こんな純愛もあるんだよ

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こんな純愛もあるんだよ

 待ち合わせはコーヒーテラス。いつものテーブルに、美緒は先についていた。はじめて見る、焦げ茶色の大きめなレンズのサングラスを着けていた。それは冬の季節に、あきらかに不釣り合いだ。  それでも彼女の抜けるような白い肌と、ほっそりした顔のラインと上品な色合いの口紅には似合いすぎるほど似合っている。  会いたかった存在はテーブルに置いたスマートフォンを指先で弄びながらも、なにかを真剣に調べているように見えた。  そちらに近寄りながら、黙って右手を振った。  いつもなら、彼女はすぐに気がついてくれる。だけど、今日の美緒は違った。他人を寄せ付けてたまるか、とでもいった空気が漂っている。  できるだけ静かに声を掛けた。 「お待たせ」  美緒は軽くはじかれたように、こちらの声に反応して顔を上げる。ほんのわずか、カシス色の唇がふるえた。けれども、すぐに艶やかな笑顔を浮かべたことがわかる。  顔の半分を隠すようなサングラスを着けていたとしても、彼女の表情が伝わってくるのは付き合いが長いせいだろう。 「お久しぶり」  美緒は明るく手を振った。  ぼくは彼女の正面に座り、すぐにアイスコーヒーを頼んだ。美緒は、ふうっと息をついて大袈裟に肩をすくめる。 「孝典と会うときって、必ずと言っていいほど良くないことに遭遇するのよね」 「なんだそれ」  できるだけ鷹揚に受け止める。美緒がそんな物言いをするのは、内心の動揺を隠したくてたまらないとき。長年の付き合いだもの、それくらいは即座にわかる。  けれども彼女は、そんなこと露ほども気がついていないようだ。いつも、どこかで片肘を張っている人――いつしかぼくは、そんな美緒が気がかりで仕方なくなっていた。 「どうでもいいけど、ぼくと会うときくらいはサングラスを外してくれないか。これから、きみを買うみたいで気が引ける」 「わたしの体じゃなくても時間を買うことには、変わりがないでしょう? たった今から、明日の朝九時まで」  生意気な物言いが出来るのは、会話相手に甘えているからだ。だから、ぼくは怯まない。 「なかなか会えないから、ちょっとした荒業(あらわざ)を使っただけじゃん」 「オーナー経由で、わたしを拘束するだけじゃないの」 「あの人とも親しいからね。でも、この遣り方を使ったのは今回がはじめてなんだぜ? 知っているだろう?」 「ええ」  つぶやくように言った相手が、サングラスを外す。どことなく、目とまぶたの隅が赤く染まっているような。それさえも上手に引いたアイラインで目元のアクセントにしてしまっているような。  ぼくは美緒を覗き込む。 「なにがあった、美緒。言ってみな」 「なんにも」 「うそつき」 「好きに言えばいいわ」  ぷいっと横を向いた顔が、不意に幼く見えてくる。  美緒は顔を背けたまま、言った。 「孝典とは、仕事が仕事ではなくなってしまう。だから嫌い」 「ぼくのことが嫌い?」 「そういう問題じゃない」  不愛想で端的な言葉を返す彼女は、こちらを見てくれようとはしない。 「ぼくたち、そこまでビジネスライクな関係だったっけ」  わざと、しょんぼりした口調で応える。真向いにいる彼女の呼吸が乱れた。  ぼくの胸の奥、よみがえってくるのは二人が出会った日のことだ。  ――七年前、梅雨の頃だ。  当時は失業中で、毎日がイライラすることの連続だった。長く勤めていた会社が倒産をして丸二年が経っていた。求職活動をしても上手く行かず、いつしかスロットに興じるようになっていた。  どこにいても誰ひとりとして、ぼくのことを必要としていない。ぼくは、この世に必要とされていない。誰からも理解も共感もしてもらえない。渇ききった身も心も、スロット台の前に座ると癒された。  フロア中に入り混じって、大きく響き渡る音の数々。悔しさを隠そうともしない声があれば、わざとらしく歓声を上げるヤツもいる。じゃらじゃらと流れるようなコインの渦。むせる寸前にたちこめた煙草の匂い。素知らぬ顔で巡回する制服姿の店員たち。台を替える無口な老人。台下を蹴りつける眉毛のない男。唇をゆがめて顔を上げ、両替機に一万円札を突っ込む女たち。  ここならば周りのことなど一切構わずにいられる。本気で、そう考えていた。誰が誰を必要としていなくても構わない場所だと思った。ここならば自分のことだけ、眼前のスロ台が、思い通りに動いてくれることだけ考えていればいい。  正直言って勝ちも負けも、どうでもよかった。一日のうちの大半の時間を、金が続く限りスロット台に噛り付くようになるまでに、それほどの日々は費やしていない。  いつのまにかスロで稼いだ日銭で、生活がまわるようにもなっていた。そんな、ある夜。  朝からパチ屋にいた、あの日だ。  なぜかツイていて、昨日の負けを取り戻せるかと思いはじめた時だ。  館内に男の声でアナウンスがあった。 「男性用のトイレで事故がありました。お客さま方には申し訳ありませんが、警察の取り調べにご協力ください」  周りには舌打ちの音や、諦めたようなつぶやきが満ちはじめる。 「首吊りだろ、この前も隣のスロ屋であったぞ」 「首吊りぃ? ……迷惑なヤツ」 「死ぬなら独りで死ねよ、バカ」 「ポリなんか来たら帰れねーぞ、おい」  不満一杯のざわめきがホール中に響く。ここにいる誰もが、これから先の何時間かは帰れなくなることを半ばあきらめている。振り返ればコインや出玉を(さつ)ふだに変えるカウンターに、警官が二人いた。  ギャンブルに興ずる気持ちが一気に失せる。  だけど簡単には帰れない。それが気持ちを苛立たせる。  せっかく開店と同時、ドル箱を足元に何段も積み重ねていたのにカウンターに行くこともできない。結局、ぼくが警官から解放されたのは夜の十時だった。  ますます苛々した気分で自宅に帰り、ドアを開けて呟いた。 「誰かに電話しよう」  アドレス帳を開くと、我ながら汚い字で乱雑に書いてある。  いやになるほど全ページが、名前も住所も電話番号も判別出来ない状態だ。  それを眺めていたら、やり場のない怒りが高まり、更にムカついて行った。しかも、ほとんどの友人とは付き合いが途絶えている。  ぼくには話を聞いてくれるヤツもいないのか。  なかば捨て鉢な気分になっていた時に、見慣れない名前を見つける。  ――木村美緒。  こんな名前の知り合い、いた?   散々考えてみたが、心あたりがない。だが書きつけられた文字は紛れもなく、ぼく自身のものだ。  誰だろう?   少し迷ったけれども、その人の携帯電話番号をプッシュする。 「はい」  可愛らしいハイトーンの声が聴こえた。 「鷲津です」 「は?」 「木村美緒さんの携帯ですか?」 「そうだけど。あなた、誰?」 「いや、だから鷲津です」 「あのね、イタズラ電話だったらイタズラ電話って言ってくれる? 忙しいの、わたしは」 「ちょっと待って下さい。ぼくの話も聞いていただけませんか」  わずかな沈黙の後、ため息混じりの声が聴こえた。 「……十秒でまとめてくれるかしら」 「古いアドレス帳に、木村美緒さんの名前と電話番号が記してあったんですよ。でも、僕は木村さんの記憶がないんです。どこかでお会いしていた方かと思っ」  ぼくの言葉は途中で、さえぎられていた。 「わたしの知り合いには、鷲津さんという男性はおりません」 「でも、木村美緒さんなんですよね?」  久し振りに、他人と話をしている自分がいた。  ここで電話を切ってしまったら、次に他人と会話が出来るのはいつになるかわからない。ぼくは必死だった。 「正真正銘の、木村美緒ですが」 「本当に、鷲津孝典という名前に聞き覚えはありませんか」  受話器の向こうで、大きなため息がする。 「鷲津さん。路上で女の子を引っかけて遊んだことあるでしょ」 「かなり昔に」 「電話番号の交換とかも」 「したことありますけど」 「そのときの女の子が交換したのは、わたしの番号だったと思うの」 「はあ」 「それしか考えられない。それと、あなたがいう『かなり昔』なんてこと、信じられない。つい最近にも、してたでしょ? そういう後腐れがない女遊び」 「失礼な」 「じゃあどうして、わたしの私用の携帯番号を知っているのかしら」  私用、という言い方が引っ掛かった。 「ぼくにもわかりませんよ。こうしましょう、一度会って頂きたい」  ため息まじりの、あきらめた声が返って来る。 「明日の夜、八時なら空いています」 「ひとつ言ってもいいでしょうか」 「はい」 「ぼく、ずっと前から失業状態で、生活が厳しいんですよ。美緒さんの方から、こちらに来てくれませんかね。その代わりお茶くらいは御馳走します」  そんな遣り取りを経た翌日、夜八時半。  美緒は駅の改札を出たところに居た。  すぐにわかった。長い黒髪をゆるく巻いているロングヘア。ほっそりした顔だちと、大きな二重の目によく似合う長い睫毛。化粧が薄いので、肌の綺麗さがひときわ目立つ。  それに紺色のトレンチコートが印象的だった。ベルトを使いウエストで絞った姿は、映画のショットかと思う程、綺麗だった。 「木村さん?」  ぼくが話しかけると、一瞬ぎょっとしたようだった。だけど、すぐに笑いかけてくれた。  白い肌と痩せた体の可愛らしい子という印象だった彼女に、ぼくは一瞬で魅せられた。  でも、やっぱり。現実にぼくらが対面したのは初めてだった。  喫茶店で美緒の話を聞いた。  ――歳の離れた妹がいて、二人とも物心ついた時には乳児院で育ったと言う。美緒は高校在学中に簿記や危険物取扱主任やら、様々な資格を取った。卒業してからは地銀に勤めて、施設にいる妹に仕送りをしていた。  そんなときに妹は病に襲われ、入退院を繰り返した。一年程ほど経った頃、上司に退職を勧められたそうだ。 「それで、今は何をしてるの?」  美緒は言った。 「風俗」 「ふうん」  次の言葉が見つからなかった。美緒はぼくの目を見てから、とても寂しそうに言った。  「美樹ちゃんの為なら我慢出来るから。いいの」 「美樹ちゃんって、妹さん?」 「そう」  彼女は一瞬だけうつむく。しかし、すぐに顔を上げて言い切った。 「美樹ちゃんの為なら、なんでも出来る。泥の中に顔を突っ込んで、人に土下座してもいいの。爪が剥がれるような絶壁を渡ってもいいの。軽蔑でもなんでもすればいい。守ってあげたい人がいる、それで充分。こんな生き方しかできない、わたしに無理して逢ってくれて、ありがとう」  ぼくは茫然と彼女を見つめた。そして、生まれてはじめて家族以外の人間の前で涙が浮かんだ自分を感じた。  失業生活が散々続いて、気持ちは弱り切っていた。そんなところに、この浪花節ストーリーである。  ぼくは目を伏せ、瞼を擦りながら言った。 「そんな言い方、しないでよ」  ひたすら圧倒されていた。  中学、高校の時の思い出と言えば、授業中に隣の席の子の財布を取り上げたり、叱る教師に楯突いてライターで指を焼いたり、友人と体育倉庫の扉を閉めて喫煙してたり。そんなのしかない。  両親は、ぼくが高校を卒業してから飛行機事故で亡くなっていた。まるで見捨てられたようだ、と今なお思う。  誰もぼくのことなんて、知ったこっちゃない。そんな卑屈さいっぱいの心が積み重なったのが自分だ。  この子は自身の足で必死で立ち、守るべき者のために頑張っている。  かたや、こっちはどうだ。  なんとか力になってあげたくても、だらしなくスロに明け暮れるだけだ。耐え切れないほど恥ずかしかった。  思わず、美緒に話しかけていた。 「あなたのこと。一瞬でも誤解して……。本当にごめんなさい」  今思えば、僕も青かったと思う。  でも失業者は皆、おしなべて持ち合わせている意識がある。今でも、そう信じている。  誰も自分のことを必要としていないと思う感情が劣等感や絶望感を産んでいく。それと同じ位か、もしくはそれ以上の「誰かの為に役に立ちたい」気持ち。  当時のぼくは社会にも美緒にも、役に立つ人間ではなかった。  美緒は泣きそうな顔で無理して笑ってくれた。 「こんなこと、初見のお客さんにも話したことないのよ?」 「あ、あの。また逢って貰えないかな」 「じゃあ、鷲津さんの仕事が決まってから」  美緒がぼくの眼を、姉のように覗き込んで笑った。 「一日も早く逢えるように頑張るよ」 「そうしてね。待ってる」  それから二ヶ月経って、ぼくは就職が決まった。その日、真新しい携帯電話から美緒へと指が動いていた。 「仕事、決まったよ」 「よかったじゃない!」 「逢いたい」 「約束したもの。いいわよ」 「ホントに?」 「約束を守ることは、大事だもの」  久しぶりに会えた美緒が、まぶしくて仕方がなかった。積もる会話だけで時間を過ごしてしまったことを憶えている。  それから、なんとなく離れがたくなって。時々、連絡を取り合うようになった。  課長に就任した時。某テレビ局の内装も設計も、ぼくひとりに任された時。その仕事が全部仕上がって施工主に渡せた時。偶然にも美緒のオーナーの別荘の設計をすることになったとき。  節目節目に、ぼくは美緒を呼び寄せた。  そんな付き合いが、かれこれ七年。  いつのまにか、ぼくたちが使うビジネスホテルも決まっていた。今日は、お互い商売抜きだけどね。チェックアウトと同時に彼女を迎えに来る車が見えるなんて、ぞっとする。  美緒がバスタオルを体に巻きつけて、隣に座る。  出会った頃から変わっていない白い肌は張りがあって、つやつやしている。思わず肩口に唇を寄せたくなる欲望を抑える。 「最近、調子はどうなの」 「あんまり、よくない」  美緒は疲れた笑顔を浮かべた。ぼくは彼女の腰に手をまわした。 「上手く行ってないの? 仕事」 「それだけじゃ、なくて」 「美樹ちゃんのこと?」  返事に詰まった様子が伝わる。 「なにかあったの」  彼女の顔が、泣き出しそうに歪んだ。 「終末医療に入ることになったの。今、いいところを一所懸命に探してる」 「なんで黙ってた」  愕然としたぼくのノドはカラカラに乾いていた。  美緒の妹には一度も会った事はない。だが、ずっと心の支えになっている事くらいは知っている。  美緒が投げ出すように言う。 「だって孝典には言ってないもの。知る訳ないじゃない」 「いつから、そんな話に」 「だいぶ前。もう長くないわ」  イラっとした。 「なんで黙ってたんだよ! なにかぼくが出来ることだって、あったかもしれないだろう? 違うか!」  美緒は黙って、うつむいている。 「そんなだから、おまえも体壊して、切ったり貼ったりになるんだろう! おまえの事だから検診も通ってないんじゃないのか? これでも心配してるのに! それともアレか、ぼくじゃ頼りにならないとでも思ってたのか?」  彼女がぼくを、まっすぐに見つめた。 「だって、今の孝典なら、無理してでも一緒になろうって言うに決まってるもの」 「なにが悪い」 「妹の命を人質に取ってるみたいで、気分が悪いから。そんなの愛でもいたわりでも、何でもない。そういう繋がりで結婚なんて出来ない。少なくとも、わたしは大嫌い」  ぼくはため息をついて、美緒の唇を自分に引き寄せて重ねた。 「なんだって、そんなに意地を張るんだよ」  彼女はふたたび、黙りこくった。やがて、かすれた声が聴こえた。 「わたし、自分をバカだと思う」 「そんなこと言ってないよ、ぼくは」 「美樹ちゃんのことだけじゃないわ。孝典の都合の良い時に呼び出されて、孝典の話を聴いて、お互いに慰めあうような抱き合い方をして。わかっていても、つい逢いたくなる。仕事にならない気持ち、どうすることもできない」  皮肉なのかと問い掛けるのは辞めた。  こちらも独身生活に甘んじて、美緒を遠ざけていた時期があった事も否めない。  お互いに、二、三ヶ月振りで逢った時など、ちょっとでも眼を見れば「何かあったな」「話を聞いてやろうかな」と思うように、ここ数年で変わって来た事も感じていた。  その距離感が丁度いいと自惚れた時期もある。なにより美緒自身の本当の気持ちを、確かめた事もなかった。  だが、もう限界だ。 「ぼくには、支えになるんだよ」  美緒は顔を上げて、そっぽを向いた。 「孝典には、もっと素敵な人がいるよ。わたしは、そのパテみたいな役で充分」  パテと言うのは、工作物の隙間を埋める役割がある素材の事だ。いつの間にそんな言葉を覚えていたんだろう。  ぼくは言った。 「うるさい黙れ」  美緒の髪の毛をかき上げて、額や頬にゆっくり唇を這わせて行く。 「た、孝典。やめて」 「やめない」  ――いつから美緒のことを「ひとりの女性」として見はじめたのか。今さら、そんなことを問い返しても意味がない。  ぼくが他の女を買う気にならないことを、彼女は知っている。  そのくせ、美緒はこちらに体を預けてくれても、心をこちらに渡してくれようとはしない。  今夜だけは。今夜からは。  美緒がイヤだと言っても、僕のそばに居て貰う。そう言ったら美緒は本気で怯えた顔になった。  ぼくは言葉を噛みしめる。 「もう慰めあうような抱き合い方はしたくない」  その場限りでもない、逃避でもなく、ただ分かち合いたいんだ。曖昧な悲鳴と吐息が部屋の中に充満していく。  彼女を包みながら、ありふれた「気持ち」を捧げ尽くすつもりでいた。 「わたしだって、孝典と一緒にいたいと思うよ」 「それのなにが悪いんだ」 「でも、このままじゃ」 「素直になれって言ってるだろ!」  ぼくたちの時間は、きっと恐ろしく陳腐なものだろう。  だけど美緒以外に、それを一緒に育てるつもりはない。互いが見栄や体裁を捨てられる存在に、果てしなく溺れていたいんだ。  すれ違っていた時間の分も、がむしゃらに叩き付ける。はじめて心を見せてくれた「恋人」のために。  ブラインドが、夜明けの色を示していた。美緒に腕枕をしてやりながら、浅い眠りを味わう。  やがて耳元に、美緒の声が聴こえてきた。 「孝典。八時だよ」 「ああ」 「あと一時間で、出て行かないと。オーナーにも連絡しないとだし」  ぼくは寝ぼけた頭を軽く振って、彼女に言った。 「そっちには、ぼくから電話をする。今日限り、その仕事は辞めてもらう」 「えっ」  驚いた顔をする美緒の額を、拳でコツンとした。 「寝物語と思ってただろ」 「だって」 「今なら、ちゃんと言える。ぼくと一緒にいてくれ」  美緒は絶句した様子で、ぼくを見る。 「言い方は悪いけど、もうすぐ美緒は天涯孤独になるんだ。美樹ちゃんのこともだけど、おまえがシッカリしていないと、ちゃんと見送れないだろう? ぼくも、この世で頼る人は誰もいない。もう一人はたくさんだ。誰かにそばにいて欲しい。二人で、なんとなく一緒にいたらいいじゃないか。美緒が今まで突っ張って来た分だけ、ぼくに甘えたらいいじゃないか。今なら言えるよ。美緒がそばにいてくれたら、それでいい」  美緒は顔をくちゃくちゃにして泣いている。 「もうババアなんだから思いっ切り泣くなよ」 「うるさい! 顔洗って来る!」  バカバカバカ! とか言いつつ、人の胸板にすがって泣かないところが、誠に美緒らしくてよろしい。  今、ひとりで自宅の鍵を開けている。  ホテルで彼女とは別れた。帰りの道すがら、何度も何度も確かめていた。  昨夜のことは夢だったんだろうか? いや、夢じゃない。たしかに、彼女に合鍵を渡している。  美緒がこの部屋のベルを鳴らすかどうかは、確信が持てない。多少強引でも、彼女を連れてくればよかったのかもしれない。  一分、一秒が長く感じる。世界中がぼくを、置いてきぼりに進んでいる。   また“日常”に戻ればいいだけだ。なにも変わらないんだ。  強がってコーヒーを沸かし、パソコンの電源を入れる。  また独りぼっちに戻ってしまうかもしれない。そうじゃないのかもしれない。  口笛を吹きながら、戸棚の奥からコーヒーカップを出した。砂糖もクリームも入れないコーヒーを目の前に置く。パソコンに映る画面を、ぼんやり眺め続けていた。  ひっそりと、ベルの音が聴こえた。    
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