17人が本棚に入れています
本棚に追加
餌付け
夜11時半過ぎ。
ぼちぼちクロにご飯をあげる時間だ。出かけるとするか。
いつもどおり黒いスポーツウエアの上下に身を固めた私は、リュックを背負って家を出た。そもそもクロと言う名前も私が適当にそう呼んでいるだけなのだが、有り体に言うと野良ちゃんを野外で勝手に餌付けしているのである。勿論、おおっぴらには言えない話であり、人に見られるとまずいから、こうやって深夜、黒っぽい服装に身を包み、闇に紛れてこっそりと行っている。
公に役所で保護してくれればいいのだけれど、ここら辺は保護猫活動さえ、まだまだ立ち遅れているのが実情だ。地域猫なんて言葉を聞くたびに、つくづくそういう地域が羨ましくなる。生命に対する住民の感覚の違いだろう。現実問題、ここの近隣住民の理解を得るのは、まず無理だと思うし、当然、税金を使って役所に面倒見て貰うなんて話も夢のまた夢だろう。私にもそのぐらいは分かる。だからこそ、毎晩こうやって泥棒みたいな真似をしなければならないのだ。
クロも、もともとはどっかで飼われていたのが、何かの拍子に逃げ出してここら辺に住み着いてしまったんだろう。誰が逃がしたか知らないけれど、そもそもその飼い主の責任が一番大きいと思う。もし人に見つかったらすぐに通報されて殺処分だろうし、そうしない人間も、面白半分にボウガンの標的にしたりして虐待するかもしれない。今の世の中、そんな輩も多いのが現実だ。そして、クロがもしそんな目に合うとしたら、その原因を作ったのはやはり元飼い主なのだ。
いつもの餌付け場所、大川にかかるM大橋の袂に到着した時には、もう日付が変わっていた。いつもどおり、欄干から少し身を乗り出して、真下の暗闇にささやくように声をかける。
「クロ?」
私の呼びかけに応えるように、暗闇の中でクロのしっぽが微かに揺れるのが見えた。クロの長くてしなやかなしっぽと、縦に綺麗なスリットの入った可愛いお目目が私のお気に入りなのだ。良かった。今晩もここにいてくれた。いつもこの時間になると餌遣りにくる私の声をちゃんと覚えていて、待ってくれているところも、なんとも愛おしい。
さて、クロのご飯を用意するか。
今からは人間の私が野生に戻ってハンティングモードになる時間だ。いつもどおり暗闇に紛れ、息をひそめて物陰にじっと身を縮める。獲物を待ち伏せる野獣の気分だ。所詮は真似事とは言え、不思議な高揚感が私を包む。
五分ほど待ったころ、私の耳に、近づいてくる人間の足音が聞こえて来た。うまい具合に私が隠れている場所の後方からだ。これは期待できそうだ。
女物のヒールの足音……若干乱れ気味な間隔……多分、酔っぱらった女性か。だとすれば格好の獲物だ。
後ろからくる足音をそのままやり過ごしてから、そっと身を乗り出す。思った通り、酒臭い息の匂いが強めの香水にまざって流れてくる。後方から見ると、ピンクのワンピースに身を包んだ茶髪の女が、少し覚束ない足取りでふらふら揺れながら歩いて行く。少し太めなところも良い感じだ。行くしかない!
ゴム底靴のお陰で私の足音は殆ど聞こえない。物陰から音もなく走り出た私は、3秒で女の背後に到達すると、後頭部のど真ん中を用意していたトルクレンチで殴打した。正確に急所に叩き込んだ一撃は、瞬時に彼女の意識を殆ど飛ばしたようで、女は声も上げずにがっくりと膝から崩れ落ちた。さらに、念押しで、同じ場所を二、三回叩くと、女は完全に動かなくなった。
死んだのか意識を失っただけなのか、今はどうでも良い。念のため周囲を見回して誰もいないことを確認すると、私は女の体を引きずり上げて、そのまま欄干から川面に落とした。ここからだと水面まで10メートル近くはあるだろうか。暗闇の中、落下物の水音が鳴るまで、妙に時間がかかったような気がした。
その次の瞬間、ばしゃっという別の水音が橋の袂の方で起きた。と思う間もなく、水面下を大きな黒い影が、凄いスピードで移動し、流されつつあった女の身体にあっという間に追いつく。月明かりの中、大きく開いた口と牙が見えたと思ったら、次の瞬間女の全身は、もう真っ暗な水の下に引きずりこまれていた。
その容赦のない完璧な攻撃、圧倒的な力、荒々しい食欲をむき出しにした野生動物の「本物の」狩りの場面を目の当たりにして、私の心は再び興奮に包まれる。半開きの唇から涎が垂れているのにも気づかず、私は暫くの間、静かになった川面を眺めていた。
「すごい……クロちゃん、すごい……」
夜道を自宅へと戻りながら、私は考える。
やっぱり、クロには、ちゃんとした名前をつけてあげよう。適当なやつじゃなくて、あの子に相応しい名前を考えてあげなきゃね。色々とよく調べてみよう。本当、いくら適当につけたからって、自分のネーミングセンスは確かに酷いと思う。
だって、あまりにもベタじゃない?クロコダイルだからクロなんて……
[了]
最初のコメントを投稿しよう!