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出社してすぐ帰るくらいなら、最初から家で休んでおいた方が良かった、と思いながら電車に乗った。相変わらず体が重く、ゴトゴトという電車の振動も気持ち悪かった。平日の午後なので、座席になんとか余裕があったのがせめてもの救いだった。幸一は空いていたのをいいことに、ドアに近い優先席を占領した。
窓枠に頭をもたせかけながら、少し仮眠をとろうかなどボンヤリと考えていると、ちょうど空いた扉から、一目でそれと分かる若めの妊婦が入ってきた。体を締め付けないように、ゆったりとした服を身に着け、化粧っ気は無いがあどけない表情できょろきょろと辺りを見回している。幸一は自分の体調こそすぐれないながら、反射的に席を立ちあがっていた。車内には余裕があるものの、やはり出入口に近い席を譲るのが、モラルというものだろう。普段の幸一なら、そのことにためらいも疑問も抱かなかった。しかし、この時は席を立った瞬間に後悔した。顔立ちといい、体格といい、この妊婦はどことなく美悠を連想させる。
「あ、良いですか?すみません。」
ペコリと頭を下げて幸一の譲った席に腰掛ける。膨らんだお腹とは裏腹に、華奢で細い手足をしている。体格が良い方が、赤ちゃんを産みやすいのかな、などと幸一はぼんやり考えた。
「ええ、もう少しで降りますから。」
「じゃあなおさら大丈夫ですよ。あなたも具合が悪そうなので、休んでてください。」
生来、人好きのする性格なのだろうか。まるで前から知っている友人のような調子で話しかけてくる。具合が悪そうというのは図星であったが、幸一も悪い気はしなかった。立ち上がろうとする彼女を手で制して、幸一は言った。
「いいえ、どうぞ座ってください。僕は、大丈夫なので。」
妊婦もそれ以上は何も言わず、大人しく座ったままでいた。
「ありがとうございます。正直助かりました。今7か月なんですけど、ずいぶん大きくなって。私小柄だから、余計に大変なんですよね。」
くらりと眩暈がした。幸一は慌ててつり革に手を伸ばす。
美悠もとても小柄だった。身長も150㎝あるかどうかというほどで、子どもらしい容貌もほっそりとした体つきも好きだった。今、目の前の名も知らぬ妊婦にかつての恋人を重ね合わせてみると、あの小さな体の中に自分の子どもがいるのだと思い、心底恐ろしくなった。美悠もいつか、この妊婦のように膨らんだお腹を支えながら、電車に乗るのだろうか。
大丈夫ですか、と心配そうに声をかける妊婦に作り笑いしながら、幸一は言った。
「そうですよね、一人で移動するのは大変でしょう。駅に着いたら、旦那さんに迎えに来てもらわないと。」
言った瞬間、一言多かったか、と悔やまれた、幸一は無理やり笑顔を作って、手すりを掴む手にぐっと力をこめた。どうかすると高校生ほどにも見える童顔の女性は、幸一の発言を意に会した風もなく、無邪気に顔をほころばせながら言った。
「うふふ。実は私、シングルマザーなのよ。色々と事情があってね。なんだかお恥ずかしいんですけど。」
女性が羽織っている、ピンクのサマーカーディガンの上にもどしそうになった。ちぎれそうなほど、幸一はつり革を強く強く握り、ほとんど全部の体重をかけた。そうしなければ、ここから振り落とされるのではないかと思ったから。
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