114人が本棚に入れています
本棚に追加
大陸の西の雄、ロンゴリア帝国には、大陸中に知られる精強な陸軍が存在する。
兵士の練度は大陸随一を誇り、他国が今なお貴族たちの私兵に防衛力を依存する中、ここロンゴリアでは早くも中央集権的な国軍が形成され、国防の全責任を担っている。その強大な権力が可能とする一元化された命令系統が、ロンゴリア軍の強さを支えていると言っても過言ではない。
もう一つ、ロンゴリアの強さを支えるのは実力主義に重きを置いた人事だ。例えば、陸軍が管理下に置く帝立の士官学校では、貴族だけでなく平民の子息にも士官の門戸を開いている。優秀な男子には誰であれ教育を授け、貴重な兵の命を預けうる将校に仕立て上げる。その能力主義もまた、ロンゴリアの覇を支える理由の一つだった。もっとも――
そんなものは所詮、表向きのまやかしだ。
実力主義を掲げる緞帳の裏側では、今なお陰湿な貴族主義が横行している。人事や高度な軍事的決定の多くは、彼ら貴族たちが内輪だけで決めてしまう。その決断の場に、平民出身の軍人が同席することは少ない。どれほど優れた働きを見せようとも、彼らが緞帳の裏側に招かれることは決してないのだ。
そしてこの日も、そうした貴族どもの集いが帝都郊外のドミニコ伯爵の別邸で開かれていた。
毎年この日は陸軍の創立記念日ということで、軍人たちは各々の任地で祝賀行事を催す。中でも、ここ帝都で開かれるドミニコ伯爵のそれは壮麗の一言で、顔ぶれも一層豪華なことで有名だった。全国から参集した将官クラスの面々はもちろん、参謀本部の重鎮もこぞって顔を出す。そんな中、幸運にも同席を許された若い将校たちは、重鎮たちへの覚えを良くすべく必死になって媚を売り歩く。愚にもつかない冗談でも全力で笑い、苔むした古い戦術論すら真剣に傾聴する。
「吐き気がする」
見た目だけは豪奢な、シャンデリア輝く大広間の片隅で一人、紅茶を啜りながらセシリオはそう吐き捨てる。表向きは実力主義を謳うロンゴリア陸軍の、所詮は実態がこれだ。今夜このフロアに立つのは、例外なく貴族階級出身の人間ばかりだ。それは若手将校も例外ではなく、要するに、貴族の出自でなければ上にへつらうことも叶わない。
そうして上への覚えを良くした貴族階級の新品将校どもは、平民出身の同期たちを置き去りに出世街道を驀進する。大した実績もなく愛嬌だけで軍の重要ポストに就いた連中は、無責任な権威欲を持て余し、結果、無茶な行動に出る。
そうして犠牲になるのは、多くの場合、辺境を護る平民出身の将兵なのだ。
「やぁセシリオ君、どうしたんだい?」
振り返ると、一人のでっぷりと太った老将校がニヤニヤとセシリオを見下ろしていた。
「お母様似の愛らしい君が、仏頂面で壁の花に甘んじていてもつまらんじゃないか。それとも、ははっ、エスコバル将軍のご子息ともあろう君が今更恐縮かい? なぁに気にする必要はない。遠からず君も武勲を立て、お父様と同じく英雄と呼ばれる男になる。むしろこうした場には今から慣れておくことだよ」
そう訳知り顔で語る老将校の双眸が、殊勝な言葉に反して好色そうにぎらついていることにセシリオは気付いていた。今回に限らない。こうした場に初めて連れ出された六歳の頃からずっと、セシリオは大人たちの舐めずるような視線に晒されてきた。
セシリオの母は、かつては帝都でも有名な舞台女優だった。妖精と見紛う可憐で愛らしい容貌は、当時、帝都中の男たちを虜にしたという。流れる水のような金髪と、触れれば雪のように融けそうな白い肌、熟れた果実を思わせる紅く艶やかな唇。長い睫毛に縁取られた瞼の奥では、深い青紫色の双眸が愁いを帯びた光を湛えている。そんな彼女の美貌を丸ごと引き継いだセシリオが、ただでさえ血の気の多い軍服姿の男たちを惹きつけてしまうのは、ある意味、仕方のないことだったのだろう。
が、それは第三者に言わせればの話だ。当の本人であるセシリオには、ただ吐き気を催す好色の視線だ。
それでもセシリオが、この容貌を自ら嫌悪したことは一度もない。
家族の中で唯一、セシリオを愛してくれた母。そんな母との血のつながりを示すこの顔は、セシリオに言わせればむしろ誇るべき宝だ
だが。
あの男は、そんな息子の母への愛情すら利用した。
母はこの世ならざる美貌の持ち主だったが、一方で、お世辞にも出産に適した身体ではなかった。ただでさえ身体の弱かった母は、跡継ぎを望む父によって何人も子を孕まされ、六人目を産まされたところでついにベッドを離れられない身体となった。しかも、せっかく産んだ子供さえ立て続けに流行り病で喪い、ついには心すら患ってしまう。
その母を、しかし父は、もはや用済みとばかりに家から追い出そうと図った。母を追い出し、新しく子を産めそうな女を妻に迎えるのだと――それを引き留めたのがセシリオだ。ここで母を追い出せば、それは見殺しにするも同然だと。
だが冷酷な父は、そんなセシリオの感情さえ利用した。かねて士官学校行きを拒んでいたセシリオに、学校に行けば家に置いて治療を続けてやると、そう脅迫をかけてきたのだ。父が息子を使って院政を敷こうと目論んでいることは以前から察していた。が、まさか、こんな強引な方法でそれを強いられるとは、さすがのセシリオも予想していなかった。
誰が、あんな男の背中を追うものか!
とはいえ、そんな憤りを目の前の老人にぶつけたところで何の意味もないことをセシリオは理解している。母譲りの美貌ににこやかな笑みを貼りつけると、当たり障りのない礼を告げてその場を離れた。
なおも会場は、若手を派閥に取り込みたい老人どもと、そんな老人どもに取り入りたい若手将校どもの愛想笑いでさんざめている。心底うんざりしたセシリオは、一人、人気のないテラスへと足を向けた。
テラスに出ると、会場の温気で火照った頬を、晩秋の夜風がひやりと撫でた。
フロアの喧騒とは裏腹に、ここは驚くほどの静寂で満たされている。眼下に目を向ければ、星空と見紛う景色がどこまでも続いている。帝都ロンゴリアードの夜景だ。
わかっている。
こんなところに逃げ込もうと、今のセシリオはすでにあの連中のご同類なのだ。人を殺すことで勲章を貰い、それを酒の席でひけらかすような連中と。
「こんなところで何をしている」
その声に、セシリオは腹の底がぞっと冷たくなる。
てっきり気付いていないものと思っていた。が、抜け目のないこの男は、会場からセシリオが消えていることに早くも気付いていたらしい。
「別に。夜風を浴びていただけですよ、お父様」
吐き捨て、振り返る。
案の定、セシリオが世界で最も憎み嫌う男がそこに立っていた。
軍人らしい広い肩と分厚い胸板。その胸は、軍服を覆い隠すほどの勲章でじゃらじゃらと飾り立てられている。が、こんなものでいくら飾り立てたところで、この男が人でなしであることに変わりはない。それでも世の多くの人間はこの外面に騙されるのか、男たちは彼を英雄と称して羨み、女たちは女たちで、その無駄に甘いマスクに心をときめかせる。噂では今も、とあるオペラ歌手と浮名を流し、さらに別の女に何人も子を産ませているという。
アーロン=エスコバル。これまでの戦争で数々の武勲を立て、とくに先の戦争では、エルナンド峠の撤退作戦によって十万人の将兵の命を救ったとされる英雄――
だが。その息子だけは唯一、この偉大なる英雄の冷酷な素顔を知っている。
「お前のような若輩を、何のためにこの場へ呼びつけたと思っている」
「僕がいつ、こんな場所に呼んでくれと頼みました」
「お前の頼みなどどうでもいい。ともかく今は、一人でも多くの将軍と挨拶を交わせ。エスコバル家の跡取りとして生まれたお前の、それが義務だ」
冷ややかに告げる父親を、セシリオは静かに睨み付ける。が、この程度の反抗では何の意味もなさないことを同時にセシリオは自覚していた。
仕方なくセシリオは、別の話題へと水を向ける。
「お母様は、ご健勝でいらっしゃいますか」
屋敷との通信の一切を禁じられた以上、この男の口から聞き出すほかに母の現状を知る手段はない。何かしら回復に向かっているのか――いや、この際、生きてさえいればそれだけでいい。生きて、日々を心穏やかに過ごしてくれさえすれば。
ところがこの男は、そんなセシリオの願いすら軽く鼻で嘲笑う。
「私の息子ともあろう者が、いつまでも母親を恋しがるとは情けない」
「答えろッッ!」
さすがに今度は、セシリオも声を荒げざるをえなかった。
「今の僕にとって、お母様の幸福こそ生きる意味の全てだ! それを奪う真似をしてみろ。お前の下らない野望ごとここから飛び降りてやる!」
そしてセシリオは、石造りのテラスの手摺りを拳でドンと叩く。テラスの下は深い断崖で、飛び降りればまず命は助からない。それでもセシリオこどは本気だった。どのみち生きていたところで、この男の傀儡として生きる以外に道はない。自由を手に入れるには、それこそ自ら命を断つ以外に方法はないのだ。
さすがに今度はセシリオの気迫が勝ったのだろう、うんざり顔で父は答えた。
「生きてはいる。今はまだ、な。わかったらさっさと挨拶回りを始めろ。これは命令だ」
言い捨てると、それ以上は何も答える気はないとばかりにさっさと踵を返し、フロアへと引き返してゆく。その広い背中を見送りながら、セシリオは父への憎悪を新たにしていた。
今に見ていろ。いつか、必ずこの世界を変えてやる。
その時こそ、お前の権威が地に堕ちる時だ
最初のコメントを投稿しよう!