最低な人生を

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 東京は夜中でも明るい。二十四時間休むことなく点灯し続けている赤と青のLED。日中に比べれば少ないものの、コンクリートで整備された道路を走る車。中には終電間際で帰れたのか、はたまた居酒屋からの帰りなのか、スーツを着たサラリーマンもたまにすれ違う。  信号待ちをしている人も、酔っ払って千鳥足になっている人も、車を運転している人も、明日があるのだろう。彼らはきっと、こんな他愛もない一日、月日が経てば忘れるのだろう。 「本当に、羨ましい人だ」  私はその様子を観察しながら小さく零した。心の中で思っていたことが表に出てしまったらしい。誰かに聞かれていたら。そう思うと恥ずかしくなる。若い女が公道で独り言なんて、どの時代でも不思議がられるだろう。私もそれに漏れず誰も聞いていないにも関わらず少し委縮してしまう。だがそれと同時に気づいた。私はもう恥ずかしがる必要もない。 「私はもう」  目の前は暗闇で見えない。でもここは見慣れた通学路。その暗闇の先が川だということは知っている。落ちたら死んでしまうような深くて波の強い川。 「死ぬのだから」  私は一般家庭に産まれた娘だった。営業マンの父と専業主婦の母から産まれた長女。下には年子の弟と四つ下の妹が一人ずついるが、両親は誰かを贔屓することなく、平等に子どもを厳しく躾け、平等に子どもを愛していた。  私の特異点とすれば、生粋のおばあちゃん子くらいだろうか。父方の祖母は早くに旦那──私の祖父にあたる人──を亡くしており、以来一人で子どもの面倒を見ながら田舎に暮らしていた。  祖母は優しい人だった。義理の娘にあたる母にも優しく接し、美味しいご飯を作ってくれた。夏にはスイカ割りもさせてもらった。家業にしている農作物の手伝いもやらせてもらった。私は祖母にとって初めての孫であり、初めての血の繋がった娘でもあった。 私は小さい頃、祖母のいる家に行きたいと何度もわがままを言った。祖母の家は東京からは遠く、飛行機に乗らなければ辿り着かない。もちろん小学校低学年だった私を一人で行かせてくれるわけはなく、かと言って父は平日仕事、母は小学校の役員会議などで忙しかった。だから私は長期休みを強く望んでいた。きっと、どの子どもよりも。  会う度に激しく喜ぶ私を見て、祖母は同じように嬉しそうに笑った。母達が帰っても私だけは最後の休みまで祖母の家にいた。夏休みの自由研究も祖母の家でやった。自分で野菜を育てて食べた。虫捕りをした。東京には咲いていない珍しい植物の絵も描いた。綺麗な川で鮎を捕まえて祖母と二人だけのキャンプをした。料理もした。おかげで私は東京育ちにも関わらずとても田舎者のような元気で優しい少女に育った。自分で胸を張って言えるくらい優しい女の子だったと思う。  そんな私の生活も、中学生に上がる頃には変わっていた。中学生は忙しい。勉強だけじゃない。部活も始めた。運動神経は良かったからバスケ部に入った。でも運動部には合宿がある。夏休みに祖母の家で毎日過ごすことはなくなった。それでも一年生の頃は数日程度だけど行った。祖母は喜んでいた。私も久しぶりの再会に笑みを零した。  でも三年生から、皆ピリピリしだした。受験が近づいているから。私もピリピリしていた。親からも教師からも「頑張れ」と言われる。それが余計に私を追い詰めていった。その時の私は祖母のことなど考えていなかった。結果が全て。そのためには一秒でも無駄にはできない。そんな思いで私は三年の冬を迎えた。  結果は惨敗。第一志望の都立は落ちた。第二、第三志望も落ちた。唯一滑り止めとして受けた高校だけ受かった。あれだけ努力して何も実らなかった。  私はほとんど皆勤賞で高校三年間を過ごした。せめて成績優秀者になりたかったのだ。受験に落ちたことで落胆の表情を浮かべた両親、関心すらなくなった担任の顔が脳裏に焼き付いているせいで、私は他人の顔ばかり窺う女の子となった。  そんな高校生活に、祖母が浮かぶことはなかった。高校生の私にとって一番重要なのは功績を残すこと。田舎で自然と触れ合ったって社会には何も通用しない。だから私は夏休みに入っても祖母に会いに行くことはほとんどなかった。  中学の受験を踏まえて、大学受験は失敗しないようにと精魂を込めた。結果は第一志望合格。両親が安心したような表情を見せたので、私もようやく肩の力を抜くことができた。  この頃になると、私は既に祖母のことを忘れていた。いや、祖母のことは覚えている。正確には、祖母との思い出を忘れていた。大学では仲の良い友達もできた。彼氏もできた。高校の時の我慢が一気に開花したようだった。いわゆるリア充とやらに私はなった。けれど、幸せが絶頂に達すると、後は下がっていくだけらしい。  大学四年生の春、就職活動が上手くいかない私は表面上笑っていたものの、内心とても焦っていた。卒業までに就職できなかったら? 就職浪人になったらまた親から冷めた目を送られる。何としてでも就職をしなければ。そんな焦りが会社に筒抜けなのか書類審査で落ちること数十回。もう途中から数えることをやめたくらい落ちた。  そんな中、高校生の妹から着信があった。田舎に住んでいる祖母が病気で長くないと。祖母が病気なことすら知らなかった私は驚きこそしたが、田舎に向かおうとは思っていなかった。それより就職だ。祖母よりも将来のことが心配だ。私は引き止めようとする妹を無視し、会場がある駅へと向かっていった。  祖母の訃報を聞いたのはそれから一週間後の夜中、数分おきにかかっている妹からの留守電で知った。その日に通夜を行うらしいが、祖母のいる田舎の通夜に行くには昨日の昼には飛行機に乗っていなければならない。つまり私は間に合わない。妹は焦りと涙声、そして最後には怒声で私を罵る留守電を残した。  翌日、私は朝一の飛行機で田舎まで向かった。既に通夜は行われている。せめて火葬に間に合うように私は急いだ。バスもないので父に車で迎えに来てもらうように頼むと、すぐに来てくれた。だけどその目は完全に私に対する怒りそのものだった。  怒りを表していたのは父だけではなかった。親戚中が私に責めるような目を送ってくる。私が身を縮こませていると誰かが私の肩を強引に掴み頬を殴った。涙を目に溜め、私に軽蔑と憤怒の顔を向けている妹の姿が映った。弟が慌てて妹を宥めるが、私に対しての妹の怒りは収まらない。 「一番愛されていたくせに! お前はいつまでも私達を不幸にしかしないじゃないか! おばあちゃんを帰せよ! お前が死ねよ!!」  頬を平手打ちされた私はただ呆然と激怒する妹を見上げるしかできなかった。その姿を見ていた母が突然崩れ落ち、声を上げて泣いた。母を宥める父も肩を震わせて下を向いた。弟は妹を引き止めながらも私に対して睨むような目を見せた。  そこから私の家庭は崩壊した。両親は私を無視するようになり、妹は私とすれ違う度に軽蔑を込めた目を送るようになった。弟は根が優しいこともあり、三人のようにあからさまな行動はしていないが、他人に浮かべるような愛想笑いをするようになった。  大学でも変化はあった。どこから嗅ぎつけたのか、私が祖母に対して「恩を仇で返した」と誰かが吹聴したらしく、私は一気に孤立した。彼氏も私を「不孝者」だと見捨てた。教授も、私の噂を知っているらしく、冷たくあしらうようになった。今まで味方だと思っていた人は、全員敵になった。  でも、これだけ責められても私はわからない。なぜ祖母が死んだだけでここまで責められなければいけないのかと。そこが私の欠落した感情なのだろう。他人の顔色だけを窺って生きていかなければならないこの都会だ。もし面接をサボり、祖母の見舞いに行ったら、それはそれで責められるだろう。  成績ばかりを気にして、私が志望校に落ちれば関心をなくす両親。良い会社に勤めようとしなければ関心をなくす教授。マイノリティであることを許さない友人。祖母一人のために、これら全てを捨てるなんてこと、私にはできない。こんなことを言えばまた責められるだけだからあえて言わないが。  それにこの人達はおかしい。今まで祖母にほとんど関心を向けてこなかったこの人達が何を必死に私に対して怒っているのだろう。介護をする必要もないじゃない。もう田舎が面倒だと愚痴を言う必要もないじゃない。小学生の頃、私が誘っても田舎に残ろうとしなかったお前たちが、今更何を偉そうに説教している。私は意味がわからなかった。  でも、私は主張しない。主張できない。  私はアメリカの大統領や日本の政治家のように何万人もの前で声を大きくして意見を言えるような度胸は持ち合わせていない。  そして、孤立することの耐性も持ち合わせていない。  批難されていくうちに私は生きる希望を削られていった。  今日まで生きたのは、勇気がなかったから。  今日まで生きたのは、いつか私を救ってくれる人がいると信じていたから。  今日まで生きたのは──。 「死にたくなかったから」  私は誰も見ていないことを確認し、安全を配慮したフェンスを乗り越え足の半分もない地面に降り立つ。 「これで、満足でしょう」  私は震える手をフェンスから離し、全身を前に傾ける。  重力に逆らわない人間の体は、綺麗に暗闇へと落ちていく。  ファスナーを閉め忘れたバッグが逆さまになり、私の物が飛び散る。 高校の友達からもらったペンケース。  彼氏に買ってもらった財布。  家族旅行で買ったマスコットのぬいぐるみ。  何度も届いた不採用の書類。  祖母が── 「あっ」  おばあちゃんがくれた、古いお守り。 「……ごめんね、おばあちゃん」  私はそのお守りを掴み、胸に抱きしめた。  直後、冷たくて痛い感覚が、全身に襲いかかった。 (生まれ変わるなら)  意識が遠くなる中、私はただ願う。 (役に立つ人間になりたい) 『あれー、死んじゃったよあの子』 『どうするのー? もう代替品はないよ』  彼女の様子を眺めていた子ども二人が後ろにいる女に向かって問う。 『あの子でいいわ。新しい器は用意しているのだから。さあ、魂が消える前に持っていらっしゃい』 『『はーい』』  子ども達は女に命じられると彼女の元に向かっていった。  既に動かなくなっている彼女から丸く光る何かを抜き取ると、そのまま女の元へ帰る。 『持ってきたよ』 『早くしようよ』 『そうね。少し欠陥はあるけれど、今度こそ望みを託しましょう』  女は子ども達から光を受け取ると、そのまま天へと昇っていった。
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