こころ奪われて

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こころ奪われて

恋を見届けるのが僕の仕事だ。いままでも、これからも。それなのに――。 肩を寄せ合う男女の客を見送りながら、僕はある人を思い出していた。 数週間前、このバー『サマーレイン』を訪れた女性だ。 ネイビーの地味なビジネススーツを身にまとい、あどけない顔立ちをしていたから、まだ酒の味をよく知らぬ年頃だろう。昼は学生で夜は雇われバーテンダーの僕とそう年は変わらないはずだ。 彼女は男性に連れられてきた。男は「先輩」と呼ばれていたが、軟派な感じがして彼女よりも幼く見えた。 ああいう男は、何も知らない女に教え込むのが生き甲斐のようなものだ。 男は彼女に「ここはカクテルが人気なんだ」といっていた。僕の知る限り、彼がこの店を訪れたことはない。雑誌かネットで知った『大人の世界』に彼女を連れ込みたかったのかもしれない。 霧雨が降る街を描いた壁一面の絵。地下に佇むこのバーの名物だ。 眺めていた彼女は、ちいさな声で「綺麗」とつぶやいていた。連れの男がいなければ、僕は絵についてのあらゆる話を彼女に語っていただろう。 タンブラーを取ると、グラスタオルで丹念に拭いた。手を動かしていないと彼女を思い出してしまう。 いまバーには僕しかいない。このカウンターから多くの人を見送った僕でさえ、沈黙に耐えきれぬときがある。原因はわかっていた。 あの夜に犯した行為が、僕を苦しめている。 ドアが開いた。タンブラーを置いて顔を上げる。 「いらっしゃいませ」 黒いワンピースを着たひとりの女性が立っていた。 「あの……私のこと、覚えていますか」
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