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誕生
幸一の腹は今にも生まれそうなほど、大きく突っ張っていた。健康な赤ちゃんなんだろう。外の世界に飛び出そうとして、あちこちから幸一のお腹を押している。もう、いつ生まれてもおかしくないだろう。
「よう、調子はどうだ?幸一。」
小林は毎日のように幸一の家に寄って様子を見に来ていた。時々、食料や日用品を買ってきてくれる。精神内科の健診にはほとんど通っていない。診断書を書いてもらってからは、幸一も行く気を無くしていた。小林も無理に通うように言ってきたりはしない。
「もうすぐ生まれそうだぞ。」
幸一が声をかけると、小林は嬉しそうにお腹を撫でる。最初は、幸一に話を合わせるため、大きなお腹がわざと見えているふりをしているのではないか、と思ったが、今では小林も生まれてくる赤ちゃんを祝福してくれていると確信している。
「あ、ほら。動いたぞ、幸一。」
突然、アパートの壁がぐにゃぐにゃと柔らかく変質していく。ピンクの肉塊がじりじりと幸一の周りに迫ってくる。息が苦しい、この世界はもう狭すぎる。動きたいのに、手も足も動かせない。突然、居心地の良いこの空間が牢獄のように思えた。部屋全体が急に、一定のリズムで振動を始めた。そのリズムに呼応するように、幸一のお腹に想像もつかないほどの激痛が走った。
―とうとうこの時は来たんだ。
幸一は痛むお腹をさすりながら、夢の中へと引きずりこまれていった。意識の遠くに、小林の声が聞こえる。
「幸一、頑張れ。頑張れよ。今、救急車呼んでるから!」
痛みが激しすぎて、何も考えられない。それでも、自分の体が何かに運ばれているのを感じることができた。
陣痛の感覚がどんどん短くなっていく。痛みが増していくにつれ、これから生まれる子どもへの期待も膨らんでいった。
―もうすぐ、この子に会えるんだ。
もう少し、もう少し頑張るんだ。ほら、もうすぐ。もう生まれる。ああ痛い。こんなにも痛くて、苦しいものだったのか。ごめんな、ごめんな美悠。幸せにしてあげられなくてごめん。ああ、もう生まれそうだ!
ピンクの泡の海の中、幸一は痛みを解放しながら底へ底へと沈んでいった。
また、声がする。
「・・・・は。・・・・が。」
男と女の声。不完全なものどうしが一つになり、完全な命が生まれる。その声のする方に行きたい。
「その・・・・・・。で。」
何を言っているんだろう。生まれて初めて聞く、お父さんとお母さんの声。遠い意識の外、ピンクの薄膜の向こうに幸一は二人の声を聞いた。
「ここまでしてなんて私は言ってないわよ!!」
「男の魂を自分のものにしたかったんだろう?」
怒りに溢れる女の声に対して、男は嫌みなほど落ち着いている。二人とも、思わず息を呑むほど美しかった。
「ええ、そうよ!あんたなんかに出し抜かれるとは思ってなかったけどね!!」
「ふふふ、他人の獲物はより美味そうに見えるのでね。この男の腐りきった魂、さぞかし甘美なる味わいだろう、すまないな。」
「そういうことなら、あたしが払った対価は返してもらうわよ。あの男の魂を堕とすために、どれだけ苦労したかわかってるの!?いつだって、あんたたち悪魔は私たちの手柄を横から掠め取っていくのよ!!」
・・・・美悠?何でこんなところに・・・それに、何を・・・・・言ってるんだ?
「残念ながら、そんなことはできないな。最後にあの男を追い詰めたのはお前だろう?私は傷心の男のそばにいて、慰めてやっただけ。思わぬ拾い物だったよ。あいつの魂は私との間で取引が成立している。貴様の方こそ、私の成果を横取りしないでくれよ。それとも、新たな取引をするか?私とお前で。」
チッと舌打ちをして、女はイライラと足を鳴らす。
「あんたなんかの話に乗るんじゃなかったわ。この悪魔!」
「ふん、言葉を返すようだが、君の方がよっぽど悪魔らしく思えるぞ。しかし、男もかわいそうに・・・まさか、私の力を用いて妊娠から生みまでの苦しみを味わわさせるとは。ご丁寧に幻覚まで用意させてな。とうとうおかしくなってしまったではないか。」
それにあれは・・・小林?
「そう?何回も私の体に触った代償にしては、ずいぶんお安いでしょ。それにあいつは、赤ちゃんができて、心底嬉しそうだったじゃない。」
「悪趣味なあばずれめ。早く帰ったらどうだ。天界の匂いはどうも臭くてかなわん。」
これは・・自分が今見ているこれは何だ?
ピンクの膜を突き破って、光が差す。新しい命が新しい世界へと旅立っていく。
―おぎゃあ
新しい命が産声をあげ、温かい両腕に抱かれた。そして僕の首元には、黒光りする蝙蝠に似た両手が回されていた。
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