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一 満月の宴
今からちょうど千年ほど前の寛仁二年(1018)、時の最高権力者であった藤原道長は、自分の屋敷に貴族たちを招いて宴を催していた。四女の威子が後一条天皇の中宮となったことを祝うためである。
彼はすでに、長女彰子を一条天皇の中宮に、次女妍子を三条天皇の中宮に立てており、威子が中宮となることで、娘三人を中宮に立てた父親となったのである。日本史始まって以来、前代未聞の出来事である。
彼が座っている前に置かれた膳には、彼の絶対的な権力と財力を反映するように、高級酒である御酒槽とともに、鰻やアユの串焼き、蘇と呼ばれるチーズ、スッポン入りの汁、アザラシやアシカの干し肉等々、贅を尽くした山海の珍味があふれんばかりに並べられていた。
宴もたけなわとなって、道長は自分の気持ちを歌で詠んだ。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば」
すると感銘を受けたのか、いやこの権力者に取り入ろうと、貴族たちが、みなでこの歌を繰り返し何度も何度も詠み始めたのである。宴の盛り上がりは最高潮に達していった。
道長は顔を上げ、満月を見つめながら、ただ見つめながら、ひとびとの朗々と詠ずる声を聞いていた。声はいつまでも止まない。その快い響きと酒の酔いが相まって、彼はトランス状態に入ってしまった。
周囲はぼやけていき、前に座っている貴族の顔もわからなくなってきた。見えているのは、天上にある満月だけである。まさに自分の権力を象徴しているかのような、天上の満月だけ・・・。
次第に彼の身体がゆっくりと倒れていき、そして彼の意識がすうっと遠のいていった。
二 千年後の満月
ずいぶん時間が経って、彼は正気を取り戻した。横たわりながらも上を見ると、天上には満月が煌々と輝いている。だが、先程の人々の声は聞こえない。
あわてて起き上がると、周りにはひとの影どころか、屋敷も何もない。自分は草の上に何も敷かずに、座っていた。
「いったい、どういうことだ。三人の娘を中宮に立てた自分になんという振る舞いだ」
だが、控えているはずの家人たちの姿も見えない。
「謀られたか?だが、幸い命は奪われていない。摂政を務める息子の頼通のもとに早く行かねば」
と立ち上がろうとしたところ、向こうから灯が近づいて来る。松明のよう強い光を放っている。見慣れぬ格好をした男が、彼に尋ねた。
「おじいさん、大丈夫ですか?お酒に酔っておられるようですが、お宅まで帰れますか?」
彼は、千年の時を超え、令和元年の現代にやって来てしまったのである。
その後のことは、彼にとっては到底理解できないことばかりだった。
最初彼は、末法の時代に来たのだと思った。権力の頂点に君臨するまために数々の政敵を汚いやり口で失脚させた彼に対して、怨霊たちが仕返しをしたのではないかと考えた。しかし、どうやらそういう次元のことではないらしい。
彼は警察に保護された後、認知症あるいは精神障害の疑いで、病院に送られ心身の検査が行われた。その結果、認知面・精神面では目立った疾患は認められなかったが、糖尿病を患っていると診断された。そしてその合併症として、視力の著しい低下や足病変も進んでいることがわかった。
身寄りのない彼は、入院生活を強いられ、そこで薬物療法とともに、食事療法がとられることになった。
一日の摂取量が千五百カロリー程度に抑えられた食事は、飽食してきた現代人には辛いものなのだが、彼の場合には少し違っていた。
平安時代の食生活は、たとえ貴族でも、
”一日二食”
味付けも”塩・酢・酒・味噌”しかないので、味が単調でしょっぱい。
汁物には、”だし”が使われていない。
珍味の肉や魚は手に入っても、すべて”干し物”だった。
彼は、制限食とはいえ、現代の食事を目にしたときには、その色彩の豊かさに驚嘆した。器から今までかいだこともない匂いが漂い、食欲をそそられた。
まず、白いご飯を口に入れたが、強飯といわれる固い米粒か、お粥しか食べたことがなかった彼は、その味と柔らかさに衝撃を受けた。さらに、おかずは初めて出会った味覚ばかりで、これにも驚かれされた。
彼は不安な新生活を送りながらも、三度の食事に魅了され、生きていく勇気をえた。
そして、もう一つ彼を支えてくれたのは、夜空に輝く月であった。彼は千年後の令和の時代に来たことに気づいたが、いくら世の中がことごとく変わっていても、天上に浮かぶ月だけは、今も千年前も全く同じだった。
夜空の月を眺めるている時だけ、彼は自分がかつて生きていた平安の時代に戻ったような気分になれた。
彼は、千年前の自分のことを、現代人のどれくらいが知り、またどのように知っているのか非常に気になり、ひとびとに尋ねた。もちろん、ひとびとはまさか道長本人が尋ねているとは、夢にも思ってはいない。
そうしたところ、現代人のほとんどが藤原道長という名を知っており、同時に、平安時代の最高権力者であったことも知っていた。そして
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば」
の歌が道長の詠んだものであり、彼がその権勢に酔いしれ、自らを満月になぞらえたことまで知っていて、唖然とした。
彼は、自画自賛した自分に恥ずかしさを覚えた。
時間の余裕ができた彼は、さらにいろいろと考えるようになった。
”はたして、千年前の自分は幸せだったのか?”
彼はかつて、躊躇なく人を蹴落として、権力にしがみついていた。娘たちには無条件に天皇に嫁がせ、家族は自分の出世の道具としか考えていなかった。そういった自分の生き方が、浅ましいように思えた。
また、令和の時代にきて、友人という言葉を知った。思い返すと、自分は多くの人は知っていたが、友人といえる存在はなく、寄って来るのは、彼の権力のおこぼれにあずかろうと、美辞麗句を並べる者たちばかりだったということに気づかされた。
当時彼は、”自分はすべての願いをかなえた。満月のように欠けたところは何もない”と満足していたが、今から省みると、逆に人として大切なものは何も持っていなかったのだと思うようになった。
三 平安の満月に
彼は、カロリーと栄養が計算された食事をきちんと食べることによって、糖尿病の症状が大幅に改善されていった。そのため足の痛みもなくなり、視力もかなり回復した。
中秋の名月の夜、彼は、美しい月を眺めるために、病棟の外に出てみた。ベンチに数人が、月を肴に缶ビールを飲みながら談笑をしている。
彼はその中に呼ばれ、少しだけならとビールを勧められた。
彼は、初めて飲むアルコールの味とそののどごしに強烈なカルチャーショックを受けた。
”世の中にこんな美味いものがあったのか”
千年前の食生活を思い出すと、それが極めて質素に感じられた。美味がそろう令和の時代に生きているほうが、はるかに幸せである。
彼は、千年前の平安時代における貴族の生活について語り始めた。ひとびとは、彼が見てきたように詳しく知っていると驚き、彼の話に聞き入った。
語っていくうちに酔いも回り、上機嫌になった彼は、思わずあの歌を詠み始めた。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば」
そして、顔を上げて夜空の満月を見つめた。
すると、平安の雰囲気に包まれたのか、誰ともなくこの歌を復唱し始めた。いつしか、みなが声をそろえて歌を詠み始めた。朗々と朗々と、その声は止むことがなかった。
その声を聞きながら、天上の満月をじっと見つめていると、彼は平安の時代に戻っているような錯覚を覚えた。そうしていると、またあの時と同じように、視界から満月だけが残り、それ以外のすべてものが消えていった。最後に彼の意識も遠のいていった。
時間がかなり経って、彼は目を覚ました。頭上には満月が煌々と輝いている。そして耳からは
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
かけたることも なしと思へば」
の歌が聞こえる。
あわてて起き上がると、歌を詠む貴族たちの姿が見えた。
”ああ、もとの時代に戻ってきたのだ”
彼は安心するとともに、寂しさを感じた。
目の前にある膳のほうに目をやると、いつもと同じように溢れんばかりの珍味が載っていた。だが、かつては豪勢に思えた品々も、今は味気のない粗食に見える。
そして、もう一度天上の月を見上げた。
”何もかも、もとに戻ってしまった。しかし、今と千年後の世界でも、あの満月だけは何ひとつ変わっていない”
そう思うと、彼はなぜか安心した。
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