それぞれの春

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それぞれの春  関東地方東部にある県立緑野高校。今日は始業式だ。校庭では、都心より一週間ほど遅い桜がちょうど満開だった。ピンクにふちどられた校庭のまわりには、緑の田んぼが広がっている。  さわやかな春の訪れに、高科亜紀(たかしなあき)は、今年はいい一年でありますようにと願った。去年、まじめだからと風紀委員に推薦されたのだが、規則を守らないものに厳しくしすぎて、みんなから煙たがられてしまった。そして、クラスの中で無視されるようになっていた。  亜紀は校則どおり、肩まである髪をきちんとしばり、無地の白いソックスをはき、スカート丈もひざまである。校則はきちんと守るものだと思っているのだ。背はやや低く固太りで、自分の意見をはっきり言うタイプだが、いつも詩集を読んでいるロマンチストでもある。  ホームルームが終わると、亜紀は教室を出て、美術室へ向かおうとした。 「亜紀、美術室 へ行くんだろ? いっしょに行こう」  同じ美術部の佐々木和也(ささきかずや)が声をかけてきた。背が高くやせ型で、目が細いせいか、いつも笑っているように見える。ふたりが同じクラスになるのは初めてだ。美術室に入ると、いつものメンバー、山村大樹(やまむらだいき)と伊藤優香(いとうゆか)はもうきていた。三年生はこの四人だけで、あとは二年生が三人いるだけだ。 「こんにちは」  優香が笑顔であいさつをしてくれた。亜紀より背が高く、ショートヘアだ。口数はあまり多くないが、いつもにこにこしている。 「久しぶり。亜紀と和也は同じ五組か。おれと優香も同じクラスで、となりの四組だ」  大樹が言った。やや筋肉質の中肉中背で、銀縁メガネの奥の目つきが少し鋭い。 「そうなんだ。ねえ大樹、ツルゲーネフの初恋って読んだことある?」亜紀がきいた。  大樹と亜紀は読書が趣味で、よく本の話をする。 「知ってる。ロマンチックなタイトルなのに、内容はちょっと不純でがっかりした」 「そうなのよ。この前読んで、びっくりしちゃった。でも、雰囲気とか文章はきれいだった」  やっぱり。大樹ならそう感じると思った。見かけによらず、意外と純情なんだから。大樹は日本の近代文学が好きみたいだけど、ツルゲーネフ、読んでくれてたんだ。海外の古典もけっこう読んでるんだな。わたしが海外の作品を好きだからかな? そうだとうれしいな。  そのとき、二年生が三人いっしょに入ってきた。 「こんにちはー。先輩方、今年もよろしくお願いしまーす」 「はい、よろしく。さて、全員そろったところで、さっそくだけど、来週、新入生への部活紹介があるので、新入生を獲得するための対策を話しあいたいと思います」  大樹がみんなに声をかけた。昨年の九月から大樹が美術部の部長で、亜紀は副部長だ。亜紀は大樹のテキパキした議事進行が好きで、大樹のとなりで話し合いの内容を板書するのが楽しかった。副部長に立候補したのも、大樹の近くにいたいという下心が少しあったからだ。 「何でもいいから、意見があったら言ってみて。特に二年生。もうすぐ二年生が部の中心になるんだから、その自覚を持って。はい、由梨」  二年生の長谷川由梨(はせがわゆり)が手を上げた。和也と同じイラストやグラフィックデザインを得意としている。 「えーと、去年のように、みんなの制作したものを発表するのがいいと思いますが、今年は、和也先輩が高校生イラスト展で佳作をとっているので、そのことを強調するといいと思います。美術部って、かげで雑談部だってうわさされているけど、ちゃんとまじめにとりくんで、賞をとっている人もいるってことを伝えたいです」 「そうですね。ぼくは、イラストはあまり描かないですが、賞をとっているようなすごい先輩がいると知ったら、よけい入部したくなったと思います」  二年生の藤総一郎(ふじそういちろう)が言った。総一郎は塑像を作るのが好きだ。 「なるほど。いい意見です。ほかには?」  だれも何も言わずにいると、大樹は優香にきいた。 「優香はどう思う?」 「この部のいいところって、何だと思う? この部に入ると、どういういいことがあるかを伝えるといいんじゃないかしら。まず、みんな仲がよくて、和気あいあいと楽しくやっていること? でも、和也のように、実績をだしているものもいるわ。みんなは、この部のいいところって、何だと思う?」  二年生の竹内悠人(たけうちゆうと)が手を上げて発言した。 「はい。ぼくは、活動が厳しくないところだと思います。週三回五時までだし、休んでも何も言われない。家で制作することもできる。それに、制作の内容も自由じゃないですか。大樹先輩は建築のデザインをして模型を作ったりしているし、優香先輩はリボンや色紙でかわいい飾り物や絵本を作ったりしています。亜紀先輩は水彩による風景画が多いし、和也先輩はイラストやグラフィックデザインが得意ですよね。ぼくは油絵です。そういう自由なところがいいと思います」 「なるほど。顧問が専門家じゃないってせいでもあるけど、活動が厳しくなくて、みんな仲がいい、自由な内容で制作ができる、そして、イラスト展入賞者がいるって点を強調することにしてみようか」大樹がまとめた。 「じゃあ、みんな、それぞれ一年生に見せたい作品をひとつ用意しておいてね」亜紀がつけくわえた。 「プレゼン内容は、おれと亜紀である程度つめるから、あさってまでに発表作品を選んで、コメントをつけておいて。プレゼンが準備できたら、みんなに見てもらって意見をきくことにする。じゃあ、あとは各自の制作を続けてくれ」  五時になり、活動を終えると、美術室の鍵を顧問に返却した。 「またコンビニ寄ってく?」亜紀が大樹にきいた。 「そうするか」大樹が答えた。  名前のとおり、この学校のまわりには田んぼが広がっており、駅までの道にはコンビニが一軒あるだけだ。駅前にも、喫茶店やラーメン屋はおろか、ハンバーガーやドーナッツのチェーン店さえない。となりの駅の構内に、かろうじてラーメン屋があるだけだ。反対側へふた駅行けば、カフェやレストランもあるにぎやかな街に出られるが、どこかでゆっくりしたければ、列車に乗って移動しなければならない。また、学校から最寄り駅までは二十分も歩くし、夏にはカエルの合唱、稲が実るころはスズメを追いはらうための空鉄砲の音が聞こえる。  大樹、和也、亜紀、優香の四人は、コンビニで肉まんやあんまんと飲み物を買って、イスにすわった。このコンビニには、買ったものを食べるためのテーブルとイスがあるのだ。この高校の生徒がよく寄るからだろう。 「新学期早々、また進路調査票ださなきゃならないんだね。ぼく、憂鬱だよ。進学はするつもりだけど、何をしたいのか、はっきりしないんだ。経済学部が無難じゃないかって親は言うんだけど……。みんなは、どうするか決まってるの?」和也がきいた。 「おれは、おやじと同じ建築士になりたいから、建築科に行くつもりだ。必ず一級建築士の資格をとる。いろいろな知識を身につけて、環境や人に優しい建物の設計や建築を考えたい。そして、いつかは自分の事務所を持ちたいと思っている。地元の大学もひとつ受けるけど、第一志望は国立東京K大学だ。かなり難しいけど、トライしてみる」大樹が答えた。 「わたしは地元の国立T大の国際総合学部をめざしている。英語とフランス語をしっかり身につけて、ユニセフ職員になりたいから。中学生のときに、テレビでカンボジアの実態を見て、また、カンボジアのために現地で尽力している日本人のことを知って、わたしも何かしたいと思ったんだ。また、世界的な視点から、日本の貧困も解決する方法を探ってみたいとも思っている」亜紀が言った。 「女の人には大変な仕事だな。でも、亜紀がせっかくめざしているものを、あきらめさせるのは惜しい」大樹が言った。  亜紀は一瞬、「?」マークが浮かんだ。大樹がやめろと言っても、やめないけど? 大樹の意図がよくわからなかった。どういう意味かきこうとしたとき、和也が言った。 「すごいなー、亜紀は。中学生のときから、そんなこと考えていたんだ。大樹もすごい。しっかりしてるな。ぼくは、特にやりたいことも目標もないや。こんなことでいいのかな? みんなより成績も悪いし……」 「高校生では、やりたいことがわからない人のほうが多いんじゃないかしら? 大学に入ってから探すという手もあるわよ」優香がなぐさめるように言った。 「どうして、イラストやグラフィックの道へ進まないの? 地元にもデザインを学べる大学があるじゃない」亜紀がきいた。 「うーん。でも、この程度の実力で仕事にできるかどうか自信ないし、親も、そんな遊びのような仕事はよくないっていうんだ」和也が答えた。 「親より、自分がどうしたいかじゃない?」亜紀が言うと、和也はだまった。  そこへ、大樹が言葉をはさんだ。 「今、メディアデザイン、情報デザインは最先端の仕事で、就職もそれなりにあるってことを説明するべきじゃないか? 親の世代とは時代がちがうのに、よくわかっていないだけかもしれない。広告や映像コンテンツのデザインって、和也に向いてると思うぜ。志望大学の就職プログラムや就職実績を見せて説得すれば、わかってくれるかもしれない。男は一生の仕事になるんだから、好きな道を進んだほうがいい」 「うん、考えてみるよ。親へのプレゼンだね。確かに、ゲームとか広告デザインとかの仕事は魅力的だよ。できるかどうか自信ないけど……。地元の大学のメディアデザイン科なら手が届きそうだし。本当は、芸大が一番いいけど、さすがに厳しいだろうな。でも、いろいろ調べてみる。自分の人生だもんな。ありがとう」和也が小さな声で答えた。 「ところで、優香はどうするんだ?」大樹がきいた。 「あたしはずっと、幼稚園の先生か看護師になりたいって考えていたけど、看護師をめざすことになると思うわ。幼稚園の先生になるために、飾り物や絵本を作る練習をしてきたけど、看護師になっても、病院へくる子供たちのために役にたつんじゃないかしら」 「へえ、優しい優香らしいな」と大樹。 「じゃあ、地元の大学の看護科へ行くの?」  亜紀がきくと、優香は言葉をにごした。 「ええ、まあね……。そういえば、亜紀はどうして水彩の風景画が好きなの?」 「きれいな風景が好きだから。近くの田園風景も描くけど、写真などを見て、外国のきれいな風景を描いたりもしている。心がなぐさめられて、落ちつくんだ。そして、風景には水彩画が一番、合っているような気がするから。淡くて、情緒的っていうのかな」 「へえ、そうだったんだ。じゃあ、そろそろ行こうか」大樹が言うと、みんなは席を立って駅へ向かった。  帰りの列車の中で、和也は考えていた。  今まで、親が言うとおり、就職に有利な大学へ入って、できるだけ安定した大企業に就職して、与えられた仕事をするのが当り前だと思っていた。イラストは趣味で続ければいいし、運がよければ賞もとれるだろう。でも、一生の仕事にできたらうれしい。ゲームが好きだから、映像の仕事ができたらベストだ。でも、商品や広告のデザインでも楽しい。ぼくに、できるだろうか?  家につくと、和也はパソコンに向かった。地元にあるデザイン系の大学や専門学校や、芸大のことを調べて、何枚か印刷もした。  そして数日後、夕食が終わると、思いきって両親に言った。 「相談したいことあるんだ。聞いて」  和也は印刷物をふたりに渡した。大学や専門学校のデザイン科の案内と就職実績をプリントアウトしたものだ。 「ぼくは、デザインがやりたい。できれば、芸大のデザイン科に入りたい。難しいけど、チャレンジしてみたいんだ。芸大は東京だけど、家から通える場所にあるし、ここに入れば就職の心配はほとんどないらしいよ。あと地元にも、デザインを学べる大学も専門学校もある。おとうさんは、そんな遊びのような仕事はやめろっていうけど、今はスマホが普及しているから、映像コンテンツの仕事も多い。ゲームやウェブデザインの仕事もある。広告の仕事もある。企業に入っての仕事なら、収入も安定する。地元の大学も、就職率は悪くない。だから、デザイン科の大学をめざしちゃだめかな? ぼくは、デザインやイラストを一生の仕事にしたい!」  父親はしばらくだまっていたが、やがて口を開いた。 「わたしはおまえに、イラストは趣味にしろ、デザインの仕事はやめろと言った」  和也は下を向いて、唇をかんだ。父親は言葉を続けた。 「それは、才能がものをいう仕事は厳しいからだ。常に新しい発想を求められるし、売りこむ力が必要だ。おまえは気が弱くて、自分から主張することが苦手だから、やめたほうがいいと思っていた。だが、こうして資料まで用意して、わたしたちを説得しようとしている。ここまでできるなら、やっていけるかもしれない。いいだろう。好きな道を進め。だが、厳しいぞ。泣き言は聞かないからな」  和也の顔が輝いた。 「もうひとつお願いがあるんだ。芸大にはデッサンやイラストの試験もあるんだけど、きちんと基礎から勉強しなおさないと難しいと思うんだ。それで、実技試験の対策をしてくれる美術予備校も調べてあるんだけど、通ってもいいかな?」  父親は笑った。 「おまえには負けたよ。そこまで考えているのか。いいだろう。わたしもかあさんも、全力でサポートする。悔いのないようにがんばれ! おい、おまえ、何を泣いているんだ?」  母親が涙ぐんでいた。 「だって、うれしくて……。いつもひとりで絵を描いているだけだった、おとなしいこの子が、こんなにしっかりするなんて……」 「やだなあ。ぼく、もう高校三年生だよ」  和也が困ったように言うと、母親は涙をぬぐって答えた。 「そうよね。もう、子供じゃないのよね」 「そうだよ。自分のことは自分で決められるよ」  和也は思っていた。  亜紀や大樹や優香に負けたくない。ぼくも、自分のやりたいことを、しっかりめざしていくんだ。  翌日、和也は亜紀、大樹、優香に報告した。 「やったよ! 親を説得して、デザイン科をめざすことになった。勉強することがたくさんあるけど、好きなことだから、きっとやり通せる。みんなのおかげだよ。ありがとう!」 「そうか! すごいぞ。これで、みんなめざす道が決まったな。あとは、その道めざして一直線だ! がんばろう!」大樹が言った。  数日後、新入生への部活紹介があり、和也の入賞の実績のおかげか、ゆるい活動が好まれたのか、七人も一年生が仮入部してくれた。正式に入部してくれたのは結局五人だったが、それでも部室はにぎやかになり、部長の大樹はますますはりきっていた。  和也は亜紀と同じクラスになってから、何とはなしに亜紀の様子を見るようになった。亜紀の席は一番前の廊下側で、和也の席はそのななめ後ろだったので、いやでもよく見えた。ほかの女子とちがって、群れてトイレに行くこともないし、お弁当さえひとりで自分の席で食べている。ひとりで何でもできてかっこいいとも言えるけど、孤立しているのだろうか? たまに話をする女子はいるようだが、休み時間はたいてい、ひとりで本を読んでいるか、となりの四組の教室へ行って優香といる。  四月も終わりに近づいた連休直前のある日、亜紀がとなりのクラスからもどってくると、亜紀の机とイスがわきにどけられていた。ドア近くの壁に横向きにくっつけられている。  亜紀の机だけが……。  亜紀はそれを見ると、だまって元の位置にもどして、イスにすわった。まわりから、クスクス笑う声が聞こえてきた。  亜紀のほおを涙が伝う。亜紀は無言で、そっと涙をぬぐった。それに気づいた和也は、胸がチクリとした。何か言ってあげようと思って立ちあがったのだが、そのときチャイムが鳴って、先生が教室に入ってきた。  放課後、いっしょに美術室へ歩いていきながら、和也は亜紀にきいた。 「だいじょうぶ? さっき、泣いてたみたいだけど……。机をわきにやられたから?」 「うん、まあ……ほかにもいろいろあって……。ハブられてるの、ばれちゃったね。去年風紀委員の仕事をがんばりすぎて、みんなに嫌われちゃったんだ。今年はうまくやれるかなって思っていたんだけど、去年クラスの中心だった子がこのクラスにいるから、みんなに連絡がいったみたいで、やっぱりシカとされてるんだ」 「そんな風には見えなかったな」 「うん。美術部だけが心の支え。クラスの女子と仲よくなろうと努力したこともあるけど、だれかに声をかけると、ほかの人が「こっちにおいで」とか言って、引きはなされちゃうんだ。お弁当も、クループの輪に入れてもらったこともあるけど、あちらからはだれも話しかけてくれなくて、何となく気まずくて、それならひとりのほうがいいやって思うようになっちゃった。わたしが加わらなくても、だれも何も言ってくれないしね。高校生にもなって、なんでいじめなんてあるんだろうね。わたしだけ、クラスのラインのグループにも入っていないんだ」  和也は何て言ったらいいのかわからなかった。でも、亜紀の気持ちが伝染したのか、つらくてたまらなくなった。その後、教室でもできるだけ亜紀に話しかけるようにはしたが、そんなことでは、女子から孤立している亜紀の助けにはならないだろうと思うと、和也は少し切なかった。だが、亜紀は毎日、ひとりでけなげに耐えていた。  緑がきれいな五月になった。ゴールデンウイークには三十度を超える日もあった。そうかと思うと、はだ寒くなったり、また蒸し暑くなったりと、不安定な天候が続いた。ゴールデンウイークも終わったある日、大変なことが起こった。  五時限目の最中に、三年四組のドアがノックされた。授業を担当していた先生がドアを開けると、教頭先生が立っていた。教頭先生が小声で何か言うと、担当の先生が生徒のほうを向いて言った。 「山村大樹、すぐに帰るしたくをしなさい。おとうさんが、たおれて病院に運ばれたそうだ」  今度は教頭先生が、教室に足をふみいれて言った。 「県立中央病院だそうだ。先生が車で送るから、いっしょにきなさい」  大樹は急いで、鉛筆や消しゴムをペンケースに入れ、ファスナーを閉じると、教科書やノート、机の中のものをすべてカバンに放りこんだ。そして、カバンをかかえて、教頭先生のところへかけていった。フワフワして、雲の上を歩いているような気分だった。それに、手がふるえる。昇降口から外へ出て、駐車場においてある教頭先生の車に乗った。教頭先生はすぐに車をだした。  そう言えば、おやじ、最近すごく忙しくて、疲れているようだった。酒もタバコも増えていたし……。どうか無事でいてくれ。  大樹は、爪がてのひらにくいこむくらい強くこぶしをにぎった。病院につくと、受付へかけていって、父はどこにいるかきいた。受付の人が病室を教えてくれた。病室に入ると、母と妹はもうきていた。医師もいっしょだった  大樹がかけよると、医師が父親の脈をとり、目をライトで照らして告げた。 「午後一時四十九分、ご臨終です。こちらについたときには、もう手のほどこしようがありませんでした。腹部大動脈瘤破裂です」  母と妹は声をあげて泣きだした。  そんな! どうしてこんなことに!?  大樹は信じられなかった。夢の中にいるようで、現実のこととは思えなかった。看護師がやってきて、処置を始めた。処置が終わると、看護師が言った。 「霊安室へお運びしますので、ごいっしょにいらしてください」  ストレッチャーで運ばれて、地下の小さな部屋へ入った。霊安室には、簡素な祭壇とイスが数脚あった。 「葬儀社は、お決まりのところがございますか? こちらでご紹介することもできますが……」看護師がきいてきた。 「心当たりがありません。お願いします」母が、かすれた声で答えた。 「承知しました。お手配いたします。死亡診断書も準備しておきますので、会計でお受けとりください。そのあと、葬儀社の方がいらっしゃるまで、こちらでお待ちください」  夢の中にいるような気持ちのまま、葬儀社の人たちが父をストレッチャーで運んでくれて、いっしょに葬儀社の車で家へもどった。家につくと、葬儀社の人たちに、これからのことをいろいろ教えてもらった。思ってもいないことだったので、何をどうしたらよいのか、まったくわからなかった。残された家族三人で支えあいながら、通夜や告別式のことを決めていった。  その夜、大樹は線香を絶やさないようにするため、一晩中起きていた。すると、父との思い出がいろいろよみがえってきて、目から涙がこぼれおちた。やがて、外が明るくなってきた。朝日がのぼるのを見ると、大樹はいっそう悲しくなった。キラキラ輝く美しい光が皮肉に感じられた。  どんなことがあっても、何も変わることなく、世界は続いていくんだな……。  翌日、学校では、生徒のみんなに大樹の父親の訃報が知らされた。大樹と親しかったものは、二日後の告別式に参列してもよいことになった。休み時間になると、亜紀と和也は優香のところへ行った。 「びっくりしたね。告別式、どうする? わたしは行きたいな」亜紀がふたりにきいた。声が少しふるえている。 「あたしも行くわ」優香が言った。 「もちろん、ぼくも。少しでも力になりたいよね」和也も言った。  告別式当日、三人はいっしょに会場へ向かった。焼香も終わり、お坊さんが去り、みんなで柩に花を入れていった。そのとき亜紀たちは、大樹と少し話す機会があった。 「大樹、だいじょうぶか?」和也がきいた。  亜紀と優香は何と言っていいのかわからなかった。  大樹はうなずいた。 「ありがとう。だいじょうぶだ。いろいろあるから、しばらく学校を休むと思う。悪いけど、部活のことたのむな」 「学校のことは何も心配しなくていいよ。ぼくと亜紀で、美術部のことはなんとかするから。授業のノートは優香がとってくれるよね? 字がきれいだから、きっと、わかりやすいノートができるよ。いいよね、亜紀、優香?」和也がきいた。 「もちろんよ!」亜紀が答え、優香はだまってうなずいた。  目が赤い。泣いたのだろうか? それとも、眠っていないのだろうか?  亜紀は大樹が心配でたまらなかった。何か言ってあげたいのに、言葉が見つからなかった。 「それでは最後に、喪主様からごあいさつがございます」  司会者が言った。それを聞いて、大樹の母は前へ出ようとしたが、よろめいて、たおれそうになった。大樹があわてて支えた。そして、母親に何か言って席につかせると、大樹がマイクの前に立った。 「えー、本来ならば、喪主である母がごあいさつすべきところですが、体調がすぐれないため、代わりに息子のわたくしが、ごあいさつさせていただきます。みなさま本日はお忙しいところ、父のためにお集まりくださいまして、ありがとうございました。父も喜んでいると思います。突然のことで、家族一同まだ動揺していますが、長男のわたくしが母と妹を支え、これから力を合わせてがんばっていきますので、どうかこれからも変わらず、ご指導のほどお願い申しあげます。本日は誠にありがとうございました」  つらくてたまらないだろうに、あんなにがんばって……。  大樹の決意を聞いて、亜紀は胸が痛くなった。そして、目に涙があふれてきた。何もできない自分がふがいなかった。  五日後、大樹はようやく登校した。いつもと変わらぬ学校の様子に、何となく違和感を覚えた。自分だけ別の世界の人間のように思えた。こんなことがあったのに、ほかの人には何も関係ないのだ。この世でひとりぼっちのような気がした。それでも、表面はいつもどおりにふるまった。  学校へ出てきた元気な大樹の姿を見て、亜紀はほっとした。あの告別式の日、大樹がだれよりも大切な存在だと、しみじみ感じさせられた。大樹が悲しんだり苦しんだりしていると、自分のことよりつらかった。前から心ひかれてはいたが、好きでたまらないことを、はっきり自覚したのだ。  放課後、美術室へ行くと、大樹はいなかった。優香が、大樹は担任と進路の相談をしていて、今日は部活に出ずに帰ると言っていたと教えてくれた。  進路相談室で、大樹と担任が向かいあっていた。 「よろしくお願いします」大樹は担任に言った。 「すわって。このたびは、大変だったわね」  担任は五十代の女性の英語教師だ。いつもにこにこして優しそうだが、授業は厳しい。 「さて、進路調査票によると、国立東京K大学建築科が第一志望ね。すべりどめに地元の国立Ⅰ大学の工学科も考えていて、ほかに私立の大学も受けるべきか迷っている、だったわね」 「はい。でも、父がいなくなった今、大学へ進学していいのかどうか迷っています。妹もいるし、母もまだこれから仕事を探す状況なので……。生命保険もあるようですが、先のことを考えると、いろいろ不安です」 「わかるわ。ただ、あなたの成績だと、大学をあきらめるのはもったいないわ。おとうさまのためにも、建築士になる夢はかなえるべきだと思うの。専門学校もあるけど、あなたなら大学のほうがいいわ。はばひろく知識を身につけられるし」 「はい。母も、お金のことは心配しないで、大学へ行けと言ってくれていますが、ぜいたくはできません」 「そうね。でも、金銭的に厳しくても、いくつか選択肢はあるわ。まず奨学金。ひとり親家庭支援奨学金制度なら返済不要よ。また、貸与もいろいろあるけど、卒業後、何十年も借金を負うことになるの。あと、これはすごく大変だけど、新聞奨学生という手もある。ただ、仕事をしながら大学の勉強をこなしていくのは、並大抵のことではないわ。または、昼間働いて定時制の大学へ行くという手もあるけど、これも同じくらい大変なことよ。不安なら、就職して何年か働いて、お金を貯めてから大学に進学するという方法もある。人生は長いんだもの、いくらでもやり直しはきく。ご家族とよく相談して、方向性を決めてみたらどうかしら?」  担任のくれた資料によると、ひとり親家庭支援奨学金制度は、ほかの奨学金とも併用可能だが、各県数人しか枠がない。また、学校へ行くための目的と強い意欲を必要とする。貸与の奨学金なら、母子家庭はかなり優遇されることもわかった。  一方、新聞奨学生というのは、朝夕の新聞を配達することで給与や給付金をもらえる制度だ。学業に必要な補助の給付、入学前の貸しつけも利用できるし、住む場所は無料で提供される。また、有料だが食事を用意してもらうこともできる。登校前の朝三時から三時間程度と、夕方三時からまた三時間程度働くらしい。 「先生、いろいろ教えてくださって、ありがとうございます。母も大学へは行けと言ってくれているので、国公立大学へ進学する方向で検討してみます。新聞奨学生になれば、生活の心配をしないで東京の大学へ行けますね。母と妹と相談して、近いうちに報告します。ありがとうございました」  大樹が出ていくと、担任は目頭をおさえた。 「あんなにいい子なのに、苦労しなければならないなんて……。毎年、いろいろなことが起こるわ」  大樹は、心は空っぽ頭は真っ白のような気がしたが、それでも生きている以上、前へ進まなければならないのだと覚悟した。気落ちしている母と妹を支えてやらなければという、使命感のようなものもあった。  そして数日後、大樹は先生の勧めのとおり、ひとり親家庭支援奨学金制度と新聞奨学生を申しこむことにした。何としても現役で国公立大学に入りたいので、第一志望の国立東京K大学は断念し、少しランクをさげて東京の公立S大学建築科を受験することにした。第二志望は地元の国立Ⅰ大学の工学科だ。  それを聞いた亜紀は、できれば地元にいてほしいとひそかに願った。そして、そんな自分がいやだった。  大樹はあんなにがんばっているのに。せっかく東京の大学へ行くめどもついたというのに……。  一方、優香も問題をかかえていた。父親が進学に反対しているのだ。だが、その理由がよく理解できなかった。 「女が大学へ行くことはない。どうせ、結婚して家を出ていくんだ。それまで働くか、花嫁修業でもしていろ。大学を出てから働いたって、すぐにやめることになる」  確かに、父は母よりかなり年上だが、半世紀も前の考え方にとらわれているようだ。父がいないときに、優香は母にきいた。 「どうして、おとうさんはあんなにかたよった考え方をするの? あたしは看護師になりたいのに、どうして反対するの?」 「おとうさんのおとうさん、つまり、あんたのおじいちゃんの考え方を、そのまま受けついでいるんだよ。おばあちゃんも古い人でね、とても厳しかった。旧家だから、あたしをがさつだといつも責めたよ。だから、おとうさんも親のまねをして、あたしのあら探しばかりするのさ。あたしは父親を早く亡くしているから、父の面影を求めて、あんなに年上の人と結婚してしまった。結婚してからは、毎日のように泣いていたよ。でも、優香が幸せになれれば、それでいいと思ってがまんしてきた。ぎりぎりの生活費しかくれなかったけど、優香の学費はだしてくれたから。でも、優香の将来を妨げるようなら、もう、いっしょにいる意味はない。どんなことをしても、優香は看護師になるんだよ。いいね?」  母が決意したように力強く言った。  翌日、優香は保健の先生に、お金がなくても看護師をめざす方法があるか相談に行った。一方、母親は法テラスへ離婚の相談に行っていた。  個人の事情とは無関係に、学校の行事は進行していく。五月終わりには中間試験があり、みんな、しばらくは試験勉強に追われた。そうして五月が過ぎさり、六月になった。どんよりと曇った日が多くなったが、相変わらず肌寒い日も蒸し暑い日もあった。今度は、体育祭が間近にせまっていた。そして、今日は体育祭の予行演習だ。めずらしく、よく晴れ日だった。  三年生男子の徒競走で、大樹が走る番がきた。亜紀は遠くからこっそり見つめていた。大樹は運動もそれなりに得意だ。ピストルの音とともにとびだし、ネコ科の動物のように、しなやかに走る大樹の姿を美しいと思った。初夏の日差しをあびて、輝いているように見えた。ところが、ゴールにつくと、大樹はよろめいてすわりこんでしまった。男の先生にだきかかえられて、保健室へ向かうようだ。亜紀は心配だったが、何の関係もない自分がとびだしていくわけにはいかないと思った。  先生は大樹を保健室に運ぶと、三年四組の生徒たちが待機している場所へもどった。 「保健委員はいるか? 山村は貧血らしいが、あとで保健室へ様子を見にいってくれ。帰ったほうがいいかどうか確認して、担任に報告するように」 「男子の保健委員はまだ徒競走の列に並んでいますが、あたしがあとで行ってみます」  優香が答えた。優香は保健委員だった。そこで、しばらくすると保健室へ行ってみた。 「こんにちは。山村大樹くんはどうですか?」 「あら、優香ちゃん。山村くんはだいじょうぶよ。もう少し休んで、だいじょうぶなようなら、もどってもいいわ。疲れがたまっていたんでしょう」 「そうですか」  優香は大樹の寝ているところへ近づいた。 「大樹、具合はどう?」 「優香、きてくれたんだ。ありがとう。もう、だいじょうぶだ。ちょっとめまいがしただけだから」 「疲れがたまっていたんですって。ちゃんと寝ている?」 「勉強の遅れをとりもどそうと、あせっていたかな。少し無理したかも」  そこへ、一年生がふたり入ってきた。 「先生、ころんでけがしちゃった!」  保健の先生は、一年生のけがの様子を見にいった。 「たいしたことないわ。これなら、薬をぬればだいじょうぶよ」  保健の先生がけがの手当てをしているとき、大樹が優香をじっと見つめて言った。 「優香、心配してくれてありがとう。優香といると、心が休まるよ」 「保健委員だもの」優香は目をそらして、小さな声で答えた。 「優香は優しいな、おれは、そんな優香が――」 「山村くん、だいじょうぶそうなら、もどってもいいわよ。どう、具合は?」  一年生のけがの治療を終えた保健の先生が声をかけた。 「だいじょうぶです。もどります」大樹が答えた。 「あたし、先にもどってるわ」  優香はその場を離れた。  大樹は優香の後ろ姿を見ながら思っていた。  優香は平凡だけど、優しくて、いっしょにいたいと思える女の子だ。  六月後半になると、強い雨が降るようになった。まるで、亜紀の心のようだ。大樹のことで頭の中がぐちゃぐちゃで、ほかのことは何も考えられなくなっていた。自分を立てなおそうとがんばるのだが、傘にあたる雨の音にさえ負けて、くずおれそうだった。家から駅へ行く途中の道にある、紫陽花の色の移り変わりを見つめながら、わけもなく涙があふれた。  和也はそんな亜紀を見つめていた。相変わらずいつもひとりで、ため息ばかりついて、思いつめているような表情の亜紀が、気になってたまらなかった。それに、ときどき廊下へ出て、四組の教室の中を、後ろのドアからさりげなく見つめている。  何をしているのだろう? だれかを見ているのだろうか? もしかして……?  和也はさびしそうな亜紀に、できるだけ話しかけた。クラスの中で、ふたりのことをうわさにするものもいた。でも、亜紀は和也の優しさがうれしかった。ハブられている亜紀をかわいそうに思って、相手をしてくれているのだと信じていた。ただ亜紀は、大樹に誤解されるといやだなとは思っていた。あと、和也に迷惑がかからないかが心配だった。  一方、大樹は優香が最近、もの思いにふけっていることが多いのに気がついていた。亜紀がくれば話をしているが、それ以外は、ひとりでぼんやりしている。  もともとおとなしい子だけど、何かあったんだろか?  優香にきいても、何もないわ、とかわされた。  そして亜紀は、四組の教室や美術室で優香といるとき、大樹の視線を感じていた。  優香を見ている? それとも……?  そうして、七月をむかえた。七月初めには期末試験がある。学校生活はあわただしい。試験が終われば夏休みだ。  夏休みになると大樹に会えなくなる。でも、今は試験勉強をしっかりしなければ、と亜紀は自分に言いきかせて、勉強に集中しようと最大限の努力をした。  だが、期末試験も、そのすぐあとにあった模擬試験も、あまり思わしくなかった。  こんなことじゃいけない、夏休みは全力で勉強しなくちゃ。  亜紀は夏休み、予備校の夏期講習に通い、一日の計画をたてて、予備校がある日はそのあと五、六時間、休みの日は十四時間くらい勉強した。だが気がつくと、大樹のことを考えている自分がいた。大樹に会えない日々がつらかった。  そんなある夕方、優香から電話がかかってきた。 「ごめんね。勉強中だったでしょ?」優香が言った。 「だいじょうぶだよ。どうかしたの?」  電話の向こうから人の声が聞こえる。どなり声のようだ。 「そっちへ行ってもいいかな? 話したいこともあるし……」 「うん、いいよ。駅までむかえにいくね。今日はうちに泊まれば? おかあさんに言っておくから」  優香の声が暗いのと、電話の向こうから聞こえてくる声が言い争いのようなので、気になって申しでてみた。 「ありがとう。そうさせてもらうね」  外は暗くなりかけていた。こんな時間に会いたいと言ってきて、しかも、うちに泊まるというのは、相当の事情があるのだろうと思った。優香と駅で会って、うちまでいっしょに歩いた。優香は最初に「ごめんね」と言ったきり、何も言わない。  家について、亜紀の部屋に入ると、優香はぽつりぽつりと話しはじめた。 「うちのおとうさんとおかあさん、離婚するんだ。だいぶ前からそんな話をしていたけど、いろいろな条件の調整に時間がかかって、やっと八月に別れることが決まったの。でも、名前は変わらないのよ。おかあさんが、あたしのために変えないほうがいいだろうって、今のままにしてくれたから」  優香はそこで少し言葉を切った。そして、また話しはじめた。 「おとうさんが、今でもおかあさんをののしるのが情けなくて……。財産分与とか年金分割とかが気に入らないらしいの。ちゃんと離婚調停で決まったことなのにね。なんだか悲しくなっちゃう。おかあさんは、春から離婚に向けていろいろ準備を進めていたわ。仕事を見つけたし、今は住むところを探している。おとうさんはそれも気に入らないらしくて、何かにつけ、おかあさんをどなるのよ。弁護士がついているから、さすがに暴力はふるわないけど、おかあさんにどなりちらすおとうさんがいやでたまらない」 「そうだったんだ。何も知らなかった」 「あたしはおかあさんと暮らす。おとうさんはきらい……。おかあさんのことをばかにして……奴隷のようにあつかっていたもの。おれが食べさせてやっているんだから、言うことをきけって態度で……すごくいやだった。特に、酔うと乱暴になって、強くではないけれど、たたくこともあったわ。おかあさんは、自分のものは何も買えず、毎日、家であたしたちのために、ただ働いていた……。でも、おとうさんが、あたしの進学に反対したことで、やっと別れる決心をしてくれたの。おかあさんは、独身時代に働いて、貯めたお金が少しあるし……あたしも、この夏はアルバイトをしている……」  優香はときどき言葉をつまらせたが、感情をおさえて、淡々と話しつづけた。  亜紀は優香の両手をにぎりしめた。 「それであたし……大学はお金がかかるから、専門学校へ行くことにしたの。県立の学費の安い看護専門学校があって……三年通って国家試験に合格すれば、看護師になれるわ。奨学金もあって、五年間、県内で看護師として働けば、返済しなくてよくなるの。万一そこがだめだったら、授業は午後だけの准看護師養成学校に二年間と……看護師養成学校に三年間、通うつもり。午前中は看護助手として、二年後は准看護師として働けるから……。あと、ひとり親家庭支援奨学金制度にも、申しこむ予定よ。  とりあえずは、おかあさんの貯金と財産分与でなんとかなるし、あたしが二十になるまで、養育費ももらえるからって……おかあさんが背中をおしてくれたの。おかあさん、生命保険の会社に入ったのよ。正社員! あたしもできるだけアルバイトするし……だから、きっとだいじょうぶ。おとうさんは、女のかせぎなんかで暮らしていけるものかって、ばかにしてるけど……、でも、ふたりで力を合わせれば、きっとなんとかなる。そして、あたしは絶対、手に職を持つ。看護師になる! 男の人に頼らなくても、生きていけるように……。おかあさんもそれを望んでいる。結婚するとき、おとうさんがいやがるから、仕事をやめたけど、後悔してるって……」  優香は唇をかみ、両のこぶしをにぎりしめている。  亜紀はびっくりした。優香がこんな大変なことになっているなんて、まったく知らなかった。母親とふたりで暮らしていくのは、どんなに大変なことだろう。大樹も優香も、ぎりぎりのところに追いこまれているような気がした。自分の力で生活することを考えていかなければならないのだ。亜紀は今まで、お金の心配などしたことがなかった。自分がひどく子供に思えてきた。 「優香がそんな目にあっているなんて、まったく知らなかった。優香は強いよ。夢がかなうように応援するからね」 「亜紀こそ意志が強いわ。中学生のときから、ユニセフスタッフになるって決めて、勉強をがんばってるもの。そんな亜紀がいたから、あたしもがんばれたのよ」  優香は無理に笑顔をつくってみせた。 「優香……ありがとう。わたしこそ、クラスで孤立していても耐えてこられたのは、いつも優香がいてくれたからなんだよ。優香には本当に感謝している。だから、優香が大変なときは、わたしにできることは何でもするよ。いつでも遠慮なく言ってね」 「亜紀、ありがとう」  優香は目をうるませた。  そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。亜紀の母だった。 「夕食ができたわよ。クリームシチューなんだけど、優香さんのお口に合うかしら? それとも、お風呂が先のほうがいい?」  優香はそっと目をぬぐって答えた。 「ありがとうございます。シチューいただきます。大好きです」  食卓には、亜紀の両親と姉もいた。 「高校生になってから、亜紀が友達を家に連れてきたのは初めてだな。優香さん、亜紀と仲よくしてくれてありがとう」亜紀の父が言った。 「こちらこそ、亜紀さんにはよくしてもらっています」  優香はそう答えながら、全身があたたかくなってくるのを感じた。  家族って、こういうものなんだ。あたたかいな。亜紀がうらやましい。 「亜紀は学校ではどう? ちゃんとやってる?」亜紀の姉がきいた。 「しっかりしています。見習いたいくらいです」優香が答えた。 「まあ、お世辞を言わなくてもいいのよ。シチュー、もっとめしあがらない?」亜紀の母がきいた。 「ありがとうございます。もう、いっぱいです。あたたかくて、とてもおいしいです」  夕ご飯が終わると、少しだけ勉強して、もう休むことにした。亜紀のベッドの横にふとんをしいて、亜紀と優香はとなりあって寝た。だが、もちろんすぐには眠らず、暗い中でおしゃべりをした。ガールズトークといえば、やはり恋愛の話題になる。 「亜紀は好きな人いるの?」優香がきいた。 「…………大樹」亜紀が小さな声で答えた。 「やっぱり。そんな気がしてたんだ。部長と副部長で、息がぴったり合ってるし、おにあいだよね」 「ありがとう。優香は大樹のこと、どう思う?」 「大樹はテキパキして、しっかりしていると思う。でも、強すぎて、ちょっと苦手。あたしはもっと優しい人が好き。和也のほうがいいな」 「和也が好きだったの?」 「好きなのかな? よくわからない。あたしは亜紀みたいに、だれかを本気で好きになったことってないみたい。去年、和也と同じクラスだったんだけど、まわりに気をくばれる優しい人だなって思っただけ。大樹のおとうさんのお葬式の日も、大樹を支えようとはげましていたじゃない? 意外としっかりしてるんだなあって感心した。でも、それだけ」 「いいなあ、同じクラス。わたしは大樹と一度も同じクラスになれなかった。姿を見ていられるだけで幸せなのに……」 「いつでも、あたしのところにきて。大樹に会いに」 「ありがとう! 優香は、和也に会いにわたしのクラスにこなくていいの?」 「うーん、そこまでしたいとは思わないな。亜紀がこっちにきて」 「そう……。わたしは毎日、いつも大樹を見ていたい。あー、なんだか目がさえてきちゃった!」  亜紀は起きあがって、ロールカーテンを上げ、窓も開けた。夏のしめった空気は草のにおいがした。 「わー、きれい! 星がよく見えるよ」  優香も起きてきて、いっしょに窓の外を見た。 「あれが北斗七星ね。あと、あれがカシオペア座。そのくらいならわかるわ」  濃紺の夜空に、宝石のような星が散りばめられていた。白くかすんだ天の川が、その中を流れていく。 「わたしはつらいとき、いつも空を見上げるんだ。青い空も夕焼け空も好き。きれいな空を見ると、心がなぐさめられるから」亜紀が言った。 「あたしは空なんて、ずっと見ていなかったな。これからは空を見上げよう! 亜紀、今日はありがとう。迷惑かけてごめんね。あたしきっと、今日のことは忘れない。亜紀の優しさを支えに、これからもがんばっていくわ」  優香がふるえる声で言った。涙がひと筋ほおを流れた。 「優香、何を言ってるのよ! これからも、もっともっと頼って! 優香は自分の気持ちをあまり外にださないけど、もっとほかの人に甘えていいと思う。今日は、優香がいろいろ話してくれてうれしかったよ。がんばりすぎないで。何かあったら、いつでも連絡して」 「うん、ありがとう。そうさせてもらうわね。今、アルバイトもしてるけど、勉強もがんばらなきゃね。受験科目は英数国なの。基本的な内容だけど、あたしは数学が苦手だから、わからないことがあったら教えてね」 「もちろんよ! がんばろうね。わたしも、この夏は一生懸命勉強する!」  翌日、優香は家にもどり、引っ越しの準備をした。引っ越しの日は八月三十日に決まった。引っ越しにはいろいろお金がかかるから、夏休みに少しでもアルバイトでお金を貯めてからと思ったのだ。新しいアパートは、六畳ひと間と小さなバスルームとキッチンがあるだけだ。それでも、父の嫌味を聞かされるよりいい。今日も夕方からアルバイトに行く。父と顔を合わせる時間を少なくしたいから。離婚の条件も引っ越しの日も決まったのに、父はまだ母に未練があるからなのか、それとも、支払うお金が惜しいせいか、いつまでも、ぐだぐだと母に嫌味を言う。 「おまえはまだおれの妻なのに、ろくに家のこともしないで外へ出て、財産分与だの年金分割だの、おれのかせいだ金をたんまりもらえるなんて、いい身分だな。そんな金、すぐに底をつくぞ。みじめな生活しかできなくなって、後悔するのは目に見えている。優香の将来をめちゃくちゃにする気か? 母子家庭なんて、みっともない」  あと少しだからと、優香と母親はじっと耐えて、仕事の合間に黙々と引っ越しの準備を進めた。そして、八月三十日、父が仕事に行っているあいだに、今まで住んでいた家を出て、せまいアパートに引っ越した。父親には住所も新しい電話番号も教えていない。  母が優香の手をにぎって言った。 「ごめんね。苦労かけるね」 「だいじょうぶ。おかあさんとふたりでがんばる。専門学校に三年通って、国家試験に合格すれば看護師になれるんだもの。そしたら、あたしもお給料をもらえるようになるから、おかあさんも少し楽ができるよ。でも、それまで無理しすぎないでね。いっしょにがんばろう!」  小さな窓から外を見ると、夕焼け空だった。きれいだなと思った。  一方、亜紀は勉強に集中していた。もちろん、大樹のことを思いだして、切ない気持ちになることもあったが、ぼんやりしている自分に気がつくと、頭をふって大樹のことを追いはらい、必死にがんばった。同じころ、大樹も和也も、それぞれの道をめざしてがんばっていた。大樹は予備校へは行かず、ほぼ毎日、朝から夕方まで図書館で勉強し、夜も遅くまで家で勉強した。外で勉強したほうが、気が散らなくて集中できた。和也のほうは、美術予備校へ通っていた。好きなことなので苦にならなかった。  夏休み最後の日に、優香から電話番号とアドレスが変わったという一斉メールがきた。そのすぐあと、亜紀あてに「引っ越したよ。おとうさん名義の携帯は前の家においてきた。おかあさんは初めて携帯を持つの。料金の関係で、ふたりともスマホじゃなくて携帯。せまい所だけど、今度、遊びにきてね」というメールがきた。 「連絡ありがとう! いつか行きたいな。何かあったら、いつでも連絡してよ」と亜紀は返信した。  そうして、各自、夏はかなりがんばれたという満足感で夏休みを終えた。九月になり、二学期が始まった。さっそく、みんな美術室に集まった。大樹が前に出て言った。 「さて、十月初めに文化祭があるから、全員、文化祭で展示するものを準備しておいてほしい。前日に展示室の準備、展示品設置になるので、二日前には完成させておくように。三年生は、以前に制作したものでもかまわない。あと、おれたち三年生は、文化祭を最後に引退するから、来週、次の部長副部長を決めて、引継ぎの準備をしようと思う。立候補するか推薦したい人を考えておいて。よろしく」  大樹のとなりに立ちながら、亜紀は胸がチクンとした。文化祭が終わったら、美術室でも会えなくなる。  文化祭の展示物だが、大樹は勉強に専念したいから、新しい制作にはとりくまず、以前作った住宅模型を展示するとのことだ。美術室には顔をだせない日が多くなると言っていた。和也は今、展示用に新しいイラストを描いている。ツインテールのかわいい女の子が白いユニコーンに乗って、きれいな森の中を進んでいく絵だ。ファンタジーゲームに使えそうなイラストだと思った。優香は、緑色のもぞう紙で大きなツリーの形を作って壁にはり、折り紙で作った飾りや雪の結晶の形などを、その上に飾りつけると言っている。亜紀も今、水彩画を描いている。雑誌に載っていた外国の風景写真の湖の絵だ。めずらしく、それに人物を入れようと思っている。ものうげに湖を見つめている悲しげな表情をした少女だ。亜紀の今の気持ちを表したかのような絵だった。一、二年生は、油絵での人物画、パステルでの静物画、絵本制作、粘土による塑像など、いろいろな作品に挑戦している。ひとりで二作品だすものもいるようだ。  次の週の話し合いで、新しい部長は竹内悠人、副部長は長谷川由梨に決まった。 「先輩たちを見習って、しっかり部長をつとめたいと思います。これからも、いろいろご指導をお願いいたします」竹内悠人があいさつをした。 「よろしくお願いいたします」長谷川由梨も言った。  そうして、部活は二年生が中心になって、文化祭の準備を進めていった。悠人は何かにつけ、亜紀にいろいろ相談したり質問したりしてきた。亜紀はかわいい後輩だなと思っていた。由梨はイラストのことで、よく和也に相談している。二年生と三年生は仲がいい。一年生は五人もいるせいか、まだ慣れていないせいか、五人の団結力が強く、ちょっと距離をおいている感じだ。  文化祭の二日前には、全員きちんと作品を完成させていた。あとは、明日展示をしていくだけだ。二年生が中心なので、三年生はあまり手をださなかった。  一方、亜紀のクラスでは迷路を作ることになった。製図が得意な子が方眼紙で設計図を書き、机とダンボールと黒いカーテンで道を作っていった。文化祭前日、亜紀もみんなの様子を見ながら、机を動かしたりダンボールを黒くぬったりするのを手伝ったが、だれも亜紀には声をかけてくれなかった。次はどうするのかよくわからなくて、忙しそうな子に亜紀はきいた。 「あと、何をしたらいい?」 「美術部のほうはいいの? こっちのことは別にいいから、美術室へ行ったら?」  やんわりと、さりげなく拒絶された。  窓の外は曇り空だった。亜紀は美術室へ様子を見にいった。 「どう? 何か手伝うことある?」  亜紀がきくと、部長の竹内悠人が答えた。 「ありがとうございます。展示の配置の相談にのってくださるとうれしいです」  ほかの部員も優しく受けいれてくれた。だがもちろん、大樹はいなかった。さびしいと思いながらも、展示や飾りつけを手伝った。  文化祭当日、亜紀はひとりで校内を見てまわっていた。クラスの迷路にも入ってみた。壁を黒くしたので、恐怖感があるし、方向がわからなくなる。出口への道を知っていたはずなのに、なかなか出られなかった。よくできていると思った。そのあと、美術室にも入ってみた。いろいろな作品があるのに、全体の配置のバランスがいい。何人か人も入っていた。だが、多くの作品の中で、やはり和也のイラストは目をうばわれる。とてもきれいだと思った。色使いも大胆でカラフルだ。みんなの作品を見てまわったあと、大樹の住宅模型を長いあいだ見つめていた。 「亜紀先輩」  受付をしている悠人が声をかけてきた。 「今、空いているんですか? ぼくの受付担当時間もうすぐ終わりなので、ほかに用事がなかったら、いっしょにまわりませんか? 進路や部活の相談もしたいし」  亜紀は少し驚いたが、それもいいかもしれないと思った。  文化祭くらい、わたしも楽しみたい。  環境問題をあつかったまじめな展示や縁日、お化け屋敷などがあった。ふたりでお化け屋敷に足をふみいれた。目がなれないせいか、暗くてしばらくよく見えなかった。 「先輩、こっちです。気をつけてください」  悠人が亜紀の手をとった。亜紀は「え?」と思ったが、いやではなかった。  お化け屋敷から出ると、となりのクラスでやっている喫茶店に入った。紅茶とクッキーをたのんで、ふたりでおしゃべりをした。 「先輩はどこの大学をめざしているんですか?」悠人がきいた。 「国立T大の国際総合学部。難しいから、合格できるかどうか心配」 「すごいですね。実は、ぼくもT大に行きたいと思っているんです。次はぼくが部長になることになりましたが、大樹先輩も亜紀先輩も、部活と勉強を両立させてきたじゃないですか。ぼくも見習いたいと思います。両立の秘訣って何ですか?」 「わたしも偉そうなことは言えないけど、限られた時間で集中することでしょうね」 「なるほど。先輩方は文化祭が終わったら引退してしまいますが、これからも何かありましたら、ぜひご指導お願いします」 「わかったわ。わたしたちにできることがあったら、遠慮なく声をかけてね。今日は楽しかった。ありがとう。じゃあ、またね」  悠人とたわいもないおしゃべりをしただけだったが、亜紀は久しぶり楽しい気分を味わえた。  もしかすると、ああいう子を好きになったほうが幸せだったのかも……。いい子だな。  亜紀は、望みがなさそうな片恋に少し疲れていた。自分でも、なぜこんなに大樹が好きなのかよくわからない。  そういうものなのかもしれない。恋するのに理由はいらない。  二日間の文化祭が終わり、教室や美術室のかたづけが始まった。かたづけが終わるころ、美術部員はみんな美術室に集まっていた。 「おつかれさま! 二年生が中心となって、よくやってくれた。おれたちはこれで引退する。あとは一、二年生にまかせるから、よろしくたのむ」大樹がねぎらいの言葉と別れの言葉を言った。 「じゃあ、今日は打ち上げに、ラーメン食べに行こうか?」和也が提案した。 「行きたい!」亜紀が言った 「そうだな、最後だし。一、二年生はどうする? 自由参加だけど。優香は?」大樹がきいた。 「行くわよ」優香が答えた。  二年生は三人とも参加すると答えた。一年生の五人は別行動するとのことだ。  ラーメン屋はとなりの駅まで行かなければならないが、ときどき、わざわざ列車で移動して、みんなでラーメンを食べることがあった。それも最後かと思うと、亜紀はさびしさを感じた。 「昔は後夜祭があって、キャンプファイヤーのまわりで、フォークダンスをおどったそうですよ。フォークソングを歌ったりもしたらしいです」どこから聞いてきたのか、二年生の藤総一郎が教えてくれた。 「へえ、おもしろそう。どうして、後夜祭なくなっちゃったんでしょうね?」悠人がきいた。 「夜遅くなると危ないのと、今は、校庭で火をたくのは、条例で禁止されているからだよ」和也が教えてくれた。 「残念だな、楽しそうなのに。でも、もう受験に向けてラストスパートしなきゃならない時期だもんな。みんな、調子はどう? おれは、さすがに六月七月の模試は散々な結果だったけど、九月の模試で少しとりもどした。あと一歩だ。合格めざして、必死に勉強するぞ!」大樹が言った。 「ぼくは、学科はだいじょうぶそうだけど、実技がまだ自信ないや。でも、絶対合格したい」和也がめずらしく、力強く言った。 「あたしも合格したい」優香もおだやかに言った。 「わたし、七月の模試でC判定とっちゃったけど、九月の模試ではB判定にもどった。でも、まったく油断できない状態。もっともっとがんばらないと……」亜紀も決意するように言った。 「先輩方の合格を祈っていますね」二年生の長谷川由梨が言った。 「ぼくもお祈りしていますよ」悠人も言った。 「もちろん、ぼくも」と総一郎。 「ありがとう。よし、みんなの検討と合格を祈って乾杯しよう」  大樹が言って、みんなで水の入ったグラスで乾杯した。  これからは、今までのように三年生が美術室に集まることはなくなるだろう。さらに、年が明ければ自由登校で、補講を受けたいものだけが登校することなる。  大樹に会えなくなる日が近づいている。  亜紀は胸がつまって、しょうゆラーメンがなかなかのどを通らなかった。ふと顔を上げると、向かい側にいる和也が、心配そうな顔でこちらを見ていた。亜紀はにっこりしてみせた。和也も安心したように、笑顔を見せてくれた。そのとき、和也のとなりにすわっている由梨と目があった。由梨はすぐに目をそらした。 「進路が決まったら、報告してくれるとうれしいな。みんな、希望のところに入れるといいね」和也が言った。  ほかの三人もうなずいた。連絡しあおうと約束して、お開きになり、バラバラに家へ帰っていった。  こうして、それぞれの思いをかかえたまま、三年生は美術部を引退した。そして、受験勉強に専念していた。  十月の中間試験も終わったある日、亜紀が帰ろうと校庭をひとりで歩いていると、二年生の由梨が後ろから追いかけてきた。 「先輩こんにちは。少しお話してもいいですか?」 「いいわよ。どうかした?」 「単刀直入にききます。亜紀先輩、和也先輩とつきあってるんですか?」 「えー? まさか! どうして、そんなことをきくの?」 「あたし、和也先輩が好きなんです。それで、亜紀先輩がよく和也先輩といるって、友達が教えてくれて、確かめてみたくなったんです。ごめんなさい」 「和也とわたしは、ただの友達よ。よく話はするけど、おたがい何とも思ってないわよ。わたしはほかに好きな人いるし」 「そうなんですか。すみません、変なこときいちゃって。和也先輩には、もうあたしの気持ちばれちゃってるし、脈がないのもわかってるんですけど、亜紀先輩がいるからなのかなって思って……。亜紀先輩ならいい人だから、それならそれでいいやって思ってたんですけど。ただ、本当のことが知りたかっただけなんです。ごめんなさい」  そう言って、由梨は走りさっていった。  その日から、ときどき亜紀と由梨は話をするようになった。亜紀には由梨の気持ちが痛いほどわかったからだ。 「ただ忘れられないんです。とりつかれたように、頭に和也先輩のことがこびりついて……。もう、どうしていいのかわからないです」由梨は言った。  亜紀にはどうすることもできなかったが、だまって話を聞いていた。大樹を好きなことは話さなかったが、ふたりで傷をなめあっているような気がした。  だれもが、いろいろな思いに耐えているんだな、と亜紀は思った。  ある日、亜紀は和也に言ってみた。 「この前、由梨と話をしたのよ」  それだけで和也は内容を察したのか、ちょっと顔をしかめてこう言った。 「あの子はいい子だけど、何か重いものを感じて苦手なんだ。ぼくを好きだと言ってくれたけど、悪いけど、ぼくはあの子を女の子として好きにはなれない」  優しい和也らしくない、きつい言い方に亜紀は驚いた。  もしかして、わたしも大樹にこんな風に思われているのかな?と亜紀は不安になった。  和也のほうは、少しいらだちながら思っていた。  人の気も知らないで。どうして、そんなことを亜紀がぼくに言うんだ。ぼくが好きなのは亜紀なのに。  十一月なると急に冷えこむようになり、朝は寒くてふとんから出るのがつらいほどだった。亜紀は毎日、ただ遠くから大樹を見つめていた。あいさつをする機会さえめったになくなって、つらかった。そして、告白する決意を固めはじめていた。  冬休みに入っちゃったら、卒業式まで会える日があるかどうかもわからない。受験直前でも迷惑だから、告るなら二学期のうちしかない。いや、やっぱり迷惑かな? それとも、別にあちらはそんなに気にすることじゃないのかも。あー、なんだかまともに考えられなくなってるみたい。恋って、変て字に似てるよね。恋をすると、おかしくなっちゃうからかな? この激情は、愛じゃなくて恋だ。もう、ぐちゃぐちゃ……。はっきりさせたほうがいいんだろうな。でも、言えるかな? そんな勇気だせるんだろうか?  亜紀は勉強しなくちゃと思いながら、気がつくと、うだうだと思い悩んでいた。  それでも、毎日放課後は図書室で勉強した。人がいるところのほうが、気が散らずに集中できたからだ。優香も、だれもいないアパートにもどるのがいやらしく、閉館の五時半まで、よく図書室にいた。閉館後に買い物をして帰って、夕食を作っているようだ。和也だけは、実技の勉強のために、予備校のない日は今も美術室でデッサンやイラストを描いている。一方、大樹はよく教室に残って勉強していた。みんなが帰ったあとの静かな教室がお気に入りのようだ。亜紀はそれを知っていた。  ある日の放課後、いつものように大樹は教室にいた。そして、ほかにはだれもいなかった。亜紀は大きく息をすうと、大樹のいる教室へ入っていった。 「大樹、じゃましてごめんね。ちょっといい?」  心臓が激しく打ち、息が苦しくなってきた。足がふるえる。大樹の近くまでくると、亜紀は大樹をまっすぐ見つめながら、少しかすれた声で、だが、はっきりと言った。 「わたしは、あなたが、ずっと好きだったのです」  大樹は一瞬、驚いた顔をした。それから、ちょっとうつむくと、しばらく考えてから、顔を上げて亜紀を見た。そして、ちょっと早口で答えた。 「ぼくはその気持ちに応えることはできません」 「うん、いいよ。わかった」亜紀はしっかりした声で言った。 「でも、うれしい。うれしいよ」大樹は目をそらしながら言った。 「ほんと? うれしい! ありがと。じゃあ」  亜紀はその場を離れた。  教室を出ると、目に涙がにじんでいるのを感じた。そのまま図書室へ向かった。  優香が図書室にいるはず。  図書室で優香を見つけると、涙があふれてきた。優香はそんな亜紀に気がついた。亜紀の手を引いて、急いで図書室から出た。 「どうしたの?」優香がきいた。  亜紀は優香の肩に顔をのせて泣いた。 「失恋しちゃった」 「えー、どういうこと? どうして、わかったの? 本当にまちがいないの?」 「好きだって、言っちゃったの」 「それで? 何て言われたの?」 「その気持ちに応えることはできないって」 「そう……。そういうときは、泣いたほうがいいわ。思いっきり泣きなさい」  亜紀は優香の胸に顔をうずめ、優香は亜紀の背中をなでた。 「後悔はしてない。これでよかったんだと思う。うれしいって言ってくれたから、それだけでじゅうぶん。その言葉を支えに、自分の目標をかなえるためにがんばっていく。大樹に、がんばったよって誇れる自分になれるように」  亜紀は顔を上げて、涙声で言った。 「うん、うん。亜紀は強いね。今日はもう帰る? いっしょに帰りましょう」 「うん。今日はもう、勉強できそうにない。家に帰って、ごはんを食べて、好きなスイーツでも食べて、ゆっくりお風呂に入って、早く寝ちゃおう。明日から、またがんばる」 「そうね。それがいいわ」  学校の前の田んぼは、稲刈り終わったところだった。刈りとられたあとの田んぼの横を、ふたりは子供みたいに手をつないで、だまって歩いていった。つるべ落としの秋の日はもう西へ傾き、すぐにも地平線の下へ消えていきそうだった。日差しが弱く、すでに薄暗くなりはじめていた。空にはたくさんの雲がかかり、灰色に変わってきていた。  こうして、亜紀の夢のひとつは終わった。もうひとつの夢、大学合格、ユニセフ職員をめざして、前へ進んでいこうと決意した。  秋も深まり、駅前のイチョウ並木もみごとな黄色に変わった。公園のモミジも真っ赤に燃えている。受験生には不安が増す時期だ。センター試験が目の前にせまってきていた。亜紀は変わらず大樹への恋心をかかえていた。忘れることも、あきらめることもできなかった。遠くから姿を見たり、偶然あいさつができたりするだけで幸せだった。だが、冬休みに入ったら、ほとんど会えなくなる。そう思うとつらかった。それでも、はっきりふられた以上、もう何も求めることはできない。じっとこらえて、勉強に集中する努力をした。  十二月になると、小雪がちらつく日もあった。やけに寒い十二月だった。体の芯まで冷えそうな厳しい冬だった。十二月初めには期末試験があった。受験校に提出する内申書が、どの程度、合否に影響するのかはわからないが、念のために、学校の成績もある程度は維持しておかなければならない。それに、受験科目に入っているものは、学校の試験勉強も受験に役だつ。寒さに耐えながら、なんとか期末試験も乗りきった。  模擬試験も毎月のようにあるし、なんだか試験ばかりだな、と亜紀は思っていた。  冬の学校の廊下は暖房がきいていなくて、とても寒い。それなのに、亜紀はときどき廊下に出て、となりの教室をそっとのぞいた。  そんな亜紀が気になって、和也はときどき、さりげなく声をかけていた。たいていひとりでいる亜紀を元気づけたかったからだ。和也が話しかけると、亜紀は明るく返事をした。和也と優香のおかげで、亜紀はつらい日々を耐えていけた。そして、十二月二十五日、二学期の終業式をむかえた。終業式が終わって、みんなが帰るころ、亜紀は廊下にいた。大樹にあいさつだけでもしたかったのだ。すると、大樹は和也といっしょに帰るところだった。ふたりが前を通りすぎるとき、亜紀はふたりにあいさつをした。 「さようなら」 「さようなら。今日は和也の家へ行くんだ。途中でラーメンを食べて、ケーキを買って、和也とクリスマスをする。そのあとは、いっしょに勉強する予定」大樹が亜紀に教えてくれた。 「さようなら。いいクリスマスと新年を」和也が言った。 「クリスマスまで学校があるんだものね。ふたりも、いいクリスマスと新年を」亜紀はふたりに言った。  大樹たちが行ってしまうと、亜紀はさびしくて、ひとりで帰る気になれず、いつものように図書室に残ることにした。  大樹と和也はラーメン屋に寄ったあと、和也の家へ行って、コーヒーを飲みながらケーキを食べていた。  すると、大樹が思いだしたように言った。 「実はおれ、亜紀に告白されちゃったんだ。うすうす亜紀の気持ちに気がついてはいたけど、まさか告白されるとは思っていなかったよ」  和也は顔にださないようにしたが、ショックを受けていた。そして、やはり亜紀は大樹が好きだったのかと知って、胸が苦しくなった。 「それで、なんて答えたの?」和也は少しかすれた声できいた。 「亜紀の気持ちに応えることはできないって、はっきり言った。亜紀はがんばり屋で、いい子だと思うけど、そういう対象には見られない。おれは、もっとひかえめで優しい子が好きだな。女の子のほうから告白するタイプはちょっと……」 「でも、それが亜紀なんだよ。思ったことをはっきり言えるところが、亜紀のいいところでもあるんじゃないかな」 「そうかもしれない。でも、部活の仲間としては好感が持てるけど、女の子として好きにはなれないな。いじらしくて、気持ちに応えてやりたいとも思うけど、亜紀の真剣な気持ちを、いいかげんにあつかうことはできないし、それに、おれにはほかに好きな女の子がいる。和也は好きな子いないのか?」 「うん、今は特に……」  和也はうそをついた。大樹からこんな話を聞いたあとに、亜紀が好きだとは言えなかった。そしてたぶん、もう亜紀にも言えないだろう……。  冬休みに入り、大樹と亜紀は大晦日も元旦も勉強した。勉強に集中できない時期があったので、もう、あとがないという気持ちだった。一方、和也と優香は平和な正月をすごしていた。優香の家は質素な正月料理しか準備できなかったが、母親とふたりきりのお正月を、平和で幸せだと感じていた。和也の家は、家族三人で静かに新年をむかえた。元旦のおせち料理を食べたあと、和也の合格祈願に三人そろって近所の神社へお参りに行った  寒さがいっそう厳しくなる一月、ついにセンター試験の日がきた。深夜から降りはじめた雪が、十センチ以上積もっていた。朝、がんばって早起きをして、早めに家を出た。ネットで調べると、列車は動いてはいるが、徐行運転だということだ。かなり遅れているようだ。ビシャビシャの雪の中、すべらないように長靴でゆっくり歩いた。案の定、駅にはたくさんの人があふれていた。本数を減らしている上に徐行運転なので、次の列車がいつくるかわからないようだ。普通なら、試験会場のある駅まで列車で約二十分、駅からは徒歩十分くらいだが、念のため、試験開始の三時間近くも前に家を出ていた。列車は二十分ほど待っただけできた。ほっとして乗りこんだが、ぎゅうぎゅうづめだった。しかも、少し進むと止まってしまい、動きだしても、ひどいノロノロ運転だった。途中でかなり長く停車した。前の列車がつまっているため、進めないとのことだ。時間は刻々と過ぎていく。亜紀は不安になってきた。それに、ずっと立っているので、疲れてきた。もう、四十分は乗っている。  まだ動かないんだろうか? 間にあうかな?  ようやく動きだしたが、歩くのと同じくらいの速度だ。亜紀は落ちつかなかった。心の中で、早く早くとさけんでいた。だが、そんな亜紀の気持ちとは裏腹に、列車はノロノロとしか進まず、少し動いては止まった。試験開始まで、あと一時間しかない。それなのに、目的の駅の直前で、またかなり長いあいだ停車した。  早く動いて!  イライラしながら、列車が動きだすのを待っていた。あと四十分しかない。亜紀はあせった。  間にあうんだろうか? 列車から出ることもできないし……。どうしよう? でも、こういう日は、遅れても試験は受けられるよね? とにかく行ってみよう。  やっと列車が動きだし、ようやく試験会場のある駅についた。多くの人におされながら列車から降り、足元に気をつけながら試験会場へ急いだ。どこから雪が入ったのか、足がびしょぬれになっていた。それでも、なんとか試験開始十分前に到着した。  ところが、玄関に入ると立て看板があり、試験開始が九十分くりさげられると書いてあった。なんだか力がぬけて、どっと疲れが出てきた。それでも、受験する教室を確かめて、中へ入って席についた、ほっとしたが、足がぬれていて冷たかった。  落ちつこう。ノートを読みなおしたり、英単語を覚えたりできる。とにかく間にあったんだから、ラッキーよ。大樹も和也も別の会場で試験を受けるはず。だいじょうぶだったかな? 優香も今月、専門学校の試験があるって言ってたっけ。もう、終わったのかな? これからかな? 今日じゃないよね?  長く待つのは、精神的にも肉体的にもきつかった。朝がものすごく早かったので、疲れて眠くなってきた。  それでも、心を落ちつけて試験に集中した。世界史はわりとできた気がする。得意の英語がいまいちだった。特に、リスニングに集中できなかった。でも初日の結果は気にしないようにした。気持ちを切りかえて、翌日にそなえた。  二日目は、トラブルもなく試験は終了した。だが、どの程度できたのか、自分ではよくわからない。自信が持てなかった問題ばかり覚えている。  明日は自己採点日で、登校する生徒が多い。大樹もくるだろうか? 話ができるといいな。  翌日、学校で自己採点が終わると、和也が亜紀に話しかけてきた。 「おとといは雪で大変だったけど、だいじょうぶだった?」 「まあ、なんとか。試験開始がくりさがったから、待ちつかれちゃったけど、思ったほど悪くなかった。たぶん、だいじょうぶだと思う。和也は?」 「うん。一次はなんとか通ると思う。でも、倍率がすごいから、二次は厳しいかもね。ただ、センター利用で地元の私大は合格できそうだよ」 「へえ、すごい! とりあえず、ひと安心ね。おたがい、二次もがんばろうね! 大樹はどうだったのかな?」 「ふたりでききに行ってみる?」 「うん、行こう!」  となりのクラスへ和也といっしょに入っていった。和也が大樹に声をかけた。 「大樹、どうだった?」 「うーん、ぎりぎりだった。東京の大学のほうは得点率八割以上必要だから、微妙だな。今年のレベルが上がっていると、危ないかも。地元の大学は、後期日程でも七割だから、だいじょうぶだけど。とにかく、二次試験に向けて全力でがんばるしかないな」 「そうか。ぼくも二次試験は厳しいけど、おたがいがんばろう」 「わたしもセンターの得点はぎりぎりだった。同じく、八割以上必要なんだ。でも、あきらめずにがんばろう! みんな同じ日に試験だね。受験会場はばらばらだけど、みんなががんばっていると思うと、はげまされそう」 「そうだな。今度会うのは三月一日の卒業式か。試験結果は卒業式のあとだな。みんな合格できるといいんだけど」大樹が言った。 「いやじゃなかったら、結果教えてね」亜紀はたのんだ。  一方優香は、センター試験の数日前に看護学校の試験を受けていた。そして、一月末に発表があった。  亜紀のもとに優香からメールが届いた  やった! 第一志望の看護専門学校に合格した。亜紀も二次がんばってね。  亜紀はすぐに返信した。 「おめでとう! わたしもがんばる!」  亜紀はすべりどめの大学を受験していなかった。希望の学部がある私立大学は家から遠い上に、地元の国立大学ほど行きたいと思える大学がなかったからだ。国立に落ちたら浪人するつもりだった。だが、来年はすべりどめの大学もいくつか受験しなければならなくなるだろう。何としても今年合格したい。ラインで確認すると、大樹も和也も無事、二次試験の受験票が届き、二次試験受験資格は獲得したとのことだ。そして、あっという間に二月末になり、国立の二次試験の日がきた。  大樹は受験会場が遠いので、前日は近くのビジネスホテルに泊まった。なれない場所なのと緊張で、あまり眠れなかった。それでも、翌日は早めに起きて、ゆっくり準備をして、何度も持ち物を確認して会場へ向かった。  S大学の最寄り駅は東京郊外の新しい駅で、駅ビルもあり、駅の外にもいろいろな店が並んでいる。きれいで便利な場所だと思った。遠くには山並みも見えるし、緑も多い。  四年間、ここに住むことになるかもしれないんだな。暮らしやすそうな町だ。  大樹は受験会場へ向かいながら思った。  前の晩、あまり眠れなかったが、席につくと、深呼吸をして精神統一をした。  何も考えず、試験だけに集中しよう。  そして、集中して受験にのぞむことができた。  亜紀も早めに会場について、試験に集中しようとしていた。だが、緊張しすぎたのか、具合が悪かった。胃が痛くてたまらない。一時間目が終わるとすぐに、廊下へ出てスタッフに声をかけた。この大学の学生らしい若い女の人が立っていた。腕に大学の入試スタッフであることを示す腕章をつけている。 「すみません。お腹が痛いんですが、医務室はどこですか?」 「あら、大変。がんばりすぎちゃったのかしら? 緊張すると、お腹が痛くなったりもするわよね。薬を飲めばだいじょうぶよ。医務室はこっちよ」  その人は親切に、医務室まで案内してくれた。  医務室の女の先生が、粉薬を手渡してくれた。 「水を先に口に入れて、その水の中へ薬を落とすと苦くないわよ。よく効く薬よ」と教えてくれた。  そのあと、バタバタと教室へもどった。本当によく効く薬で、不思議なくらいすぐに痛みが消えた。親切なスタッフと医務室の先生のおかげで、心があたたまり、落ちついて残りの科目を受験することができた。  この大学へ通えることになったら、あの女の人を探してお礼を言おう。あなたのおかげで合格できましたって。  試験が終わって、ほっとして家路についた。まあまあのできだと自分では思うのだが、結果が出るまでは不安でたまらない。結果発表は十日後だ。国公立は、どうして発表までこんなに時間がかかるのだろう? 私立はすぐに発表があるのに。  同じころ、和也も実技の試験を受けていた。デッサンとカラーイラストだ。自分としては全力をつくせたし、それなりのできだと思った。春から予備校で正式に勉強もしたし、自信もつけていた。だが、ほかの受験生の絵を見ると、その自信が音をたててくずれていくのを感じた。  やっぱり、実力のあるやつはたくさんいるんだな。この程度じゃだめなのかもしれない。  帰り道、不安な気持ちでいっぱいだった。  こうして、大樹も亜紀も和也も無事に試験を終えた。だが、みんな結果が心配でたまらなかった。  それでも、大学の結果が出る前に卒業式がある。亜紀は大樹に会えるうれしさと、これが最後かもしれないという切なさで、胸がいっぱいだった。  三月一日の卒業式、卒業生は胸に花をつけて、二列に並んで体育館に入場した。在校生や先生、卒業生の父母たちが拍手をしてむかえてくれた。各担任が卒業生の名前を順番に呼び、卒業生はひとりずつ壇上に上がって、校長先生から卒業証書を受けとった。送辞・答辞や、国歌・校歌斉唱などがあった。そして、式は滞りなく終了した。  また二列になって体育館を出るとき、上から在校生が紙吹雪を降らせてくれていた。はらはらと舞いおちる紙吹雪は、桜の花びらのようにきれいだった。  卒業生たちは教室にもどった。最後のホームルームがある。五組の担任は世界史の男性教師だ。教室に入ってきて、みんなにお祝いの言葉をのべた。 「みんな卒業おめでとう。この高校の卒業生であることに誇りを持って、これからも元気でがんばってくれ。今後のみんなの活躍を祈っている。なお、今、体育館のあとかたづけをしているが、そのあと、体育館で簡単な卒業祝いパーティが開かれる。参加は自由だが、全員、とりあえず顔だけでもだしてくれ。今、準備をしているので、もうしばらく教室で待機するように。準備ができたら、放送が入るから」  そこへ、美術部の後輩たちが、全員そろって教室までお祝いにきてくれた。部長の竹内悠人と副部長の長谷川由梨が前に出て、お祝いの言葉をのべてくれた。 「おめでとうございます。これ、部員みんなからのお祝いです。受けとってください」由梨が和也に白いチューリップを渡した。 「おめでとうございます。今後のご活躍をお祈りしています」悠人が亜紀に赤いチューリップをくれた。 「ありがとう。わざわざ教室まできてくれて」亜紀はお礼を言った。 「ありがとう。うれしいよ」和也もお礼を言った。 「四組と五組に行けばいいだけだから、だいじょうぶですよ」  後輩たちはそう言って、となりの教室へ向かっていった。由梨と悠人は、途中でちらりとこちらをふりかえっていた。  チューリップは亜紀が大好きな花だ。それなのに、かわいい花を見ると、なぜか悲しみが増した。  しばらくすると、パーティの準備が整ったので、卒業生は体育館にくるようにという放送が入った。クラス全員、また体育館へもどっていった。三年生や先生方が一堂に会しての立食パーティだ。ジュースとウーロン茶にお菓子やサンドイッチが用意されている。 「優香、久しぶり! 合格おめでとう!」亜紀が優香に声をかけた。 「ありがとう。亜紀の合格発表はこれからね。合格を祈っているわ」優香が答えた。  大樹と和也がいっしょにいるのを見つけたので、亜紀と優香は二人のところへ行って、声をかけた。 「大樹、和也、ふたりの合格を祈っているね」亜紀と優香が言った。 「ありがとう。亜紀の合格も祈っているよ」大樹と和也も言った。  優香と和也は、ほかの友だちのところへ移動していった。 「渡すものがあるから、ちょっときて」大樹が亜紀に言って、体育館を出た。  亜紀は大樹のあとをついていった。四組の教室へ入っていく。そして、後輩からもらった白いチューリップがおいてある自分の机から、何かをとりだした。 「これ」と言って、亜紀にさしだした。書店のカバーがついた文庫本だ。  実は、亜紀は数日前にラインで大樹にお願い事をしていた。 「ずうずうしいお願いだけど、大樹が読んだことがある本を何かもらえないでしょうか? あと、できれば写真を一枚ほしいです」と。大樹の本を持っていたら、大樹に会えないさびしさを、少しはまぎらわせるかもしれないと思ったのだ。  本を開いてみると、『ゲーテ詩集』だった。  へえ、意外。詩集も読むんだ、と亜紀は思った。  そして、表紙の裏に山村大樹と大樹の字で名前が書かれており、さらに、スナップ写真が一枚はさまっていた。教室の席にすわっている大樹の写真だ。  うれしかった。亜紀は大樹にお礼を言った。 「ありがとう。うれしい」 「ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が好きだから、詩集も読んでみたんだ。亜紀がいつも詩集を読んでいたから、その影響もある。写真は、教室で友だちがふざけて撮ったものだけど、もらったデーターを家のパソコンで印刷してみた。それでいい?」 「もちろん! うれしいわ。ありがとう。ちょっと待ってね。わたしも渡したいものがあるから」  亜紀も大樹にあげたい本を持ってきていた。急いでとなりの教室へ本をとりにいった。亜紀の大好きな、アンデルセンの『絵のない絵本』だ。中には、四つ葉のクローバーを押し花にして作ったしおりがはさんである。幸せになりたくて、以前、家の庭で一時間かけて探したものだ。でも、大樹にあげたかったのだ。  それを大樹に手渡すと、「さようなら」と言って、亜紀は背を向けた。つらかった。あえて、ふりむかずに去った。 「ごめんね」後ろから大樹の声が聞こえた。  ごめんね、なんて言ってほしくない。でも、これが最後かもしれないんだな。高校生最後の日なんだ。姿を見られるだけで幸せだったけど、もう会えないのかもしれない……。  亜紀は祝賀パーティにもどる気にはなれず、教室においてあるカバンを持って、ひとりで足早に駅へ向かった。優香と和也には「悪いけど先に帰る」とメールを送った。  つらくて胸が苦しかった。胃が痛くて、ひとりになりたかった。家にもどると、具合が悪いと言って、食事もせずに部屋にこもった。その日、亜紀は一度も空を見なかった。  亜紀は一晩中、泣きつづけた。朝まで涙がほおをぬらしていた。大樹に会えない日々に、生きている意味を見いだせなかった。もう、生きていたくなかった。ただ、苦しかった。  それでも、外が明るくなってきたころ、亜紀は気持ちを新たにしていた。涙とともに、何かが流れおちたみたいだった。一晩中苦しみぬいて、生きる意味を求めているうちに、何かを悟った気がする。  自分の命でも、自分の好きにしていいものではないのかもしれない。ここに存在していることには何か意味があって、理由があるから、何かできることがあるから、生かされているんだ。  どんなにつらくても、生きている以上しなくてはならないことがある。亜紀は自分のめざす道を全力で進むことした。今は、それが亜紀の義務だと思った。  そして、合格発表の日の朝、ドキドキしながら結果を見にいった。  自分の受験票を見なおし、学部をまちがえないようによく確かめてから、合格者の番号が書かれた掲示板を見た。  ある? ない?……えーと、もう少し先……あ! あった! まちがえていないよね?  亜紀はもう一度、自分の受験票の受験番号を見た。  合格した……。  亜紀は力がぬけた。へなへなとその場にすわりこみ、それから、ゆっくり立ちあがった。  電話しなきゃ。  家に電話をかけた。 「おかあさん、合格した!」 「よかったね。本当によかった」母は涙声になっていた。  亜紀も目に涙があふれてくるのを感じた。うれしかった、ありがたかった。父と母の協力があったからこその合格だ。亜紀は今まで、親に感謝したことなどなかった。初めて、親にどれほど苦労をかけてきたかに気がついた。 「じゃあ、今から帰るね」  亜紀は大樹と和也と優香に、合格を知らせる一斉メールを送った。  和也からはすぐに返事がきた。 「おめでとう。ぼくのほうは、発表は五日後なんだ。実技の採点は時間がかかるからかな? 亜紀の輝かしい未来を信じているよ」  大樹から返事がきたのは、家につくころだった。 「おめでとう。おれのほうは明日発表。また連絡する」  そうか。国公立は、試験日は同じでも、発表はばらばらなんだな。どうしてだろう? ふたりとも合格できるといいな。  大樹が東京の大学へ行けることを、今は心から願えるようになっていた。  優香からは、お昼過ぎに返事がきた。 「バイト中だったので、返事が遅くなってごめんね。おめでとう! よかった。さすが亜紀だね。今度、ふたりでお祝いしましょう」  翌日の夕方、大樹と和也からメールがきた。  大樹からは「やった! 合格。おたがい、大学でもがんばろう」  和也からは「センター利用で第二志望の大学は合格できたよ。ひと安心。芸大は難しいだろうな。また報告するね」  亜紀はふたりに「おめでとう」のメールを送った。  大樹は東京へ行くんだな。よかった、と思うと同時に、やはり少しさびしかった。  数日後、和也からメールで報告があった。 「芸大はだめだった。決意したのが遅かったからな。でも、地元の大学で勉強できるのが楽しみ」  そのさらに数日後、大樹から三人へ一斉メールがきた。 「あさって朝十時ちょうどの特別快速列車で東京へ行く」  そのあと和也から電話があった。 「大樹からのメール見た? 見送りに行かない? 荷物は前日に単身引越サービスで送るんだって。家族とは家でお別れするらしいけど、ぼくたちは駅へ見送りに行きたいって言っておいたよ。九時半に特別快速が出る駅のホームに集合しよう。大樹も早めにきてくれるって」 「うん、もちろん行くよ。九時半にはホームにいるようにするね。優香にもきいておく。連絡ありがとう」  優香にメールを送ると、行くと返事をくれた。  翌日、大樹に会える喜びと、別れの悲しみの複雑な思いをかかえて、亜紀は大樹の列車が出る駅へ向かった。かなり早めについた。しばらく待つと、優香と和也もついた。そして大樹もきて、四人は再会した。 「みんな、進路決定おめでとう」亜紀は明るく言った。 「亜紀もおめでとう。久しぶりね」優香がうれしそうに言った。  和也と大樹も、亜紀に笑顔を見せてくれた。 「大樹の旅立ちだね。明るい未来を信じているよ。夏休みには、またみんなで会おう」和也が言った。 「元気でね。おたがい大学でもがんばろう。忙しいと思うけど、夏休みには、大樹の都合がつくときに、みんなで会いたいな。いつでも東京へ行くわよ」と亜紀。 「そうだね。夏に東京で会おうよ」と和也。 「そうね。それまで、体に気をつけて、無理しすぎないようにね」と優香。 「みんな、見送りにきてくれてありがとう。きっと、がんばって卒業してみせるよ」  やがて、列車がホームに入ってきた。出発まであと十分ほどだ。そのとき、大樹が優香の両肩を後ろへおして、ふたりで少し離れた場所へ行った。見ると、優香の肩に手をのせたまま、大樹が優香に何かを言っている。優香は首をふって、断っているようだ。内容は想像できた。  ああ、やっぱり大樹は優香が好きだったんだな。そういえば、そう思わせることがたくさんあったのに、深く考えないようにしていた。認めたくなかったから……。無意識のうちに受けながしていたんだ。  ふと気がつくと、和也が心配そうにこちらを見ていた。  亜紀は和也に、にっこり笑ってみせた。  和也は、わたしが大樹を好きなこと知ってたんだ、と直感した。  大樹は優香の肩から手を放してもどってくると、ふたりに頭をさげて、列車に乗りこんだ。  優香が亜紀のところにきて言った。 「ごめんね。あたしは大樹のこと、何とも思っていないから、気にしないで」 「だいじょうぶよ。もう、平気なの。でも、大樹の恋も実らないんだね。世の中うまくいかないな。人の気持ちって難しい」亜紀が言った。 「本当だね」和也がしみじみと同意した。  亜紀は、不思議とそれほどショックではなかった。もう、事実を冷静に受けとめられるようになっていたのだ。大樹を好きな気持ちは変わらないけれど、報われない想いをただかかえていこうと決めていた。  大樹は座席にすわると、窓から三人に手をふった。だがそのあとは、もうあまり三人のほうを見なかった。何かを決意したように、まっすぐ前を向いたままだ。  ついに、列車が動きだした。大樹はもう一度みんなに手をふった。  亜紀の目に涙がにじんできた。  また、会えるといいな。  大樹はひとりになると、これからの生活への覚悟を決めた。  優香、亜紀、和也、ありがとう。しばらくお別れだな。さあ、いよいよだ。これからは、自分だけが頼りだ。きっと、やりぬいてみせる。  大樹の乗った列車が行ってしまうと、和也が小さな声で言った。 「行っちゃったね。ぼくたちも、しばらくお別れだね」  みんな家まで列車で帰るのだが、和也だけ反対方向だった。和也の乗る列車が先にきた。 「元気で。またね」亜紀と優香が言って、手をふった。 「うん。夏休みに会おうね。また連絡する」  そう言うと、和也は列車に乗った。そして、立ったままふたりに手をふった。見えなくなるまで、ずっとふたりのほうを向いていた。ふたりの姿が見えなくなると、和也は座席にすわった。  ぼくはだめだな。最後まで、亜紀に自分の気持ちを言えなかった。でも、進路は自分で選んだんだ。  それからすぐに、亜紀と優香が乗る列車がきた。ふたりで列車に乗ったが、もう次が優香の降りる駅だ。 「じゃあ、またね」 「うん。また会おうね」  優香は列車から降りて、プラットホームを歩きながら思った。  がんばろう。絶対、看護師になってみせるわ。負けるものか。  ひとり残された亜紀は、不安と孤独の中で決意していた。  夢はかなえるためにある。これからが勝負よ。  新しい人生が始まる。自分の足で一歩一歩進んでいこう。  四人は、ほぼ同時に思っていた。
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