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「だからもう、あんな無茶しないでね」
そう言って額をくっつけると頬をつかんだ。軽くつねると、矢子が痛がって目を瞑る。それが可愛くて、鼻先に唇を押しあてた。
「矢子さん、雨の味がする」
「雨の味って、どんなですか?」
「舐めてごらんよ」
それじゃあ、と遠慮がちにユカの頬を舐めると、彼はくすぐったそうに笑う。
「雨の味って、しょっぱいのね」
「それ、汗だと思う」
益々笑いが止まらないユカを、矢子はきょとんとしながら見ていた。
矢子の突拍子もない行動は、いつだって自分を救ってくれると、彼は思った。
──彼女のおかげで、やっと本当に呪いが解けたような気がする。
愛されたいと願うこと。それが彼にとっての呪いだった。
いつだって期待に応えたくて、見て欲しくて。
でも、心から自分を『欲しい』と叫んでくれる人がいる。それを父に知ってもらう事ができた。
父は矢子の行動に驚き、『佳佑』を呼んだ。佳佑はちゃんとそこに存在したし、父は普通の人間だった。そんなことに、心底驚く。
そして何より、自分が父の前で、スカート履いたまま、彼にウィッグを投げつけるという暴挙に出れたこと。
自分の矜持や父親より、矢子が大事だった。
逆らってみたら、もうどうってことはない。
冷静に見れば、父親は哀れな男だ。
父は、美しく奔放な母をずっと追いかけていた。やっと手に入れて子供が産まれたら、閉じ込められた彼女はおかしくなり、その子供を憎んだ。
──お前さえいなければ。
父は自分の子を愛することは許されず、母は当てつけるように他の男と子供を作り、見せびらかすように可愛がった。そんな女を、ずっと追いかけ続けている。
ただ、もしかしたら。
父が買ってきた誕生日プレゼントは、本当は佳佑にあげようと思ったものもあったかもしれない。青色のミニカーなんて、妹は喜ばない。
確証はなくとも、佳佑はそれをどこかで感じていたから、離れることができなかった。
けれど、もうやめる。
執着を手放して、彼らを許し、求めない。
目に見えないものを求め続けても、終わりはないのだから。
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