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それぞれの空虚
次の日
私たちはピアノの練習をするため
羅芽は世田谷の藤木家に
私は高尾の別荘に帰る
朝から晩まで
ぶっ通しでピアノに向かう
夢中になると1日は短い
私はもともと そうした人間で
とあるところまでのめり込むと
行き着くところまで行きたくなる
分かりかけたり
できかけたりすると
分かるまで できるまで
徹底的に突き進む
気をつけないと
水も飲まず何も食べず
夜も寝ないで突き進むから
倒れたことは何度もある
倒れたり 気を失ったりして
これじゃいけない と反省する
だから別荘に住むようになり
紀行さんが
私の健康管理をしてくれたことには
心から感謝している
もう真夜中の24時
ふと 紀行さんを思う
私は 紀行さんの絵に向かい
話しかける
「紀行さん 私 幸せだけど 少し寂しい 紀行さんが羅芽になって・・・それはそれで仕方ないけど・・・私と紀行さんの2人だけの時間 思い出す 紀行さんに会いたい 紀行さんを感じたい 紀行さんと2人だけの ひっそりとした生活が とても懐かしい」
私は思わず玄関に行き
なんとなく色あせた気がする
紀行さんのスニーカーを
胸に抱きしめてみる
この別荘に住み始めてからの
いろいろなことが思い出される
泣けてくる
紀行さんのスニーカーに
ポタポタと 涙がしたたり
染み込んでゆく
私はバカだと思う
こんなに紀行さんが好きなら
紀行さんと2人だけの静かな生活を
ずっと楽しめばよかった
もしかすると それは
私がおばあさんになるまで
いつまでも こっそり
続けることができた
最良の幸福だったかもしれない
どこで道を間違ってしまっただろう
それとも この道こそが
紀行さんに導かれた
最良の幸福なのだろうか
もう引き返すことはできない
こんな夜中に電話が鳴る
貴行さんからだ
「・・はい」
『香帆さん 日本はもう遅い時間だと思うけど 少し話せるかな?』
「・・はい」
『どうかした? 元気ないね・・・』
「ごめんなさい ちょっと寂しい気持ちだったから・・・」
『寂しい気持ち? 兄と喧嘩でもした?』
「いえ・・・」
私は紀行さんの絵の前に行く
羅芽にも似た 紀行さんの絵を
見つめながら
貴行さんの声を待つ
『・・・今週末に結納するんだってね おめでとう って言うべきなのだろうけど 僕はまだ 不思議な気持ちだ 香帆さんが幸せならいい 何となく・・・何となく 僕は・・・』
しばらく貴行さんの声は途切れ
私はだんだん胸が苦しくなる
「貴行さん・・・」
『香帆さん・・・ごめんなさい 僕は伝えたい気持ちがあって電話したのに やっぱり伝えられません』
「貴行さん・・・知りたい・・・伝えたい気持ちって何?」
『・・いや・・・ごめん・・・もう少し気持ちを整理してから またいつか話せる時が来たら話すよ・・・おやすみ』
「貴行さん お願い 私 今 不安なの だから電話を切らないで 何か話して・・そう いつか 貴行さん この別荘で 何か超常現象を体験したの? どんな体験? 教えて」
『夜中にピアノを聞いた 僕の知らない曲ばかり何曲も聞いた 夜中に誰かが鏡に映った 僕は何日か別荘に泊まったけど 照明がついたり消えたり 水道の水が急に出たり 眠っていても隣で僕の名前を呼んだり 兄の亡霊が僕を苦しめているのかと 僕は思った・・・』
「そう・・・それはきっと貴行さんが 紀行さんに愛されているからだわ 紀行さんの心が 貴行さんにすがりつきたかった 貴行さんに助けを求めていたのかもしれない」
『そうなのだろうか だとしたらその時 兄は どこでどうしていたのだろう?』
私は思いつきで
・・・作り話をする
「紀行さん 何かの原因で記憶喪失になってしまったんだと思う・・・それで・・・それで 言葉も話せなくなって・・・だけどピアノは忘れられなかった そんな紀行さんに2年前の春 私は出会った 私は紀行さんが自分の過去も忘れて お世話になっていた 親切な高齢のご夫婦の家に 紀行さんのピアノの家庭教師として訪れた そして今年の6月に この別荘に住むようになって やがて 紀行さんが 紀行さんであることに気がついたのよ 紀行さんは 少しずつ知性を取り戻しているけど 過去のことは思い出せない ピアノはとても上手に弾けるようになったけど 多分 過去のことは何も覚えていない それでも もともと優しかったから お母様も清行伯父様も英二おじい様も 紀行さんをとても愛してくれる・・・私は 今夜は1人で別荘に居る 紀行さんの過去を思っていた 過去の紀行さんの愛したもの 愛したこと 愛した人を思っていた 私の知らない紀行さんの過去 貴行さん 教えて 紀行さんのこと もっと知りたいの なんだかとても寂しい気持ちになるのは 紀行さんを抱きしめていても 過去の もともとの紀行さんがわからないままだと まるで空虚を抱きしめているような気持ちになる わからないかしら」
『わかります とてもよく わかります 僕もずっと 空虚な何かに向き合っているような気持ちになっているんです 香帆さん 本当に兄は生きているんですね 兄を愛しているんですね 分かりました それなら 僕もこの週末 日本に帰ります 香帆さんと兄の結納の席に僕も出席します ああ・・・僕は何だか まだ信じられない 香帆さんでさえ 本当に実在する人なのか 信じられないんだ 僕の方がどうかしているのだろうか』
「私が実在する人間かどうか・・・そう言われると・・・不安になる 私もう・・・死んでいるのかしら 何も食べられない日が続いて あの古いアパートで・・・死んでしまったのかしら・・・そうなんだわ これは神さまが死ぬ前に見せてくれる つかの間の楽しい夢 マッチ売りの少女が 暖かい暖炉の燃える部屋でご馳走を食べる夢を見て死んでいったように 私もショパンコンクールに出る夢や紀行さんと恋して結婚する夢を見ているんだわ 本当はもう死ぬんだわ いえ とうに死んでいる そう考える方が自然 現実的だわ あ あの時 鏡に映っていた骸骨 あれは私の真実の姿だった・・・ふふふふっ・・・あははははっ・・・そうよね 私が実際 そんな幸せになれる訳ないもの・・・ああ・・・紀行さん ありがとう こんなに素敵な夢を見せてくれて 死んでいても ずっと愛してる 紀行さん」
『香帆さん 大丈夫ですか・・・心配です 1人で別荘に泊まるのはやめた方がいい 兄は今 どこに居るんですか 池袋の実家ですか』
私は電話を切った
私は急に不安が押し寄せて
夏の夜なのに 寒気がして
服を着たままベッドに入る
震えが 止まらない
「紀行さん 私を温めて 紀行さん 私を抱きしめて 紀行さん 私を連れて天国へ行って 紀行さんと一緒なら天国でも地獄でもいい 紀行さんに会いたい 紀行さんのピアノが聞きたい」
布団に潜り目を閉じる
やがて
ピアノが聞こえる
紀行さんの作曲したスケルツォだ
私は涙を流しながら
ピアノに慰められて
うとうとする
私の体は 冷たくなっていく
私の体は 透明になっていく
私の意識も 粉々になって
私という存在は 蒸発する
何か
何か 遠い宇宙の彼方から
ブラックホールの向こうから
吸い込まれて消えてしまった
音たちが
静かに逆流して
誰かの鼓動が 確かに聞こえ
誰かの呼吸が 耳元で聞こえ
誰かの眼差しに 見つめられ
透明な私は見つけてもらえず
透明な私は置き去りにされる
孤独
永遠な・・・ 孤独
寂しい
見つけて
誰か 見つけて
ハッと気がつく
スマホが振動している
羅芽からのメール
香帆が紀行さんと
遠くに行ってしまうような気がする
なぜ僕は香帆と離れて
ピアノの練習などしていたのだろう
香帆と離れてまで
ピアノの練習などしなくていい
何より大切なことは
香帆のそばに居ること
そう思ったんだ
玄関の扉を開けて
別荘の玄関前にいる
私は 震える体を
引きずるように玄関までたどり着き
扉の鍵を開ける
扉を開けた羅芽は
百年も会っていなかったみたいに
必死で私を抱きしめた
羅芽の温もりに包まれて
紀行さんの孤独を思う
置き去りにされた
紀行さんの魂を
まだ気づいていない何かを
残らず 探り出し
終わらせなければならない
それとも
始めなければならない
置き去りにされているのは 何か
羅芽は私を抱き上げ
ベッドまで運ぶ
羅芽は私の隣に寄り添って
スマホを打つ
その文字は私の心を打つ
ベートーベンは骨
ショパンは肉
ショパンは神経や血管を内包する肉
ショパンの音楽には
誰もが自らの神経を通わせ
自らの血流を流すことができる
柔らかな示唆の連続だから
僕は香帆に出会うまで
悲しみに満ちた肉の塊りだった
僕がベートーベンの音楽に求めたのは
涙でズブズブに崩れかけた
僕の肉を支えてくれる 骨だった
それは
規律あるベートーベンの音楽だった
骨は構造体
その内部を強化しながら成長する
肉は常に流動的
成長という方向性を持たず
常に状況に応じて変動を続ける
それが ショパンの音楽
骨は肉に守られて
肉は骨に支えられる
僕は香帆に愛されて
やっとショパンに手を伸ばす
僕がショパンを弾けるのは
香帆が僕の骨だから
香帆がいるから
香帆がいて僕は 安心してまどろみ
香帆がいて僕は 優雅な風にそよぐ
香帆がいなければ僕は 無
香帆の命の中にしか僕は いない
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