いつもの朝

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いつもの朝

「おはようございます、課長。」 「おはよう、追野君。今日も一番のりだね。」 「ええ、まあ。まだ慣れなきゃいけないことがたくさんありますから。」 幸一の勤める自動車会社は基本的に8時半出勤であるが、フレックス制を活用して9時ごろに出社する社員も少なくない。幸一も寝坊した同期のために、名札をフレックスの枠に移し替えてあげたことが二度や三度ではない。幸一は基本的に8時前後には会社に着き、エンジンシステムの勉強をするようにしていた。半年間かけてやっと新人研修が終わったところだが、技術職の若手として人一倍知識を身につけ出し抜いてやろうという意欲に満ちていた。  昨夜の出来事からしてみると、自分でも薄情に思えるほど今朝は目覚めが良かった。いつも通り気持ちよく出社することができた。昨日の美悠からのメールがまるで遠い昔のことのように思われるが、携帯を開いてみると、やはり美悠の連絡先は消されている。ほっとしてデスクに向かうと、エンジンシステムの仕組みがまとめられたファイルを開き、目を通し始めた。自分でも怖いほどドライというか残酷だと思う。いつかしっぺ返しが来るかもしれないなと思う。こんなことになったのは、美悠が初めてだ。幸一はほっとしつつ、そのほっとしている自分が恐ろしく思えた。それでも、ひとかけらの自己嫌悪も感じなかった。 「おはよう、今日も早いじゃん。西野。」 同期の小林が声をかけてくる。 「ああ、まあな。大学でもバリバリエンジンの燃焼やってたお前と違って、俺はがっつり有機化学の合成とかやってたからな。勉強しないと。」 「真面目だねえ、相変わらず。なあ、今日営業の子たちと合コンあるんだけど、来てくれない?居てくれるだけでいいから!人数足りなくてさ。」 「ああ、合コン?いいよ。行くだけだぞ。」 「マジか!!さんきゅ、西野。助かるわ。お前がいると女の子たちも盛り上がるからさ。」 「おいおい、おだてても何も出ないぞ。」 ガクン。 椅子から立ち上がろうとした幸一は、急に強いめまいを感じ、足元をふらつかせてしまった。ヒヤリと肝が冷えるのを感じ、そのまま崩れ落ちそうになったが、何とか小林が支えてくれた。 「おい、西野。大丈夫か?あんま寝てないんじゃないの?」 幸一は少しどきりとした。昨日の美悠の一件のことを揶揄されたのでは、と思ったからだ。ばかばかしい、こいつがそのことを知る由もない、とふらつきながら幸一は思った。小林の手をとると、ゆっくりと体勢を立て直す。 「い、いや。大丈夫だよ。ちょっと、疲れてるのかな。」 「まだ朝だぜ?変なやつだな。まだ火曜日だし、あんま無理するなよ。辛かったら休みな。」 「ああ、さんきゅ。」 しかし、おかしい。自慢じゃないが立ちくらみなど、この23年間経験したこともない。あんなに、怖ろしいものだったとは。高い崖の上から流れる川を見下ろしたような心持ちがする。美悠もそういえば、ここのところよくめまいや立ち眩みに悩まされていた。それも妊娠していたせいだろうか。そう考えると、余計に幸一は気味が悪くなってきた。 「ちょうどこのビルの地下のバーでやるからさ、彼女にもバレないと思うぜ。人数合わせでいいから来てくれよ。他のやつらだけじゃ今いちパッとしなくて。」 「あ、ああ。彼女は大丈夫なんだけどさ。ちょっと今日は体調悪いわ。すまん。」 彼女とは別れたこと、いや一方的に捨てたことは小林には黙っていようと思った。入社して半年ほどの付き合いだったが、そんな話をするほど心を許してもいなかったし、軽そうに見えるがそんな生々しい話には耐えられそうになかった。幸一は再び吐き気に襲われた。 「悪い、やっぱり今日は休むわ。」 小林は、心から心配しているように見える。幸一の腕をポンポンと叩いて言った。 「ああそうしな。本当に辛そうだ。普段良くやってるんだから、大丈夫さ。」
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