超チフス

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超チフス

 目的地の澎湖島は、台湾と中国本土の間にある小さな群島で私はここで父と母と妹に久しぶりに会うことができましたが、運悪く、途中の門司港でたくさん食べたバナナが原因で「腸チフス」という伝染病にかかり高熱が出てきました。  やはり「いやしい食いしん坊」には罰が当たりますね。  幸い大好きな家族には会えましたが、楽しみにしていた観光や買い物、海水浴もできないまま到着したとたん、すぐにお父さんの部下の上与奈原軍医大佐が手配してくれた馬公海軍病院に緊急入院することになりました。  しかも、私のかかった腸チフスは伝染病ですから他の患者に伝染しないように病院の中の一番奥にあった隔離病棟に移されておよそ40日間テレビも娯楽もまったく無い、しかも壁にはヤモリが這うような殺風景な病室で過ごしました。  入院中、台湾人の17歳になるやさしい看護婦さんが専属で私の面倒を見てくれました。  私は年上の彼女に親しみを込めて日本語で「おねえちゃん」といつも呼んでいました。  腸チフスにかかったらまず食事が制限されます。  当時はペニシリンなどの腸チフスに対する特効薬が無く、ただ「絶食して熱が下がるのを待つ」というだけの単純な処置でした。  絶食中は、割り箸の先につけた水あめを1日5本だけなめるという食事療法でしたので、中学1年生の食べ盛りの私にとってこの地獄のような治療方法はあまりにも過酷で我慢ができないものでした。  そのために毎日、「おねえちゃん、これじゃあ全然足らないよ、もっと食べ物をください」と何度もお願いしたものですが軍医の医療方針を貫かれた「おねえちゃん」は心を鬼にして嫌われ役に徹していたのです。  そのかいあって私は40日後に退院できることができましたが、大切な夏休みはすでに終わっていました。 ※  このお世話になった「おねえちゃん」には戦後40年経って私が所属していた佐世保ロータリークラブと台南ロータリークラブという2つの組織の連携で再会することができました。  ロータリークラブとはお医者さんや会社の社長さんなど、社会的地位のある会員を世界中に持った社会奉仕を行う組織のことです。  澎湖島で40年ぶりにあった「おねえちゃん」は57歳になっていましたが当時の面影は残したままでしたが事故で片足を無くして車いすに乗っていた姿に苦労がしのばれました。 「おねえちゃんおひさしぶりです。松永です。あのころは無理ばかり言ってごめんなさい」 といった私の言葉に涙を流してうなずきながらしっかり手を握り締めてくれました。  おねえちゃんが57歳、私が53歳の再開でしたがそのときだけはまるで時計の針が40年逆転して17歳と13歳の少年時代に戻ったようでした。 ※  学生時代にこの腸チフスにかかったことが、後の漂流体験後、無事に陸地に着いた時に役立つとは思ってもいませんでした。
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