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『眠り姫』をもういちど
黒水晶を思わせる深い色の瞳。肩まで伸ばした染まっていないまっすぐな髪。落ち着いた声。忘れるわけはない。あの女性だ。
「はい。先日はありがとうございます。コンタクトレンズにしたのですね」
変身はそれだけではなかった。あのときはうすい化粧をしていたのに、いまは口紅がひときわ濃くなっている。
内面から滲み出ていた美が花開いて、まばゆかった。
あのあと何かあったのだろうか。淫らなイメージが浮かんだが頭から追い出した。客の夜の姿を想像するなんて、いままでの僕にはなかった。
彼女にカウンター席をすすめた。彼女がスツールに座ろうとすると、パールのイヤリングがゆれて光を放つ。
「この前のカクテルが飲みたくて。またお願いできますか」
……あれをもういちど作るのか。
動揺を悟られまいと、口元をゆるめて笑顔をつくった。
「かしこまりました。『眠り姫』ですね」
冷蔵庫からオレンジ、パイナップルジュースを取り出した。背面に並ぶボトルに手を伸ばしたが、取るのはやめた。逃げるのはやめよう。
絞ったオレンジとパイナップルジュース、氷をシェーカーに入れた。トップをのせ左胸に構える。目を伏せて一定のリズムで振った。
あの夜。彼女が席を立っている間に、男からオーダーが入った。
「あの子にきついカクテルを飲ませてくれないか。頼むよ」
うなずいたが、僕は従わなかった。
一滴のアルコールも含まれていない『眠り姫』をつくった。
気づかれぬよう、棚から使わないテキーラやリキュールの瓶まで並べて。男は彼女との話に夢中だったからカクテルの配分までは見ていなかった。
酔った勢いで抱き合う。男女の仲ならそんなこともあるだろう。
わかっていたが、彼女が不憫でならなかった。
酒が何たるかを知らず飲まされて重い経験をしてほしくはなかった。酒を利用するなとか、この店で口説くなとかそんな理由ではない。
僕は、彼女にいらぬ感情を抱いている。
この気持ちは時とともにうすれていくはずだった。
しかし、僕の心に彼女は住み着いていた。
「お待たせしました。『眠り姫』です」
彼女は礼をいうとカクテルを口に含んだ。グラスを置くとちいさく息を吐く。
「あの人のこと、ちょっといいなって思っていました。でも、何もなくて……」
「さようでございましたか」
安堵したが、余計なことをしたのかもしれない。
あの日見た彼女のまなざし。語り合うだけで満たされている少女の顔だった。僕があのカクテルを出さなければ、彼女はきっと……。
「いつの間にか彼は離れていって。悲しいけれど安心しているんです。……これって、変ですか」
「そんなことございませんよ」
彼女の漆黒の瞳を見つめ返した。
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