『お久しぶりです』のその前に。

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「ただいま」  短く帰宅を告げる言葉。  普段ならば何も返っては来ないのだが、今日はバタバタと騒がしい足音が響く。 「おっかえりー!」 「おかえりなさい」 ――――そう、ここは今まで住んでいた一人暮らしの家ではない。  本社に異動になるまでずっと住んでいた実家だ。  走って出迎えてくれた双子の妹に皇は再度「ただいま」と微笑んだ。やはり出迎えてくれる人がいると心が温かくなる。 「母さん、まだ仕事だろ?」  靴を脱ぎながら聞けば、髪の短い姉――澪(みお)が頷いた。 「うん。でも今日は豪華なご飯作るって張り切っててさ。もう昨日のうちから今日の用意してたよ」 「やっぱりお兄ちゃんがこっちに戻ってくるの、嬉しいんだねー」  続いたのは髪の長い妹、美羽(みう)だ。  美羽は「持つよ」と言って、靴を脱いでいる時に置いたカバンを持ってくれる。よく気が付く、聡明な妹である。 「戻ってくるって言ったって、前だってそんな遠くなかったじゃん。それにまた一人暮らしすんでしょ? そーんな喜ぶことかなぁ?」  逆に澪は後頭部に両手のひらを置いて、くるりと回る。  こちらは聡明というよりも体育会系の活発な妹で、現在もバスケットが有名な大学に入り、そこでバスケにいそしんでいる。  本人の悩みは『バスケをやっているのに、どうして美羽と同じ身長なのか』らしい。  双子であっても、身長の差が出来てもおかしくない! と彼女は叫ぶも、理数系の美羽も澪と同じくらいまで背が伸び、二人は綺麗に同じ身長だ。  もし澪がバスケをしていなかったら、美羽の方が背が高かったかもしれない。 「遠いより近い方がいいに決まってるでしょ? あー、でも澪にはそういうの分かんないか」 「なにおぅ! 私だって分かるもん!」 「分からなかったからその台詞が出てきたんでしょう?」 「はいはい、お前ら。言い合いは部屋に入って二人でしてろ」  とうに靴を脱ぎ終えていた皇は呆れながら手を振る。こういう二人のやり取りは日常茶飯事だ。 「俺、父さんに線香あげてくるから」  カバンは居間に置いておいてと言って、二人の間を通り過ぎる。  ポンポンと両手で軽く双子の妹の頭を叩くのは癖だろう。いつもこうやって二人の頭を叩いて過ごしてきたから。 「「はーい」」  それに二人も声を揃え、返事をする。それに小さく笑って皇はそのまま一番奥の、昼間は日当たりの良い部屋へと行く。そこには父の仏壇が置いてある。  普段は敷かれていない座布団がすでに用意され、花もある。  きっと帰って来たら父と話をするだろうと思った母が用意してくれたのだろう。  皇は有難くその座布団に正座して、飾られている遺影に向かって「ただいま」と声を掛けた。  前に実家に帰って来たのは年末だっただろうか。  仕事に追われ、半年に一回も顔を出さなかった。この二年間で帰ったのは片手で足りるほどだろう。  妹たちがいるから母が寂しい思いをすることはないだろうけれど、それでも少々申し訳なさを感じる。  皇はロウソクにマッチで火をつけ、線香を折る。そして先端を燃やして軽く振り、白いそれが漂うのをしばらく見つめてから立たせた。  ふわりと香るこの匂いは嫌いではない。  父の匂いはもう忘れてしまったけれど、この匂いがする時はまるで父が天からここに降りてきて、話を聞いてくれている気持ちになるからだ。  手を合わせて、目を閉じる。  いつもならば長く無言で、心の中で話をするのだけれど、今日の皇はすぐに目を開けた。  こうするのは本社へ異動が決まり、家を出た日以来だ。 「父さん。俺、あの会社に戻ることになったよ」  合わせていた手も、膝へ置く。  あの日拳を作っていた手が、今は膝を包み込むように広がったまま。 「本社に残ってくれた方が助かるって上司に言われた。嬉しかったよ、正直。もしかしたらあのまま残った方が良かったって後悔する日が来るのかな、俺」  口元が勝手に弧を描く。  自然と細くなった瞳が、変わることのない父の姿をしっかり捉えていた。 「でもきっと後悔しないと思うんだ」  その父も笑顔で皇を見つめている。 「あの日、俺父さんに言ったよね。絶対に戻って来て、先輩を救うんだって。どうなるのか全然分かんなかったし、不安だったけど、絶対に助けるって誓った」  それは自分を鼓舞するものだっただろう。  言葉にすることで実現できるように。この先、折れることがないように。まるで祈りに近いそれだけれど、皇自身はただ父に相談したような気持ちだ。  これを知っているのは本社への道を作ってくれたあの人と、父だけ。 「もう先輩は俺と連絡を取ってくれなくなったし、もしかしたら俺のことも忘れてるかもしれない。戻っても逆に拒絶されるかもしれない。それでも、俺は先輩のあの環境を変えたいんだ。助けたいんだ」  指先が膝を引っ搔く。 「どうなんのか全然分かんないよ。先輩の他にだって俺を覚えている人がいるかどうかも分からないし、先輩だけじゃなくて、むしろ他の年上の男性社員なんか絶対睨んでくるだろうからさ」  本社でどれだけ揉まれようが嫌なものは嫌なままだ。慣れることがあっても、傷つかなくなるわけではない。  その傷の痛みに慣れただけで、傷はつくのだ。 「けどそれでもいいんだ」と皇は呟く。 「俺は先輩が過ごしやすい環境に変えられたらそれでいい。俺が睨まれたっていいんだ。先輩を助けたいだけだから――俺を助けてくれたように」  これは恩返しみたいなものなのだろうか。いや、そんな気持ちならきっと途中でやめていたかもしれない。辛さに負けて、この〝真っ直ぐ〟は折られていただろう。  勿論、助けてもらったから助けたいという気持ちだって強い。けれどそれ以上に、あんな環境でも優しく微笑んで接してくれる、頑張って先を見つめようとしている彼女が好きだからだ。 「ねぇ、俺って父さんに似てるらしいよ」  小さく笑って言う。  この家を出るときには伝えられなかったことだ。 「父さんはよく、母さんの傍にいたよね。夫婦だからとかじゃなくてさ。泣いちゃった母さんの傍にいつもいたのは、慰めたいとか、笑わせたいとか、そういうことでもなくて、きっと好きだったからなんだろ? 父さんもこんな気持ちだったのかな」  先輩を想う気持ち。  真っ直ぐに向かうこの想い。 「俺はこの真っ直ぐさが嫌だったけどさ、先輩がくれた言葉で、まぁいいかって思えるようになった。でも、これが父さん似なら、尚更仕方が無いなって思えた」  この真っ直ぐさを扱うのは未だに難しい。  その性質のせいで傷つくことも多々あるけれど、先輩に向くこの真っ直ぐさは、 「愛おしくなったよ」  きっと彼女への愛おしさだ。 「先輩を想うこの気持ちは愛おしさでさ、その愛おしさが俺の嫌いだった真っ直ぐで、その真っ直ぐが父さんから受け継いだものなら、きっと父さんも母さんのことをこうやって見ていたから、ずっと傍にいたんだね」  皇は一度だけゆっくり瞬きをして、「今なら分かるよ」とまた笑った。 「俺も父さんみたいに寄り添えたら嬉しいな」  でもまぁ取り敢えず。 「先輩の環境を整えつつ、俺のことを意識してもらえるように努力します」  最後に再度手を合わせ一礼する。 「俺、結構恥ずかしいこと言ったかな? また男同士の秘密でよろしく」  そう言い、皇は手を一振りしてロウソクの火を消した。 「今度はもうちょっとちゃんと顔出すよ」と言い、立ち上がる。 「その時は経過を報告するから。それじゃあまた」  遺影に手を振ることはせず、部屋を後にする。  仏壇から離れてもまだ自分から線香の匂いがして、都合よくそれは父からのエールだと思う。  もう父との思い出も薄れているけれど、きっと生きていたらこうやって話を聞いてくれただろうし、応援もしてくれただろうから、これは勝手な妄想なんかじゃないと思いたい。 「澪ー、美羽ー、終わったぞーって、お前ら居間にいたのか」  奥の部屋から居間へと行けばソファに二人座っている状態で、どうやら何か話していたようだ。 「あ、うん。まぁね」 「慧にい、お父さんとちゃんとお話できた?」 「あぁ。こっちの会社に戻ること報告してきた」 「そっか」  澪は嬉しそうに頷く。 「さっきのお兄ちゃんのカバンはそこに置いてあるから」 「ありがとうな」  美羽の指差した先にあるカバンを確認してから今度は皇が頷いて、礼を言った。 「母さんはまだなんだろ?」 「今日は遅いかも。働いているスーパーで今度周年祭があるらしくて、それの準備が終わらないーって騒いでたし」 「品出しとかポップ作りだけじゃなくて、他にも仕事があるらしいよ」  妹たちの言葉に皇は顔をしかめた。 「でも時間外に仕事はしないよう……えっと、宇津保さん? が管理してるんだろう?」 「そうなんだけど、課長がうるさく指示してくるんだって」 「お母さん、いっつも怒ってるよ」  澪と美羽は「「ねー」」と顔を合わせて言う。  そういえば前にも課長がどうのこうのと言っていたことがあった。  やはりどこの職場でも厄介な相手とはいるらしい。  自分はそんな上司にならないようにしたいけれど、きっとあそこの人たちは自分のことを邪魔だと思うだろう。それでも間違っていることは正さなければ。  正しいことをせずに間違いに流されているのが良い上司かと聞かれれば自分は首を横に振る。ならばやるべきことはおのずと見えてくる。 「じゃあまぁ、取り敢えず先に俺が夕食の準備でもしとくか」  皇は腰に手を当てて、キッチンの方へ視線をやる。  たしか母が昨日からもう準備を始めていると言っていたから、中身を見ればだいたい何を作るのか分かるだろう。  そう思ったのだが、双子の妹二人は呆れたように声をそろえて言った。 「「それはダメでしょ」」 「え?」  皇は視線を彼女らに戻す。 「お兄ちゃんはこれだから」 「そうそう。慧にいってそういうとこあるよねー」 「……なんだよ」  両手を広げる仕草を二人一緒にするのを睨み、唇を尖らせた。 「お母さんが料理はいつも自分で作ってる理由、知ってるんでしょ?」 「まぁ。なんとなく」 「慧にいがどれだけ作るって言ってもいつも譲らないのにさ、こういう時に勝手に作っちゃうとかなくない?」 「ないない」 「だよねー」 「…………」  言い争いをするのは日常茶飯事だが、それは双子である彼女らが仲が良いことも示している。  その証拠に、二人の部屋は幼少期と変わらず二人部屋のままだ。 「お母さんの気持ち、分かってても作っちゃうあたりがデリカシーのない男っぽいっていうか、どこか強引というか」 「頑固というか、なんというかさー。甘えるのも下手っていうの?」 「……お前ら、言うようになったじゃないか」  ヒクリと口角をつり上げるが、昔からやんちゃだった妹たちが引くことはない。  皇は脱力し、溜息をつく。ここで言い争ったとしても負けるのは目に見えている。この家で強いのは兄ではなく妹たちなのだ。 「分かった。俺が母さんの気持ちを考えなかった。何もせずちゃんと待ってるよ」 「「そうそう。それでいいの」」  ハーモニーを奏でる二人は満足そうで、溜息を苦笑に変えて皇も同じようにソファに座った。 「それで? さっきまでここで何の話をしてたんだ?」 「え? ん? なに?」  澪は瞬きをしながら背凭れに置いてあったクッションを手に持つ。その仕草は何かを誤魔化したり、嘘をついている時だ。  どうやら今もその仕草は健在らしく、美羽の方が呆れた様子で長く息を吐いた。 「澪さぁ、それもう少し何とかならないの?」 「な、なにさっ、私べつに何も言ってないじゃんっ」 「そういうことじゃなくて、どうして澪はそんなに嘘が下手なわけ? 普通にしてればいいだけじゃん!」 「普通にしてるし! てか、そんなら美羽の方がいま余計なこと言ってんじゃん! このまま何も言わなければ慧にいだって黙ってたかもしれないのに!」 「もう澪が誤魔化したい話題だってバレバレなんだから今更私がなに言ったって問題ないわよ! あーもーっ、澪が何も言うなって言うから黙ってるのに、そっちが隠してられないんだったら意味ないじゃんっ」  また始まった言い争い。  どうやら妹二人は何か自分に隠したいことがあるらしい。  姉妹の話だ。女同士でする話題もあるだろうし、首を突っ込むような野暮はしたくないけれど、先ほどのことがあった今だ。少し意地悪をしたくなっても仕方が無いだろう。 「澪、お前なにを美羽に黙ってろって言ったんだ?」 「ちょっ! お兄ちゃん澪に聞いたらダメだって!」 「はいはい、美羽は黙ってろ」  前のめりになる美羽を手で制して、優しい笑みを浮かべながら澪に問いかける。 「兄ちゃんに何を黙ってるんだ? ん? 本当はお前だって言いたいんだろ?」 「いや、えっと、そのぉ」 「ちょっとお兄ちゃん! 澪! 澪が何も言うなって言ったんだからね! 言ったらダメだよ!」 「ほら澪、言ってごらん」 「み、美羽~~~~っ!」  澪は立ち上がり、クッションを抱いたまま美羽のもとへと駆けて行く。そしてクッションに顔を埋め、隠れるように美羽の隣に座った。  これでは美羽の方が姉のようだ。  だがこれも最早テンプレートと言えるもので、皇は「ははっ」と笑った。 「お前、ほんっと相変わらずだな」 「お兄ちゃん卑怯だってば!」 「俺はただ何を話してたのか聞いただけだろ? 悪いことなんかひとつもない」  先ほどのを真似るように両手を広げてみせる。  それを睨んでくるのは美羽で、けれど先に降参をするのも美羽が先だ。勝てぬ戦はしない主義なのだろう。 「澪、逃げるよ」 「えー……」 「えーじゃない。何も言わない方がいいって言ったのは澪なんだから、私も何も言わない」  そう言って美羽は澪の手を引いて、走り出す。  バタバタと足音を立てる二人が向かうのはなんてことない、自室の二階だ。 「母さんには俺から連絡入れとくから」  後ろ姿にそう声を掛けると「もうLINEしといたぁ!」と返って来る。そして扉の閉まる音。どうやら本気で戦線離脱したようだ。 「一体なにを隠してるんだか」  皇は苦笑しながらソファの背凭れに両腕を置いて、深く深呼吸をする。  あの騒がしい妹たちがいなくなると居間は静かになるけれど、実家だからか寂しい気持ちはない。  元々一人でも大丈夫な性質ではあるのだ。こんなことで寂しがるような自分ではない。 (来週、か)  新たなマンションに荷物を入れるのは明日。そして仕事が始まるのは来週だ。  きっとまた忙しくなるに違いないけれど、父にも言ったようにちょくちょく顔を出そうと思う。その方が母も、双子の妹も喜ぶだろうから。 「先輩は、喜んでくれるかな」  小さく零した不安。  忘れられているかもしれないと思いつつも、覚えていて欲しいと思う。  戻ってきたことを喜んで欲しい。そしてまた前みたいに缶コーヒーが飲みたい。 (まぁ、我侭かな)  高望みをしてはいけないとよく言われるけれど、思わずにはいられないのが人間だ。 「まぁ、なるようにしかならないだろ」  背中を預け、首も預ける。  天井が視界に映ったその先、二年前に見た彼女の姿を見つけて。 「先輩……」  ピクリと揺れた手は伸ばさずに、その瞼をゆっくり下ろした。 ――――『お久しぶりです』のその前に。 (→)
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