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結局、夕食を終えてもセシリオはスピーチのことを切り出せずにいた。料理はいつも以上に味を感じられず、早々に食事を切り上げたセシリオは、逃げるように自室へと戻った。
食卓のアベルは相変わらずもりもりとパンを喰らい、大好きな肉入りスープを飽きもせずにおかわりしていた。普段はその下品さに呆れるだけの光景が、今日に限ってはセシリオの胸をぎりぎりと締め上げた。
貧しい生まれのアベルは、以前、ここでの食事はごちそうだと言った。セシリオに言わせれば家畜の餌にも等しい食餌を。それほどに両者の間には生まれの差があり、その差が、あの戦場での悲劇を生んだのだ。彼の父親は平民出身の軍人で、だから父も、彼らを心置きなく捨て石にできたのだろう。もし、アベルの父親が貴族出身の人間であれば、同門の人間が全財産を擲ってでも司令官たる父の方針を曲げさせていたはずだ。
だが、現実は違った。アベルの父親は当たり前のように捨て石にされた。貴族ではなく平民の生まれだったから。
「間違ってる」
実力ではなく生まれた家で運命が決まるこんな世界はやはり間違っている。その歪みを、いびつさを誰よりも痛感していたのはアベルだったはずだ。そのアベルは、しかし言った。暴力的な方法では何も変わらないと。我々は、ただ積み上げるしかないのだと。
ふざけるな。
そうやって悠長に積み上げている間にも、この世界では誰かが傷付いている。理不尽を嘆いている。心を亡くした母は今も不幸の中にいて、本当はきっと、アベルも
ふとドアをノックする音がして振り返る。
「だ、誰?」
「俺だ。入るぞ」
「あ、ああ」
やがてドアが開き、ルームメイトの長身が戸口に現れる。
シャワールームでの一悶着以来、アベルは部屋に入るさい、必ずドアをノックをするようにしていた。以前は、不愛想で無頓着で無神経な奴だとばかり思っていたが、半年も付き合うと多少は印象も変わってくる。無頓着に見えて、意外にも周囲のことを考えていること。無神経に見えて、意外にも他人に気を遣っていること。不愛想に見えて、実は思いやりに満ちていること――
その思いやりに、本当は、日々少しずつ救われていること。
「どうした?」
「えっ?」
「いや。俺の顔に何かついているのか?」
その言葉にセシリオは、ついアベルの顔を凝視していたことに気づく。慌てて目を伏せ、平静を装いながら、セシリオは喉にこみ上げる何かを必死に押し殺していた。
「べ別に」
「そうか。ところでセシリオ」
「な、なに?」
「ルシオ教官から明日、朝礼時にスピーチをするよう頼まれているんだが、お前も聞いているか?」
「え」
アベルの言葉にセシリオは凍り付く。まさか、もうその件を――いや、教官がセシリオに伝言を頼んだのは、少しでも早くアベルの耳に入ればというだけの話で、話そのものはいずれ直接伝えるつもりでいたのだろう。アベルがスピーチのことを知るのは、だから、時間の問題だったのだ。
「うん一応」
「そうか。ならいい。で、スピーチの内容はもう考えているのか?」
「いや」
「早めに考えておけ。教官も、そう長く話す必要はないと仰っていた。あまり気負わずに、お前の目から見たありのままの父親について話せば良いんじゃないか?」
そしてアベルは、いつものように机に着く。その広い背中を見下ろしながら、セシリオは、何とも言えない苛立ちを募らせはじめていた。
なぜ、どうしてアベルは平然としていられるのだろう。
かつて暗殺を企てるほど憎んでいた父親の仇。その息子が、今、こうして目の前にいるというのに。
「お前どうかしているんじゃないのか」
「えっ」
振り返ったアベルを、セシリオはさらに強く睨み据える。お門違いは百も承知だ。本来、ここで怒りをぶつけられるべきなのは自分の方だ。それでもセシリオは、胸の内に生まれた怒りを目の前のルームメイトにぶつけずには済まなかった。
「僕の父は、あいつは、お前のお父さんを見殺しにした。栄誉や勲章なんて下らないもののために捨て駒にしたんだ」
「それはまぁ、そういう見方もできるだろうが」
「だったら恨めよ! 憎めよ! 僕のこの身体には、あの人でなしの血が流れているんだ! 人を道具扱いして屁とも思わない外道の血が! 僕がお前の立場なら、絶対に僕を恨んでいる! だって悔しいじゃないか! 理不尽じゃないか! 大切な家族を捨て駒扱いされて、そんなの、絶対悔しいじゃないか!」
言い切り、ぜいぜいと肩で息をする。それでもセシリオの気持ちは収まらない。溜め込んだ言葉が、想いが、肺の中で暴れながら今も吐き出される瞬間を待っている。
「なぁ、アベル――」
「俺の父は、」
そんなセシリオを封じるように、アベルはのそりと椅子を立つ。オイルランプの光に浮かぶ双眸は、明らかに強い怒りを孕んでいた。
「それでも、父は国のために役割を果たした。命が尽きるその瞬間まで、果たすべき役割のために戦場に留まった。そんな父を持つことができたことを、俺は、何よりも誇りに思っている。捨て駒と言い切られる方が、俺にとっては心外だ」
低く唸るようなその声は、やはり強烈な怒りを湛えている。それでもセシリオは、ここで引き下がる気にはなれなかった。
「捨て駒は捨て駒だろ!」
殴られてもいい、殺されてでも、今は、このわからず屋に思いの丈をぶつけたい。
「お前のお父さんは、あんな奴の勲章のために馬鹿馬鹿しいと思わないのか。生まれた身分で捨て駒にされるか、のうのうと後方で生き残るかが決められてしまう。そんな戦争の犠牲になったお前のお父さんを、捨て駒以外に何と呼べばいいんだ!」
今度は、アベルからの反論はなかった。怒りは失せ、代わりに、何かを考え込むような哲学者めいた目で、じっと、セシリオを見つめる。
「確かに俺の父はエルナンドで、お前の言う捨て石になるよう命じられた。そのことで、正直に言えばお前の父親を恨んだこともある」
「じゃ、じゃあ、」
「だがその後、俺は必死になって学んだ。あの日、あの時のことを。そして俺は答えを得た。あれは長期的に見て不可欠な作戦だった。あの状況では、誰かが捨て石になる必要があったし、誰かが、その命令を下さなければならなかった。それが俺の父であり、お前の父だった。あれは、それだけの話だったんだ」
「そ――」
それだけの話?
大切な家族が殺されて、それだけ、だと?
いつしか視界は歪んで、やがて頬をぼろぼろと熱いものが流れ落ちる。それが涙だと気づいた後も、セシリオは、あえて拭う気にはなれなかった。そんな暇さえ惜しいほどに、今は、目の前の大馬鹿野郎を睨みつけていたかった。
「お前は大切な人が殺されたことを、そんな言葉で片付けるのか」
わかっている。それでもアベルは正しいのだと。
そもそもあの戦争は、膨れ上がるロンゴリアの人口に見合う耕作地を手に入れるための苦肉の策だった。マレーホフへの侵攻も、その結果としての犠牲も、だから、全ては必然だった。やむをえない歴史の帰結だった。
そう、何もかも正しい。
正しくて必然で、でも、その正しさがセシリオはどうしようもなく悲しいのだ。
「片付けるなよ! 恨め! 僕を恨めよ! あの時父さんにやったように、僕にも石を投げろよ!」
アベルの胸倉を掴み、揺さぶりながらセシリオは叫ぶ。ほとんど子供の癇癪。だが、見苦しいのは承知で、それでもセシリオは叫びを止められない。
「恨めよ! 頼むから恨んでくれ! じゃなきゃ、僕は」
「お前は、それでいいのか」
その声に、セシリオははっとなる。これが今のアベルの声なら、なぜ、この期に及んでそんな優しい声で語りかけることができるのだ。
おそるおそる顔を上げる。普段と変わらない静かな、しかし、ひどく悲しげな双眸が、じっとセシリオを見下ろしていた。
ああ、何て嫌な奴。
こんな顔で声で問われたら、つい否定したくなる。本当は恨んで欲しくはないのだと、その優しさに甘えたくなる――でも。
「ああ」
思えばずっと、アベルには甘えてばかりいた。わがままで振り回し、剥き出しの感情をぶつけては困らせ、戸惑わせた。自堕落な生活態度で苛立たせ、理不尽な命令で不便を強いた。それらをアベルは、文句の一つも言わずに受け止めた。時には、その従順さにセシリオの方が苛立ちを覚えるほどに。
だが、これ以上は甘えられない。それは、セシリオの魂が許さなかった。
そっとアベルの胸板を押しやり、制服のままベッドに潜り込む。頭も心も時化の海のようにごちゃごちゃとして、スピーチの内容など到底浮かばない。明日は仮病を装ってでも朝礼を休もう。とにかく今は、もう、何も考えたくない
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