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尊い落人の話
いつの頃かはわからない。だが、菅原道真が活躍した頃よりは昔で、聖徳太子のいた時代よりはあとであろうと伝えられている。
この地に人が住まうようになって、いつしか小さな村ができた。
村は幾度か飢えた。村は幾度か争った。
しかし滅ぶほどの危機はなかった。
その村に男がひとりやってきた。
男はどこからか逃げてきた尊い血筋の人間らしかった。
戦に負けて――他国とのものか、国内でのものか、大きいものか、小さいものかはわからないが――この地に逃げてきたのだという。つまりは落人であった。しかしその頃は落人なんて言葉はなかったので、そうは呼んでいなかっただろう。だが、あまりにも古い時代の話なので、何と呼んでいたかまでは伝えられていなかった。
運のいいことに、そのとき村は飢えてもおらず、争いの最中でもなかった。だからひとりぐらい落人を迎えたところで問題はなかった。
それに落人は不思議な力をもっていた。
天候を予知し、病人を快癒させた。それだけでなく落人は物知りだった。穀物を育てるよい土の作り方を教え、神代の物語や異国の歴史をそらんじた。
知識だけではなく、生き方についてもよく説いた。それらは村に秩序をもたらした。
落人が村に流れ着いてから五十年が経った。
落人はすっかり老いた。村は落人の教えを守って飢えも争いも少なくなった。
そうして老いた落人は死んだ。ある日いつものように眠ったと思ったら、そのまま死んでいた。寿命だった。
村人は落人の死を悼んだ。
落人は終生妻をもたず、子ももたなかったので、血のつながった家族はだれもいなかった。だが、村の人はみんな落人を慕っていたので、全員で盛大にその弔いをした。
しかしそうして手厚く葬られた落人の名を、誰も知らない。
だから墓標にはなにも刻まれず、ただ、村で最も尊い大恩人のいた証であるとだけ伝えられる。
これが、村に伝わる最も古い話である。
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