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いつの頃からか、人混みを歩くと、必ず前方から誰かが駆け寄ってこようとするのが見えるようになった。
最初に見かけた時は本当に遠くて、こちらに走り寄ろうとしているのかどうかも判らなかった。でも、次第にその姿ははっきり見て取れるようになってきて、今ではもう、俺と相手との距離はほんの数十メートル程度だ。
そこまではっきり人影が見えているのに、相手の顔はまったく判別できない。そんな顔の中で口元だけが大きく動いているのだが、この距離なら声は聞こえるだろうに、まったく何も聞こえてこない。
こんな異様な存在が生きた人間である筈がない。
幸いにも、この何かは人混み以外では出現しないので、俺はなるべく、人が大勢いる場所を避けて暮らすようになった。
朝は電車の混まない時間に出勤し、帰りも、人があまりいなくなってから駅に向かう。
色々不便だけれどあの何かを見るよりはマシだ。
その思いで早起きや遅い帰宅を続けてきたが、今日はうっかり寝過ごし、ラッシュ真っただ中に通勤すねことになってしまった。
最寄り駅までの道にはそんなに人はいないが、車内には次第に乗客が増えていき、目的の駅に降りる時には、周囲は完全な人混み状態となる。
早く駅を出て混雑から抜け出そう。
速足で改札を抜け、まだ前に広がる人の山の中を抜けようとした時、いつものあの『何か』が見えた。
やはり俺の方に駆け寄ってくる。その不気味さはいつも通りだが、今日はこれまでと少し様子が違った。
音が…いや、声が聞こえる。そいつの叫ぶ声が俺の耳に届いている。
でもまだはっきりとはしない。
あいつは何を言ってるんだ?
人混みから脇へ抜け出すのをやめ、足を止めて相手の言葉を聞こうとした俺の目前に、駆け寄る男は迫って来た。
…俺?
凄まじい速さで俺に近寄ってくるその相手は、どこをどう見ても俺としか見えない姿をしていた。
そいつが鬼気迫った表情で何かを叫ぶ。その声が今日は聞こえた。
「逃げろ! 通り魔が来る!」
俺にしか見えない相手がそう叫ぶ。でも俺はそれに反応できない。
今俺は何を見た? 何を聞いた?
通り魔?
叫び声の意味が何一つ飲み込めず、その場手足を止めた俺の耳に、前方から人の悲鳴が聞こえた。
一人じゃない。複数の悲鳴だ。それがどんどん近づいてくる。悲鳴と共に人影も近づいてくる。
赤い滴りを零す包丁を持った男の姿が見えた。
そいつが俺を見てニヤリと笑い、俺目がけて走ってくる。
…理屈は判らないけれど、俺が俺に向けて発し続けていた警告。それを俺は聞き流した。
その代償のように、これまで目にしてきたのとは違う男が俺の目の前に駆け寄り、手にした包丁を俺めがけて振り下ろした…。
駆けてくる男…完
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