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第九連鎖 「蜘蛛ノ糸」
正当防衛。
…なのに新人巡査は現場から逃亡してしまった。
その事実が事件を報告された全ての関係者を驚愕、動揺させている。
職員会議は記録撮影されていた、重要会議では恒例の事。
その映像で直ちに事件の経緯が検証された。
誰がどう見ても、精神的に錯乱している副会長に対する威嚇射撃である。
被害者である教頭は重傷であろう、緊急を要していた。
確かに副会長は亡くなってしまったが、事故である。
彼に落ち度は無かった筈、なのに逃亡してしまったのだ。
一体全体何故、何が彼をそうさせたのか…?
PTA副会長への威嚇射撃による射殺事故。
そして新人巡査の逃亡の報告が、隣の管轄の刑事にも届いた。
逃亡先が徒歩圏内なので限られていた為である。
何より巡査の拳銃には、まだ4発の弾丸が残っているのだ。
緊急指名手配の扱いとなってしまっていた。
しかもその新人巡査は刑事の後輩だったのである。
正確には彼の同期の同僚の末弟であった。
あの巡査が…?
刑事は電車事故の遺族の家に向かっている途中で報告を受けた。
犠牲者は彼の自殺した息子の担任だと思われている。
身元確認にも訪れず、連絡も取れなくなっていたが故の訪問。
息子の為にも、お悔やみを言いたかった事も含んでいた。
目的の家に到着してインターホンを押すも、反応は無し。
庭に廻ってリビングの様子を窺う。
室内が見えるも、まるで時間が全て止まっている様である。
彼はソファに沈んでいる夫婦を見て、直ぐに救急車を要請した。
…テーブルの空のボトルを見て、もはや手遅れなのは判ってはいたが。
その薬用ボトルには彼も見覚えが在ったのだ。
彼が妻と離婚させられてから服用するようになった睡眠薬と同じ物。
おそらく病院も処方箋を扱ってくれている店も一緒だろう。
庭で軽く手を合わせ、冥福を祈らざるにはいられなかったのだ。
…夫婦の最期の姿は、彼に取っては他人事ではなくなっていた。
自分の息子にクラスメイト、その担任と御両親。
更にはPTA副会長に逃亡中の新人巡査。
一体全体何がどうなってんだ…、何が起こってるんだ…?
学校は現場保存の為に閉鎖されている。
副会長の遺体は検視後に搬送、教頭は病院へ救急搬送。
重傷ではあるが命に別状は無い。
緊急職員会議に出席していた関係者は全員、事情聴取を受けていた。
台風による休校の為に、まだ生徒や父兄には射殺事件は報されていない。
クラスメイト二人の自殺に続いて担任も。
そして更に行方不明の男女生徒、もはや動揺はパニックに近い程。
猛烈な台風の接近も拍車を掛けていた。
…ごうごう、…ごうごう。
イジメによると思われるクラスメイト二人の自殺。
やや食指を動かしていたマスコミがいた。
そして担任の自殺による電車事故、これで数社が動くのは当然。
テレビでのニュースの登場回数も増えた。
更にPTA副会長の事故死と新人巡査の逃亡。
これで学校がマスコミにとっての狩猟場となってしまった。
しかし立場の違う両陣営に共通していたのは、情報不足という事。
そして逃亡中の新人巡査の行方が一番のスクープだという事。
台風以上の強風が、この地域には吹き荒れていたのだ。
マスコミのニュースを受けてネット界隈もざわつき始めていた。
とても偶然とは思えない連続性の事件なので当然か。
色々と無責任な噂が飛び交い始めていたのである。
…学校関係者による犯行と隠蔽工作。
これは心労で入院してしまった校長の行動が根拠となっている。
…宗教団体所属者達による狂信的な行動。
これはPTA副会長が新興宗教の信者だという事実のみが根拠。
…警察や公安の隠蔽工作。
これは射殺犯逃亡を受けての警察への批判からの噂。
他にも催眠術やら暗示やら様々な憶測や噂が膨らんでいった。
まるで蜘蛛が獲物を捕らえる為に、その巣を拡大している様に。
自殺した少年の第一発見者である青年も、ニュースを追っていた。
そして二人目の自殺したと思われる生徒の氏名に衝撃を受ける。
紛れも無く彼が少年の復讐の為にデスマスク写真を送った相手だった。
そのボスと呼ばれていた少年も自殺なら他に理由は考えられない。
自殺じゃないとするなら、…僕が殺したのか?
ボスの方の履歴で写真を送ったのは誰か分かってしまう筈だ。
そうすれば僕が送信したのは一目瞭然になってしまう。
僕の罪は?
僕は逮捕されるのか?
僕は…ヒトゴロシ?
青年は、外の膨らみが自分を圧し潰し始めているのを実感した。
…見えざる蜘蛛の糸に、獲物が絡め捕られていく様に。
副会長を射殺してしまった後で、新人巡査は逃亡し隠れていた。
こんな荒天の、しかも真昼間から営業している筈のない雑居ビル。
飲み屋や風俗店が各階に並んでいる、その最上階。
警察の一斉検挙で空き店舗になっている違法営業のクラブ。
立ち入り禁止になっている場所に潜んでいた。
彼は一斉検挙の時に現場に駆り出され、鍵が壊されるのを見ている。
それで、もしかしたらと思って辿り着いたのであった。
警察の制服を脱いでから、コインランドリーを渡り歩く。
そして乾燥機から少しづつ服を盗んでいった。
この天気では洗濯物は外に干せない、それを見越しての犯行である。
サイズにバラつきはあるものの一通り盗み揃えた。
ただ、Tシャツの上には大き目のポロシャツを羽織る。
…腰に付けている拳銃の入ったホルスターが目立たぬ様に。
新人巡査は制服をマンションの共同ゴミ置き場の他人の袋に捨てた。
台風がくる前に急いで回収されるだろう、そう思ったのである。
逃亡中の彼ではあったが、彼自身は追跡中のつもりであった。
ブレーカーを上げてテレビを消音で見始める。
もちろんニュースで、何か新しい情報を得る為にであった。
新人巡査はPTA副会長を撃ってしまった時の事を回想していた。
彼女の頭から噴き出した血がモニターを紅く染める。
その時に何故かモニターが点いて、人が朧気ながら見えたのだ。
太った男の子が血だらけの顔で何かを彼に話し掛けてきた。
そして言い放った後に嗤ったのである。
…ヒトゴロシ。
巡査は咄嗟にモニターに拳銃を構えてしまった。
しかし既に其処には誰も映っていなかったのである。
彼は自分が作ってしまった遺体を見下ろした。
その瞬間に気配を感じて背後を振り返る。
またもあの太った少年が実際に立っていて、彼を見て嗤っていた。
彼が近付くと少年は消え去ったのである。
廊下に出た彼は校門の所に再び少年を見付けた。
階段を駆け下りて校門へと近付く。
少年は校門前の道路の交差点で信号を待ちながら、彼を見ていた。
更に追い掛けて、その信号に辿り着いた時に彼は強い風雨に気付く。
顔を拭うと同時に少年の姿は見えなくなっていた。
学校の方角から騒がしい声が聴こえてくる。
何やら悲鳴も混ざっている様だ。
振り返って学校を見て彼は思った。
…もう元には戻れない。
まだ4発の弾丸が残してある。
次に会ったら、その時は…。
もはや新人だった巡査は何処にもいなくなった。
ただの殺人犯がそこにいるだけである。
そして彼は更に犯行を重ねようとしていた。
彼の瞳も紅く染められていたのである。
「はぁ…、やっと辿り着けたよ…。」
団地管理を委託されている清掃係員が少し遅れて管理室に到着。
通勤電車の不通による振替輸送のバスで遅くなってしまった。
タイムカードの横の鏡に映った顔は少し瞳が紅い。
「早く起きて急いだから寝不足なんだな、きっと…。」
何やら学校の方角が少し騒がしいのだが気にしなかった。
微かにサイレンも聞こえたから、誰かが滑って転んだんだろう。
…こんな台風の日に外に出るからだよ。
彼は自分の事を棚に上げて思った。
屋上は台風予報が出てから閉鎖してあるので清掃は無し。
彼は今日はラッキーだと思っていた。
何故なら屋上の清掃が一番時間が掛かるし手間取る、それが無いのだから。
ただエレベーターホールは全階清掃なのであった。
故障点検中でない方の機に乗り込んでRボタンを押す。
上昇していくエレベーターの中で、突然空気が冷えて行くのを感じる。
なのに湿度は上がっていっている様な気もしていた。
経験した事のないレベルの台風だからかな…?
気圧が睡眠不足による頭痛に拍車を掛けていた。
屋上ホールについた彼はエレベーターから降りた。
その途端にドアが閉まってエレベーターは下降していった。
彼を置いて行ってしまったのだ…。
直ぐに彼は足許の感触に違和感を覚えた。
何かを踏んでしまった様なので慌てて離れる。
「何だ、何だ…?」
明るい場所から暗い場所に取り残されて、よく見えていない。
LEDなのに故障中なのか真っ暗である。
電気の点いていた機が行ってしまったので尚更であった。
しかし、直ぐに足許の物体に顔を近付けて見てみる。
「何だこりゃ…、老眼が最近進んでいるから判らんな…?」
腰を折ってかがんで目を凝らして見た。
そして同時に二人と目が合ってしまったのだ。
「うわっ…!」
だが、もちろん相手の二人の目には何も見えてはいない。
…二人は上半身だけだったのだから。
「死…、死体…死体…!」
折っていた彼の腰は抜けてしまった。
この状況を整理出来る程、冷静でもいられなかった。
「死体が二人…!」
逃げよう…、逃げよう…。
非常口のドアに向かって這っていった。
だが鍵が掛かっているらしくノブは動かない。
いくら動かしても全く手応えが無いのであった。
普段は非常口の鍵は掛けていない筈なのに…?
「なっ、なん…何で…?」
振り返って二人の遺体の向こう側を見る。
強化ガラスの向こうは空であった。
エレベーターは誰かに呼ばれて1階に下りていってしまったばかり。
彼は絶望した、…それこそが死に至る病であるとも知らずに。
恐いけど、エレベーターを使うしか無いのか。
涙が零れてきた、何でこんな目に合わなくちゃならないんだ。
彼は足をもつらせながらエレベーターに近付いた。
遺体を見ないようにして焦って両方の機の下降のボタンを連打する。
すると何故か故障中の方の機が昇ってきた。
彼は早く来てくれれば、もうどちらでも良かったのだ。
一刻も早く下に降りれればそれでいい。
その時である。
…がちゃり。
非常口の鍵が開けられる音がホールに響いた。
確かに誰かがその後ろに存在している。
そしてドアがゆっくりと開かれた、まるで地獄への扉の様に。
ぎぎぎぎ…、ぎっ。
其処に立っていたのは女性であった。
上半身は陰になっていて見えていない。
だが片腕であり、足も方向が変であった。
それは踏切事故の犠牲者である、ネガと呼ばれていた女性教師。
その変わり果てた姿である。
「ひっ…!」
清掃係員は恐怖で固まってしまった。
本能で死体は彼女の仕業だと理解してしまった事への恐怖である。
そして最初で最後の、理性では理解不可能な存在との対面。
それは恐怖でしか在り得ない。
彼女は、ゆるりと動いて彼に向かって歩き始めた。
あんぐりと口を開けた彼は、腰が抜けたまま後ずさる。
がくんがくん、がくんがくん。
ぎくしゃくと足を引き摺りながら彼女が近付いてくる。
彼女の足許から引のかれている血の線は真っ直ぐ彼に向かっているのだ。
その時である。
ごとん、…ういいん。
故障中の方のエレベーターが到着してドアが開いた。
と、同時に彼の両目も見開いて涙が飛び散る。
ライトこそ点いていないが、そんな事はもうどうでも良かった。
彼は必死に壁に手をついて立ち上がり、飛び込んだ。
そして狂った様に閉のボタンを連打する。
…ういいん、ずん。
ドアが閉まって強化ガラス越しに近付いてくる彼女が見えた。
顔が半分潰れていて視線が定まっていない。
彼は狂った様に下降ボタンを押すものの全く動こうとしない。
恐怖からくる震えが止まらなくなり、全身で揺れていた。
足許を見れば切断された男女の下半身が並んでいる。
もう既に乾いてはいるものの、床一面は血の海である。
彼は恐怖でしゃがみ込んでしまった。
…だんだん彼女は近付いてくる、血の跡を塗り付けながら。
「ひぃっ…、ひっ…。」
ネガは見もせずにホール側の下降ボタンを押した。
途端に巻き上げモーターから火花が散り始める。
紫の煙を吐き出してから直ぐに、ワイヤーロープが緩みきった。
しゅるっ、しゅるるんっ…。
およそ15メートルを一瞬で降りたのだが、彼の希望とは違った。
何故なら、叩きつけられた彼は助からず即死したのである。
そして男女の下半身の遺体と混ぜられてしまった。
エレベーター本体も壊れたのだが、故障中の貼り紙が効いていた。
灯りの点いていない故障中のエレベーターに関心は持たれない。
最初に地獄絵図を除くのは誰?、そしていつ?
地下駐車場の片隅で、パンドラの箱は開けられるのを待っている。
蜘蛛の糸は切れた。
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