暗闇の中で二人、オマエと

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 例年より早く冬の装いを始めたカルラ山は、すでに景色の全てを白銀に染め上げていた。  怖いほど透き通った青空の下、眩いほどきらきらと煌めく新雪と樹氷はまるで宝石のようで、この山を初めて訪れる新入生の多くは、トロッコを降りてからというもの目の前の景色に茫然と目を奪われている。  そんな中、セシリオはすでに何度も目にした冬のカルラの美しさには目もくれず、配布された軍用の地図を広げながら、今一度、今回の予定ルートを確認していた。  今回はクラス単位で行軍を行ない、山の中腹にある野営地を目指す。この野営地で各自テントを張り、そこで一泊、明日は別のルートを使って下山する。行軍に必要な物資と食料は各々自力で運び、命にかかわる怪我を負わない限りは教官も一切手出しはしない。  実地さながらの訓練は、当然、過酷なものになるだろう。が、セシリオの心は至って穏やかだった。この程度の行軍は、軍人なら、遅かれ早かれ誰もが経験することだ。  やがて号令が下り、二列横隊を組んだ生徒たちは野営地へ向けてぞろそろと行軍を始めた。  空は相変わらず青く晴れ渡っている。空気自体は冷たいが、風が穏やかなせいか特に苦痛は覚えない。全身を羊の毛皮で作った防寒着に覆われた身体は、少し歩くだけですぐに温まり、さらには蒸し暑ささえ覚えはじめる。 「あっつ」  フードの留め具を外し、汗で蒸れた頭を外気に晒す。さすがにフードを外すと寒さが堪えたが、それも、しばらく歩くとすぐに慣れた。むしろ厚着で火照った身体が程よく冷えて心地よい。  背中に抱える荷物の重みも、今のところは苦にならない。もっとも、何の準備もせずに訓練を迎えていたら、今頃はとっくに音を上げていただろう。  実は今回の訓練に備えて、夕方の自由時間を使って荷物を運ぶ練習を重ねていた。最初の頃は演習場を一周するのが精いっぱいだったが、最終的には五周は余裕で歩けるほど体力がついた。それが功を奏しているのだろう。多少息は上がっているが、むしろこの程度の負荷は心地が良い。この調子なら野営地までは問題なく歩けそうだ。  あいつは――いや、心配は無用だろう。  事実、五列ほど前を行くルームメイトの背中はへばるどころか、一分の乱れもない歩調で黙々と山道を登っている。こと体力面に関しては、どれほど鍛錬を積んだところでセシリオでは敵わない。そもそも身体の造りからして違うのだ。あの男の逞しさなら、同じ部屋で寝起きするセシリオはうんざりするほど知っている。  やがて最初の休憩地点に到着する。そこで生徒らは携帯食で小腹を満たし、あるいは近くの茂みで用を足す。セシリオも付近の森で小用を済ませ、さて皆のところに戻ろうかと踵を返したその時、森の奥から悲鳴じみた声がして、ふと足を止めた。 「これは」  おそらく仔熊の声。だとすれば近くに母熊がいて危険だ。ただ、この声はどこか悲痛な響きがする。猟師が仕掛けた罠にでもかかってしまったのだろうか。  放っておけない。  気付くとセシリオは声のする方に駆け出していた。理屈で考えればありえない行動。それでも身体は、早くも仔熊を助けたい一心で森を駆け、心もそれに追従している。 「待ってろ、今助ける!」  やがて梢が開け、視界がさっと明るくなる。  案の定、それは仔熊の悲鳴だった。やや木々の開けた森の中、その子は途方に暮れたように雪の上をうろつきながら、しきりに頭上を見上げていた。理由は、巨木の枝から垂れるロープに後ろ足を取られ、宙づりにされた大熊。おそらく仔熊の母親だろう。猟師の罠に引っかかり、身動きが取れなくなっている。  その母熊は、セシリオに気づくなり激しい唸り声を上げはじめた。威嚇のつもりだろう。そんな母熊に、伝わらないと知りつつやんわりと声をかける。 「大丈夫。僕は敵じゃない」  さっそく巨木の瘤に足をかける。正直、木登りは不慣れだが、それでも、これだけ表面がごつごつしていれば足場には困らないだろう。案の定、目的の枝までは難なく登りきった。あとは枝先に結ばれたロープを切るだけだ。  腰のベルトに佩いた鞘からナイフを抜き取り、ロープに突き立てる。前日に丹念に研いでおいたおかげか、太い荒縄も難なく断ち切ってくれた。ようやく縛めを解かれた母熊は雪上にどさりと着地すると、そのまま仔熊を連れて一目散に茂みの奥へと消えていった。 「二度と罠にかかるんじゃないぞ」  ふとセシリオは、自分が笑っていることに気づいて照れ臭くなる。罠を仕掛けた猟師には悪いことをした。ただ、それはそれとしてセシリオは満足だった。自分の手で誰かを自由にできた。苦境から解き放つことができた。それが、何とも言えず心地よかった。  だから気付かなかった。急速に空を覆い始めた雪雲の存在に。  巨木を根元まで降りた時には、早くも空はすっかり暗雲に覆われていた。その頃になってようやく天候の変化に気付いたセシリオだったが、時すでに遅く、横殴りの風に混じって大粒の雪が頬を叩くまでに荒れていた。  まぁいい。皆のいる休憩地点までは距離もない。すぐに引き返せば合流はたやすいだろう  だが。  休憩所を目指して歩き始めたセシリオは、すぐに思いがけない困難に行き当たった。往路では気にも留めなかった斜面が、下から見ると崖と呼んでも差支えがないほど急峻で、足をかけるとずるずると坂を滑ってしまう。仕方なく、登れそうな山道の探索を始めるも、みるみる激しさを増す吹雪に次第に視界は奪われてゆく。  このままでは、本当に戻れなくなってしまう  荷物は休憩場所に置いて来た。誰かがセシリオが戻らないことに気づく可能性は高い。それでも、いかんせんこの吹雪だ。視界は利かない。寒さは刻一刻と増している。ただでさえ過酷な雪山で、まして、他人の命に心を割く余裕がなくなったとして、それを責める権利はセシリオにはない。  ――それでも、アベルなら。 「いや、駄目だ」  フードをかぶり、留め具を止めながらセシリオはかぶりを振る。  あの男には、もう二度と甘えないと誓った。否、そもそも甘えられるわけがない。セシリオは、彼の家族を見殺しにした男の肉親だ。あの男に言わせればセシリオは憎むべき仇だ。その自分が、この期に及んで彼に甘えることはできない。  あれからひと月。その間、アベルとは一度も口を利いていない。  あの日から、二人の間にはある不文律が出来あがった。声をかけない。目を合わせない。無視というわけではないが、互いの言動にはしいて触れない、踏み込まない――そんな不文律が。だからあの日のことを、セシリオの言葉を、アベルがどのように捉え咀嚼したのか、セシリオには想像もつかなかった。一つだけ言えるのは、今のアベルがセシリオの窮状に気づくはずがないことだ。互いに不干渉、無関心を貫く中、相手の現状には気づくはずもない。休憩地点に戻らないことも、きっと気づいていないだろう。  ふと振り返ると、今まで自分が歩いて来たはずの道が消えている。それだけではない。足跡さえ猛烈な降雪に掻き消され、自分がどこを歩いて来たのかもわからなくなっている。 「うそ」  さすがにこれはまずい。ここは、一か八か目の前の斜面を這い登ろう。  だが、やはり足が滑ってしまう。加えて、新しく降り積もった雪がぼろぼろと崩れて足場にならない。結局、身長の高さほど登ったところで足場にしていた雪が崩れ、またしても斜面の下に滑り落ちる羽目になった。 「っ」  これは、本当に終わりかもしれない否、終わりだ。 「なんだよ、それ」  ふと笑いがこみ上げて、吹雪の中、声をあげて笑う。  あんなにじたばたと足掻いて、遠回りをして、ようやく答えらしきものを見つけた矢先、こんな馬鹿馬鹿しい終わり方をするなんて。自分はいい。ただ、気の毒なのは母だ。セシリオという人質がいなくなれば、あの父に母を養護する理由はない。息子の死を知るや母を放り出し、すぐにも新しい女を妻に迎えるだろう。  そのことを思うと胸が痛い。だが、いい加減、こちらも楽にさせてほしい。  今の今まで、自分なりに頑張ってきたのだ。危険を冒して反帝運動に加わり、組織員に嬲られても耐え続けた。結果、それは間違いではあったけれど、それでも努力はした。努力はしたのだ。  痛くて苦しくて悲しくて惨めで。  思えば、ずっとそんな日々だった。  斜面に背を預けるように、雪の中にそっと腰を下ろす。相変わらず雪雲に切れ間は見えず、こうしている間にも肩に腕に雪が降り積もってゆく。猛烈な眠気が襲っていた。このまま眠れば凍死は必至だ。が、不思議と恐怖はなかった。むしろ、このまま楽になれるのだという確信が、何よりも慈悲深い救済に思われた。  ――お前は、それでいいのか。  なぜ。  どうして、今、あいつの言葉が。 「いいはずないだろ」  そうだ。この手は、まだ誰も救っていない。母を、無辜の兵士たちを――  いや、違う。  そんなものは所詮、後付けの理由だ。誰かの命さえ後付けにされてしまうほどの確かな理由、それはあいつだ。いつも不愛想で、何を考えているのかわからなくて、でも、どこまでも優しくて  逢いたい。もう一度、あいつに逢いたい。 「アベル」  立ち上がり、ふたたび登攀可能な山道を探して歩き出す。やがて、吹雪に霞む視界の向こうに、崖にそってゆるやかに伸びる登攀可能な山道が見えた。  よし、あそこを登ろう。あそこを登れば、きっと、さっきの場所に 「っ!?」  不意に膝が崩れてセシリオはへたり込む。立ち上がろうと力を込めても、腰が抜けてしまって身体が動かない。疲労がついに限界を迎えたのか、あるいは、助かる見込みに早くも気が抜けてしまったのか。いずれにせよセシリオは詰んでいた。ここで足を止めれば、それこそ凍死は確実だ。 「ちくしょう!」  なぜこうなる。本当の願いに、感情に気づいたそばから何もかも駄目になる。  一度は失せた眠気がふたたび意識を蝕んでゆく。ああ、今度こそ終わりだ。なのに、今のセシリオにはこの終わりを止める手立てがない。結局、セシリオは何一つ変えられなかった。世界も、それに自分さえも。その証拠に、相変わらず意識は詮無い夢想に縋っている。斜面の上からランプを片手に降りてくる人影。あれはきっと、助かりたいと願う意識が見せる幻影だ。 「――オ」  その影から声がする。ああ、この声には聞き覚えがある。セシリオが今、最も逢いたいと願う人。だが、現実はいつだってセシリオに冷たかった。セシリオを嘲笑い、凌辱し、自尊心を踏みにじった。その現実が、こうも都合よくセシリオに助けの手を差し伸べるわけがない――  それでも。 「ここだ、アベル、っ」  手を伸ばし、声を限りに叫ぶ。  ――助けが欲しければ言え。  ――お前は、物言わぬ人形ではないのだから。 「アベル、僕を助けてっ!」
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