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分岐点
―やってしまった。
西野幸一は、スマートフォンをテーブルに放り投げるように置くと、薄いグリーンのシーツを敷いてあるベッドにどさりと腰を下ろした。改築されたばかりの独身寮は手狭ながらなかなか快適で、マメな幸一の手でキレイに整頓されている。毎朝掃除機をかけて、水回りも丁寧に掃除してある。余計なものは置いておらず、木目調のオーディオスピーカーがテレビの両脇に据えられている。白を基調とした内装に、観葉植物とグリーンのアイテムをそろえることで、爽やかな統一感が生みだされている。
幸一は、服も着替えずベッドに横になると、人生最大の過ちを犯した夜のことを思い出していた。独身寮には家族といえども一歩も入ることは許されておらず、デートの時には相手の家かホテルを予約することにしていた。その時は神戸港を一望できるスイートを奮発して予約した、たった一回の過ちだった。運が悪かったとしか、言いようがない。幸一は色々なことを考えた。社会人一年目としての経済状況、努めている自動車会社での今後のこと。たった一度の火遊びで自分の人生が永久に変わってしまうことを考えると、とても信じられなかった。美悠のことは断じて遊びではなかった。大事にしたいと心から思っていたし、愛を誓い合った夜に嘘は無かった。しかし、美悠から受け取ったメッセージを見た幸一は、自分の首をジワジワと細いロープで締め付けられるような気がした。幸一は、まだ自由でいたかった。自分のキャリアに可能性を感じてもいたし、「結婚」という言葉がまだ、現実のものでないような、自分と無関係な意味のなさない単語に思えた。そして、美悠の存在が自分の人生という両肩にずっしりとのしかかってくる気もした。彼女から結婚をほのめかされたことはなかったが、そう感じることはあった。女というものは、いつだって男よりも結婚したがっている。手術の金を工面できないこともない。しかし、そうやって関係を続けたところで、二人の間に何か得体のしれない、しこりのようなわだかまりが残ってしまうのではないかと思うと、憂鬱になった。しばらく考え込み、もう一度美悠のメールを見た。そして、もう一度その夜のことを思い出すと、幸一は自分のエゴと人生のために、責任を放棄することを決めた。
妊娠を告げた美悠に別れの言葉を返し、スマートフォンの全てのアプリとコンテンツから美悠の連絡先を削除した。そして、充電器のケーブルにスマートフォンをつなぐと、浅くも深くもない眠りについた。
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