小雪

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小雪

 女が生まれたとき、産婆が「雪みたいに白い、ってこんなのを言うんだろうね」と感じ入ったように言うのを聞いて、母親のひさは赤ん坊を小雪と名づけた。小雪が生まれたとき、父親の庄五郎は薬を商って旅の空にあった。  小雪は色白のうえに鼻筋が通り、目もとがくっきりと涼しく整い、とりすましていると大人びてみえたが、たいがい愛くるしい笑顔をふりまいて、近隣の者たちにも可愛がられた。  ひさはつねづね、「おまえは色が白いだけで随分得をしているよ」、と言った。「色の白いは七難隠す、っていうからね。」  小雪には五つばかり歳の離れた弥一という兄がいた。弥一は生まれつき舌の根っこが口蓋とくっついていて、うまく喋れず、ほとんど物を言わないが、一旦怒りを発すると誰も止めることができないほど荒れ狂うので、ひさでさえ薄気味悪く思うことがあったが、弥一も小雪のことは可愛がった。  小雪はいつも弥一のあとについて回り、弥一もそんな小雪の面倒をよくみてやった。「弥一、えらいじゃないか」と村人がからかうと、弥一は横向いて返事もせずにペッと地面に唾を吐き、小雪の手を強引に引っ張るようにして立ち去るのだった。  小雪が十五、六の年頃になると、道をただ歩いていても、すれ違う男たちがきまって声をかけたり振り返ったりするようになった。男たちは熱い視線を注ぎ、女たちは羨望と嫉妬の眼差しを向けた。  ときにはチンピラにしつこく付きまとわれることもあった。そんなときは、不思議に弥一がどこからともなく現われ、無類の腕力に物を言わせて、相手がぐうの音も出なくなるほど痛めつけた。相手が死んでしまうのではないかと恐れた小雪がしがみついてやめさせるまで、弥一は相手を許さなかった。  そのころには、弥一はいっぱしのワルとして近隣の村々にまで名を知られた。毎晩どこかへ出かけては、朝方酒臭い身体を引きずるようにして帰ってきた。そんなとき、表の戸を開けようともしないひさに代わって、小雪が戸をあけてやり、布団をひいて兄を寝かせてやった。弥一の体のあちこちにはときに喧嘩の傷跡があり、ときに女の肌の匂いがした。  そんな弥一が、あるとき不意に家を出て行った。  或る春の夜のことだった。小雪が、いつものように正体もなく酔った弥一をようやく家の中へ引きずりこんで、ほっとしたとき、ゆらりと身を起こした弥一に抱きすくめられた。思わず身を硬くした次の瞬間、今度は突き放された。  「こんなになるまで飲むなんて・・・」と小雪が言いながら見ると、弥一は倒れこんだまま低い鼾をかいて眠っていた。  弥一が出て行ったのはその翌朝だった。そのときは、小雪もひさも、またいつものように夜更けか明け方には戻ってくるだろうと思っていたが、弥一はその日を境に、帰ってこなかった。  一年たち、二年たっても、弥一は帰ってこなかった。風のたよりに、弥一が遠い港町でやくざ者になっているらしい、という噂が聞こえてきた。  弥一が出て行って三年目に庄五郎が旅先で病に倒れ、そのまま急逝したとの知らせが届いた。  庄五郎が亡くなるまでは、それなりに平穏で幸せだった小雪の周囲が、急にあわただしくなった。近隣の有力者たちが、小雪をほしがったのだ。連れ合いをなくした男たちは後妻に、そうでないものは妾にと、けっこうな財産をちらつかせながら近づいた。仲介を頼まれて、村の長たちが何度もそんな話を持ち込んできた。  父親も亡くなり、兄が行方知れずでは、母親の面倒をみるのはおまえしかなかろう、と彼らは小雪を口説いた。小雪は一度も首を縦には振らなかった。村の長たちの家々の手伝いをして細々と生計を立てた。  そうしてまた一年、二年と過ぎたところで、今度はひさが流行り病で亡くなった。独りになった小雪には以前にも増して、男たちの熱心な求婚話や身請け話の類が持ち込まれたが、相変わらず小雪はそのどれに対しても色よい返事をすることはなかった。  男たちは小雪のせっかくの器量が、このまま朽ちていくのを惜しんだ。しかし小雪にはそんなことはどうでもよかった。どこかに兄が生きていると思うだけで、自分がこの世でひとりぼっちだとも思わなかった。男に頼る気持ちにはなれなかった。  その弥一が出て行って5年目の或る春もまだ浅い日のこと、小雪は珍しく朝から体がひどく熱っぽく、仕事を休んでうつらうつら病の床に伏していた。終日人の訪れもなく、食事をとるのも大儀で、水ばかり飲んで喉を潤した。井戸の水をくみに出ると、外は体が浮き上がりそうなほど強い風が吹いて、無数の花びらが吹雪のように宙を舞っていた。  夜半になると雨が降り出し、風が一層強まって、嵐の様相を呈してきた。夜更けに低く戸をたたく者があるので、重い身体を起こして出てみると、蓑傘を纏った弥一が人目をはばかるように、嵐を背にひっそりと立っていた。下から灯りに照らし出された弥一の顔は血と汗と泥にまみれて幽鬼のようだった。  「人を殺してきた」  弥一はぼそっとそう言った。  小雪は慌てて兄を中へ入れた。火を起こして冷えた兄の身体を温め、傷の手当てをした。かゆを炊いて食べさせると、弥一はようやくホッと息をついた。  「金はあるか」  一も二もなく、小雪は隠し戸棚から、小働きをして細々と貯めた有り金を全部取り出して兄の手に渡した。弥一は拝むようにして巾着を受け取ると懐へ入れ、小雪の目をみて、初めてにっこりと笑った。  小雪はその夜、夢の中で男に抱かれた。男は兄のようでもあった。夢の中で、小雪は一糸纏わぬ姿で、花の褥に横たわっていた。なおも降り注ぐ花びらはジュッと音を立てるように痛みを伴って白い肌に貼りつき、そのまま肌に焼きついて、淡い紅を浮き上がらせていく。  次第に募る痛みに耐えかねて、小雪は呻きを漏らした。無数の花びらが渦を巻いて舞い上がり、白い肌にまつわりついてくる。  龍に抱かれている  小雪はそう思った。  龍が四肢に絡みつき、花の鱗をきらめかせながら、ゆるやかに肌の上をすべっていく。龍の熱い胴がしなやかに撓んで柔らかな肌をしめつけ、小雪は息苦しさに激しく喘いだ。遠のいていく意識の間に間に、小雪は龍が体の中へ入ってきて、内側から自分の身と一つになるのを感じた。  目覚めると、傍らに兄の姿はなかった。それどころか、兄のために敷いた布団も、傷の手当てをしたはずの薬箱も、粥を炊いて食べさせた痕跡も、なにひとつ無かった。そして、兄に渡したはずの金は、ちゃんともとのところにあった。小雪は狐につままれたような気がして、すべては熱病のせいであったのかと思った。  その後、半年ほどたってから、人づてに、弥一がちょうどあの春の嵐の吹きすさんだ夕べ、やくざの出入りで切り殺されたと知った。                             (了)  
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