつけ、母は洗面所を後にした。私も、鏡を見たままありがとう、と父に言い、洗面所を離れた。その後はまた、いつもと変わらない息苦しい生活が続いた。大学に入学すると、私は大阪で一人暮らしをはじめた。気ままで、快適な一人暮らしであった。入学式には父も母も来てくれた。父に顔を合わせたのはそれが最後である。その後も父は仕送りをしてくれていた。
入学後二年ほどは、帰省して来ないのかと母から連絡があったが、正月なども同じく遠方から来て大阪に暮らす友人たちと過ごすなどして、なんとなく避けているうちに、大学を卒業し、大阪で会社勤めを始め、実家とも疎遠になってしまった。弟は地元の国立大学に進学し、市役所勤めとなった。父と母は、弟が大学を卒業した後、程なく離婚した。
そして今実家に久しぶりに帰り、この鏡の前に立った時に、このようなことを回想したのであった。なぜこのことを思い出したのであろうかと考えたところに、母と台所で夕食の用意をしていた涼子が私を呼びに来て、「こんなところで何してるの、ご飯できたけど。」と言った。私は、ふいに、今まで蓋をしていた不安が胸の底からせりあがってくるのを感じた。涼子に、私たちの子供がもうすぐ生まれて、私たちは幸せな家庭を築けるだろうか、私たちは上手くやっていけるだろうか、と、ほとんど叫びそうになった。しかし、それを抑え、「わかった、今行く。」とだけ言った。
心はすでに落ち着いていた。鏡に映る自分を見つめた。そうして、気づいた。私は、あの日の出来事が嬉しかったのだ。父の心中など、知る由もなかった。ただの気まぐれだったかもしれなかった。しかし私にはそれで十分であった。あの時、鏡が映した私たちは確かに家族だった。混沌の土台の上に、それでも立っている、父と、母と、子であった。それは紛れもない現実であった。
それから私は泣いた。父を思って、泣いた。母を思って、泣いた。どうして、と声を絞り、泣いた。
涼子と生まれてくる子供との生活に不安を抱く必要はもはやなかった。実家に相変わらず感じていた息苦しさも、もう消えていた。鏡は、ただ目の前の現実を映していた。私は洗面所を離れ、食卓にむかった。
母に挨拶を済ませ、私たちは鹿児島を去った。翌年には、息子が誕生した。
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