暗闇の中で二人、オマエと

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 出会った時から、そいつのことは気に入らなかった。    偉大なる愛国者にして英雄、アーロン=エスコバルを父に持つ青年セシリオ=エスコバルは、十六歳を迎えると当然のように士官学校へと入学させられた。  させられた――そう、させられたのだ。本当なら今頃、芸術の都ヴィーパの大学で作曲を学んでいたはずのセシリオは、父の命令一つでこんなむさくるしい場所に押し込まれてしまった。  いや、百歩譲ってそれはいい。が、それでも軍人にだけは、軍人にだけはならないと子供の頃から訴えてきたはずだ。それを知らない父ではなく、しかし現に今、こうしてセシリオは士官学校の教室で、むさくるしい同級生どもと一緒に退屈きわまる戦史なんぞを学ばされている。セシリオの訴えは、全くの無駄に終わったのだ。  やがて時計塔の方から終業の鐘が響いて、張りつめた教室の空気がにわかに緩む。この授業が終われば次は剣術の訓練だ。将来の士官候補のための学校だから、当然、心身ともに頑健な青年ばかりが選りすぐられている。そんな連中が半日も薄暗い教室に押し込められて、体力を持て余さないはずもなく、午前中の学科が終わると彼らは弾かれたように教室を飛び出し、訓練場そばの更衣室へと急ぐ。  入校以来二か月。今やすっかり見慣れた、否、見飽きた光景だ。 「めんどくさ」  あらかた教室が空になったところで、ようやくセシリオは席を立つ。訓練までは、更衣の時間も考慮されて長めの休憩時間が設けられている。彼らが急いでいるのは、早めに中庭に出て遊ぶためで、元より身体を使って遊ぶことを好まないセシリオは、むしろ更衣室の混雑を嫌って遅めに移動することにしている。  教科書やノートをまとめ、小脇に抱える。そんなセシリオの目に、ふと、今なお教室の隅に留まる広い背中が映った。  またあいつだ。  いつもそうだ。ここ最近、いつも最後はあいつと二人きりになってしまう。  夜の闇を溶かし込んだような漆黒の髪と、大人と見紛う広い肩、まっすぐな背筋。その姿は、たとえ背中向きであっても見間違うはずはない。セシリオのルームメイト、アベルのそれだ。  誰もが退屈だと嫌う戦史の授業の最中、この男だけは黙々と黒板の文字をノートに書き取り、教官の言葉に生真面目に耳を傾けてた。今も、おそらくは教官が口頭で語った説明を書き入れるなどしているのだろう。授業の間じゅう外の景色ばかり眺めていたセシリオとは違って。  やがてアベルはノートを閉じると、手早く荷物をまとめて席を立つ。遠目にもそれと分かるほどの長身は、実際、セシリオより頭半分はゆうに高い。服もセシリオのそれより二サイズは大きい。その大きな服を、いつも几帳面に畳み、あるいは皺が寄らないよう丁寧にハンガーにかけている。大柄な身体に似合わぬ几帳面さは、服のみならず生活全般に及び、食事も、勉学も、いちいち判で押したような模範生ぶりはどこか道化じみてすらいる。  気に入らない。  が、その気に入らない男をルームメイトに選んだのは他ならぬセシリオ自身で、以来半年、この癇に障るルームメイトへの苛立ちは募るばかりだ。  意に沿わない学校での生活、せめてルームメイトには綺麗どころを選んでおこう――今にして思えば、それが間違いだった。もし、何かの魔法で半年前に戻れるのなら、この男だけはルームメイトの選考から外すだろう。絶対に。  そのアベルが、セシリオの視線に気づいたのか、ふと振り返る。  ああ、そうだ。あの入校式の日、この顔にセシリオは騙されたのだ。誰も彼も勲章目当ての賤しい顔つきばかりを並べる中、この男だけがそうした俗っぽさとは無縁の空気を纏っていた。どこか超然とした佇まいは、役者のように整った顔立ちとも相まって、美しいものを好むセシリオの歓心を一目で呼んだ。  同じ十七歳とは思えない、男性的で大人びた顔つきは、いまだ子供子供したセシリオには羨ましいの一言だ。程よく張った頬骨と顎。高く細い鼻梁。やや太めの眉は眉尻にかけてゆるやかに吊り上がり、引き結んだ唇とともに精悍な印象を強くしている。が、中でも特に印象的なのはその目だ。切れ長の、やや伏目がちの瞼は、初見の人間には深い憂愁を帯びて見える。その印象が間違いだと気づくのは実際に接したあとの話で、入校の式典の後で、右も左もないまま突然ルームメイトを決めろと言われた新入生たちに、相手の本質を見抜く余裕などあろうはずもなかった。 「な何だよ」 「俺を待っていたのか」 「はぁ!? 誰が待つかよ、お前なんか!」  さすがに今の言葉は聞き捨てならない。誰が待つもんか、こんな奴  ところがアベルは、なぜ怒鳴られているのか分からないという顔で、なおもセシリオを見つめている。  いつもそうだ、この男は、話をするときは必ず相手の目をまっすぐに見つめてくる。まるで、そうすることで相手の心が読めるとでも思っているかのように――そのくせ、ちっともこちらの気持ちを汲んでくれないのだから余計に腹立たしい。  事実、アベルは彼を拒むセシリオの意など介することもせずに歩み寄ると、その長い腕を、セシリオの肩にぬっと伸ばしてきた。 「なな、何だよ!?」  慌てて身を引いたその時、肩から何かが飛び立つ気配がする。それをアベルは俊敏な動作でさっと掴むと、そのまま窓の外へと突き出した。  やがて。 「あ」  おもむろに解かれたアベルの大きな拳から、一匹の蝶がひらひらと飛び去ってゆく。何だか手品を見ているような気分につい唇を綻ばせてしまったセシリオは、次の瞬間、それを大いに後悔した。折しも振り返ったアベルと、ばっちり目が合ってしまったからだ。 「で、授業の方はちゃんと聞いていたのか」  その小言じみた物言いに、セシリオはむぅと唇を尖らせる。  ああ、またこれだ。  セシリオが彼をルームメイトに選んだことを後悔する理由、それは、とりもなおさず彼の小言好きにあった。超然として見えたのも、単に平民出身で周囲から浮いていただけのこと。実態は憂愁どころか暑苦しいほどの熱血漢で、セシリオの生活にも逐一口を挟んでくる。机は片付けろ、ちゃんと日記はつけろ、予習、復習を怠るな、脱いだ服はきちんとハンガーにかけろ  今回も、やはり何か言いたいことがあるらしい。大方、肩に蝶が止まるほどぼんやりしていたルームメイトを叱りつけたいのだろう。そんな、小言のパターンが即座に浮かぶ程度には、この男との付き合いも長い。 「べ別に、お前には関係ないだろ」 「関係ならある」 「は?」 「俺達はいずれ、士官として共に戦場に立つだろう。その戦友が、ろくに士官としての研鑽も積んでいない名ばかり将校では、俺や、俺の部下の命までもが危険に晒されることになる」 「だ、」  誰がなるものか。こんな男の仲間になど。何より―― 「そいつはよかったな。そもそも僕は軍人なんかにならないし、お前と一緒に戦場に立つつもりもない! お前はせいぜい、戦場で一人で勲章でも掻き集めてろバーカ!」  言い捨てると、セシリオはぷいと踵を返し、逃げるように教室を出た。  更衣室までの廊下をつかつかと歩きながら、セシリオは自分に言い聞かせる。そうとも。僕は軍人になんかならない。誰がなるものか、あんな――
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