花の名前

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足音。 と気づいた瞬間、心臓が悲鳴を上げた。 服の上から黙れ、と強く押さえ込む。 話し声。 何を言っている? 流れるような。 早口の。 理解できない。 言葉。 敵兵だ。 小さく見えている人工的な灯。 2人いる。 可能な限り体を丸めて小さくした。 動きを止める。 口を押さえて息すら、止める。 少しでも生き物の気配をさせれば勘付かれてしまうような。 そんな気がした。 耳と目だけじっと凝らす。 血がいつもの何倍もの速さで駆け巡って、脈の動きがおかしくなっている。 まるで耳の後ろに心臓が来てしまったような、強い鼓動を感じた。 1歩。 1歩。 右足、左足。 歩くたびに揺れる灯。 そして。 それはゆっくりと右側に曲がっていった。 明かりが見えなくなって、全身から力が抜けた。 立てた膝にがくりと額を乗せる。 気持ち悪い。 心臓も脈もまだ喚き散らしている。 冷たい汗が背中を伝っていく。 ただ見ていただけなのに、全力で走った時のような息切れだった。 夜の闇がぐっと深まった。 何処からか遠吠えが聞こえる。 オオカミのものだ。 そうか。 人に見つからなくても獣に見つかる可能性だってあるのだ。 確か別働隊が冬眠し損ねた熊に襲われて大きな損害を受けていた。 靴の中で足の指先を閉じたり開いたりしながら、死ぬとはどういうことだろうと疑問が湧いた。 ここに来るまでもここに来てからも沢山の死体を見た。 目の前で死んでいった人達も大勢いる。 多くの死体を見て、それでも死そのものはよく分からない。 ただ分かるのは、今一瞬でも眠れば、考えることを止めれば、自分の何かが無理矢理引き裂かれてしまう、ということだ。 遠くに人工的な光が見えた。 ぐっと体を丸めて息を詰める。 睨みつけたその先でそいつは何処かへ消えていった。 ふと思う。 この闇の中では味方が来ても分からない。 このまま誰にも見つからなかったとして、俺はどのくらい意識を保っていられるだろう。 その晩は幾度となく人工的な光を見た。 獣の足音や鳴き声も聞いた。 その度に息を詰めて体を固くして、それにも疲れてきた頃、ようやく東の空が明るくなり始めた。 オレンジ色の朝日が眩しい。 空は少しずつ明るくなって、夜の気配を侵食し始めた。 嗄れた鳥の鳴き声がする。 朝だ。 ……くっ。 唐突に何かを踏む音がした。 足音だ。 体が強張る。 足音は雪を踏みつけてそっとそっと近づいてくる。 それも1つ。 軍刀を構えた。 もし味方だったら上々だ。 敵だったとしても1人なら切り抜けられるかもしれない。 足音は、人の気配は、変わらずこちらへ近づいてくる。 鞘からそっと刀を引き抜く……。 「わっ」 柔らかい声が空気を震わした。 こちらを覗き込んでくる、顔。 白い肌。 黒い瞳、黒い髪。 同じ軍服。 ニホン兵を表す烏の腕章。 女、だ。 女はへたへたと雪の上に座り込んだ。 「ずっと探してたんだよ」 疲れ切ったような、緊張の取れたような顔でそんなことを言う。 「貴方、第7歩兵団の方よね」 「ああ……」 よかった。 胸の底から出てきたようなその言葉は、氷のように固まった鋭い空気の中を一瞬揺るがすような、不思議な温度があった。 きょとん、とする俺の前で女は朝日よりも眩しく笑ってみせた。
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